見出し画像

水中の死闘

 このまま眠ってしまいたい。僕は水の中で、よくそんなことを思っていた。ほとんど重力のない世界で、体がゆっくりと沈んでゆく。綿毛がふわりと落ちるように。その先は、青が暗くなってゆく。静けさが全てを飲み込んでいる。見上げれば明るく透明な蒼。その真ん中に溶けて揺れながら輝く太陽が眩しい。差し込む光線の束が、風になびくカーテンのように踊っている。そこに無数の気泡が、キラキラと小刻みに揺れながら舞い上がる。何かを祝うように、賑やかで悦びに満ちている。僕の体の中、血管を巡り、ミトコンドリアに入り込み、僕を生かした空気の粒が、地球を包む大気に戻ろうと、光を目指して昇ってゆく。ここでは、美しいという言葉さえ忘れてしまう。
 人間としては新鮮な世界。しかし、生き物としては懐かしい故郷。この「全ての命の胎内」で眠りにつくことができたら、どれほど心地よいだろうか。僕は水の中で、よくそんなことを思っていた。

 僕をダイビングに駆り立てたのは、宇宙飛行士に憧れた子どもの僕だろうか。ヨットの上から眺めた大海原、その下に広がる未知の世界に思いを馳せた青年の僕だろうか。はたまた環境問題に興味を持ち、命の故郷をこの目で見たいと願っている僕だろうか。きっと、全員なのだろう。複数の僕が別々の理由で一つの結論に辿り着く時、僕の行動は瞬時に、確実に行われる。

 ニュージーランドでダイビングができる場所はすぐに見つかった。電話で話を聞き、すぐに予約をして、数日後に実際に潜ることになった。その数日の間に一つの考えが浮かんできていた。それは、どうせやるならダイビングのプロになってしまおうというアイディアだった。
 すでに資金が尽きてしまっているので、どのみち働かなければならない。ならばできる限り有益な仕事をしたい。ダイビングを仕事にすれば、環境を学び、英語を学び、世界中に友達を作りながら、楽しく仕事が出来るだろう。これ以上の選択肢はないように思えた。

 そうして数日後、初めてダイビングに臨む日に僕はインストラクターにこう宣言した。
「プロになるのでよろしくお願いします!」
 優しそうな顔をしたインストラクターはこう答えた。
「一度くらい、やってみてから決めても良いんじゃないかな」
「いえ、絶対になります!」
 どうせ引かないなら、できる限り強固な背水の陣を敷いた方が、心の弱い僕自身を突き動かすにはちょうどいい。

 そんな風にして始まったダイビングのトレーニングも、約一ヶ月の工程があっという間に終わりを迎えようとしていた。そしてその頃には、すっかり潜ることにも慣れて、トレーニングの傍に水中銃を持つことが多くなっていた。水中でのハンティングである。ただ潜るだけでなく、獲物を獲るというスリリングな目的を持って潜るのが楽しかった。
 水中銃は、銃というよりクロスボウに近い代物で、ライフルのような細長い銃身に金属製の矢をセットし、強力なゴムを引いて掛け、引き金を引くとゴムが開放されて矢が放たれる。矢には返しがついており、魚に刺さればなかなか抜けない。矢の後方には細いワイヤーが付いていて銃身に繋がっている。突いた魚はワイヤーを手繰り寄せて捕獲する。この日も、水の中に降りていく僕の手には水中銃が握られていた。

 水面を見上げ、眠ってしまいという衝動を抑えながら潜行する。体が軽くなり、総重量20キロを超える装備も、水に入った途端重さを感じない。緊張と期待を噛み締めるように咥えた呼吸器から、ゆっくりと息をする。コロコロコロという音とともに気泡が立ち上ってゆく。
 ふわりと海底につき、深度計を確認する。水深14メートル。周りは巨大な岩による凹凸の多い岩礁で、所々で昆布の小さくなったような海藻の茂みが、ゆったりと揺れている。

 今日は透明度がいい。

 岩の隙間の砂地に移動し、膝立ちになってしゃがみ込み、水中銃を構える。深呼吸をして、意識を狩りに集中させてゆく。今日は大物に出逢える予感がある。目の前には、20センチほどのアジの群れがキラキラと優雅に泳ぎまわっている。それを眺めながら、過去の獲物を思い出す。
 僕の人生で、最初の獲物はウツボだった。初めて水中銃を渡された日。潜ってすぐの浅瀬で、岩の隙間からウツボが顔を出して口をパクパクさせているのを見つけた。僕はすかさず矢を打ち込んだ。運良く命中し、ウツボの刺さった矢を手繰り寄せると、ぐるぐると腕に巻きついてくる。すごい力と滑る体で押さえ込めない。恐ろしく硬い皮膚にナイフも通らず仕留められない。噛みつかれて血を流しながら格闘し、結局そのまま陸に上がるまで戦いが続いた。後で聞いたことだが、以前ウツボに噛まれて指を失った人もいると言う。運が良かった。苦労したが、ウツボの唐揚げはなかなかおいしかった。
 大きなタコを獲ったこともあった。タコはよく砂地に穴を掘って潜んでいる。その日は一際大きな巣穴を見つけた。手を突っ込むと、柔らかい感触。そのままがっしり掴み、一気に引っ張り出す。すると大きなタコが現れた。腕を広げて威嚇してくる。1メートルはあるだろう。瞬間、タコは墨を吐いてあたりが真っ暗闇になる。間髪入れずに八本の腕が僕の上半身の至る所に絡みつき、何も見えない中、呼吸器や水中眼鏡に吸盤が吸いついてくる。水中で機材が引き剥がされれば大変なことになる。死に物狂いで腕を振り解くが、すごい力で次から次へと攻撃を繰り出してくる。四倍の手数は伊達じゃない。隙を見てタコの腹部の後方にある穴に指をかけ、腹全体を裏表にひっくり返す。そして、露出した内臓を引きちぎるとようやく弱りはじめる。しかし、それでも動き続けるタコの生命力は圧巻だ。茹でて食べると、最高に美味しかった。

 ぼんやりと昔の狩を思い出しながら、20分くらい経っただろうか。目の前には、相変わらずゆらゆらと揺れる海藻と、チカチカ光るアジの群れ。
 突然、アジがビクッと一斉に反応し、あっという間に左の方に泳ぎ去る。3秒にも満たない間に、あたりは静寂に包まれた。
(え?何があったんだ?)
 と思った瞬間、辺りが一気に暗くなる。気づけば背後から現れた大きな魚が群れをなして僕を取り囲み、周りを旋回し初めている。堂々として貫禄のある泳ぎ。その迫力に圧倒されそうになる。この群れに光が遮られ、急に夜になったかのように暗くなったのだ。その魚は、それぞれ1メートルくらいはある。丸々として滑らかな円筒状の体に、黄色い線がエラから尾ビレにかけてすっと胴体の真ん中を通っている。ヒラマサだ。ここではキングフィッシュと呼ばれ、狩仲間の間では最も獲りたい獲物の一つとなっている。大きくて力が強く、味がいいというのがその理由だ。僕はその名前も気に入っていた。
 右手から左手へ渦を巻くように、キングフィッシュがひっきりなしに現れては後方へ回ってゆく。
(これはいける!)
 一気にアドレナリンが放出される。激しい興奮を内に感じて武者振るいをしながら、必死に冷静さを保って狙いを定める。群れが一周回って行くうちに一番大きい個体を見極めて、目で追いかける。僕の背後を通り、右手から現れて目の前に…。

 バシュッ!

 音とともに、ビーンという振動が水を伝って全身に伝わる。刹那、驚いた群れが一瞬にして青黒い水の向こうに泳ぎ去った。
 グン!と右手に握った水中銃が、物凄い力で引っ張られる。その先に一つの大きな魚影が取り残され、暴れ回っている。反射的に左手で銃身をガッと掴んでおさえこむ。
(早く手繰り寄せなければ!)
 気がつけば、僕の体は中空に浮かび上がっている。ワイヤーを掴み、全力で引っ張ろうと試みるが、凄い力で振り回されて逆に引っ張られてしまう。上に下に引きずられる。「絶対に負けるものか!」と気合を入れ直してワイヤーを握りしめる。
 いつの間にか、四方を海藻に囲まれて周りがほとんど見えない。海藻の森に引き摺り込まれたのだ。しかし、地面に足がついた分、少しだけ踏ん張りがきく。キングフィッシュの姿は海藻に隠れて見えないけれど、ワイヤーから伝わる引きによって、どこにいるのかは大体分かる。ギリギリと、テンションのかかったワイヤーが僕の周りを回る。
 突然、ワイヤーから伝わる引きがわずかに緩む。バサッ!海藻をかき分けて、いきなり僕の真正面からキングフィッシュが突進してくる。咄嗟に体を翻して躱すと、そのまま海藻の中に泳ぎ去った。ワイヤーが海藻の束に巻きついて回転軌道を急に変えたのだろう。ワイヤーに巻かれて捻じ切られた海藻がひらひらと漂ってくる。
 もしもワイヤーが体に巻き付いたらと考えるとゾッとする。さっきの突進も危なかった。キングフィッシュの体には、矢が串刺しに打ち込まれている。突進時に、その矢が僕の体や機材に当たればただでは済まないだろう。
(そうか。油断すれば、やられるのは僕の方だ)
 この時が人生で初めて、自分が食べようとしているものに殺されるかもしれないと思った瞬間であった。

 かなり息が上がっている。全身に疲労を感じる。水中でこれほど体力を消耗したのは初めてだ。タンクの中の空気の残量も少なくなってきている。水中にいられるのはあと7分もないだろう。
(呼吸を整えろ。落ち着け)
 渾身の力で、ひと引き、またひと引き、徐々にワイヤーを手繰り寄せる。再び、突如現れるキングフィッシュを必死で躱す。ワイヤーが短くなってきた分、円周が短くなり僕の周りを回転する速度が上がる。僕は海藻の森の中でぐるぐると踊らされて目が回りそうだ。距離が近くなった分、出現頻度も上がる。躱してはひと引き、また躱してはひと引き。ギリギリの攻防が続く。
 ついに矢の根元が海藻の間から姿を表す。少し引くと、キングフィッシュがぬっと現れ、目の前で暴れ狂う。やはり矢が当たるのは怖い。しかし、考えるより先に本能的に手が伸びる。右手で矢を掴み、一気に引っ張って、左手でキングフィッシュの顎から両エラをグイと鷲掴みにする。渾身の力でエラと矢を握り締めて引き寄せて、両足で尾ビレを絡めとり、柔道の絞技のような形で動きを封じる。
(ついに捕らえた!)
 息がかなり上がっている。心を落ち着けて、3呼吸だけ動きを止めて息を整える。もう一度意識を集中し、右手の矢を離し、そのまま右足首につけているナイフに手を伸ばす。強い力で逃れようと悶えるキングフィッシュ。締めを解かないように力を入れる。なんとかナイフを手に取り、しっかりと握り締め、両のエラに刃を入れる。そうすることで魚は呼吸ができなくなり窒息するのだ。辺りが血で暗く滲む。そのまますかさずナイフで腹を割き、内臓を手で取り出す。すると、ようやくキングフィッシュの動きが鈍くなる。
(やった!ついに大物を捕らえた!)
 強烈な喜びと達成感。「よーし!」と叫ぶ声が「ヴー!」という低い音になって響く。水中では話せないと知っていても叫ぶのを抑えられない。

 束の間、喜びを噛み締めて現実に戻る。あとは無事に帰らなければならない。空気の残量はわずかだし、水中に放り出した内臓や血に引き寄せられてサメが来る可能性もある。ロープをキングフィッシュのエラに通して腰のベルトに縛り付ける。ひと段落して、岸に向かって泳ぎ始めながら、僕の腰に括り付けられたキングフィッシュを眺めると、まだ微かに動いている。衝動的な喜びの波は引いて、複雑な感情が湧いてくる。

やり遂げることができてよかった。
しかし、あれほどまでに激しく命をぶつけ合った相手が今は動かない。
申し訳なさ、寂しさ、これで良かったのかという想いが込み上げる。

一歩間違えば命を失うのは自分だったかもしれない。
しかし、危険がこの身に降りかかったことに、不思議と違和感がない。
命を頂く時に、僕自身も命を失う可能性がある。
それが、とても自然でフェアなことのように感じられた。
そして、僕もこの命の繋がりの一部なのだという実感が湧いた。
戴いた命への感謝が込み上げる。

ありがとう

 これまでの生活では、食べものに対してここまで感謝を感じられたことはなかった。物心ついた時から、何かを食べられるのは当たり前だった。「人間が食べているものは、全て生き物である」ということに気がついていなかった。命ではなく、物のように扱ってきた。
 今まで「いただきます」と言いながら、その意味を全く理解していなかったのだと痛感する。これまで戴いてきた、無数の命に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、涙が出そうになる。

 なんとか陸にたどり着いた。立ち上がると、機材の重さが一気にのしかかる。体は疲れ果て、歩こうとしても砂利の浜に足を取られる。フラフラになりながら、なんとか浜を登っていく。
「おお!やったな!大物だ!」
 仲間たちが駆け寄ってくる。その笑顔に、僕も気持ちが切り替わり、素直に喜びを開放する。
「ついにやったよ!」

 せっかく戴いた命だ。思い切り、喜びとともに頂こう。そのままみんなで街に帰って祝いの宴を開く。刺身、寿司、煮付け、アラ汁、どれも本当に美味しい。さらに、ここには味を超えて感じられる美味しさがある。戴いた命の重さを感じさせてもらえること。そして、それを共に喜び、祝い、食卓を囲み、盃を交わせる仲間がいてくれること。これ以上の美味しさはない。

 これ以来、僕は必ず手を合わせて「いただきます」と言うようになった。日々動き続ける左右の手を合わせて止めると、思考が静まり、心が落ち着き、目の前の戴くものに集中できる。そして、戴く命の辿ってきた道のりに想いを馳せて「いただきます」と内側に響かせる。
 有難い。丁寧に、生きていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?