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敵はどこだ?

GW最終日の夕方。
否が応でも明日の仕事が頭にちらつき出す頃である。 憂鬱である。時間がゆっくり進まないかなんて、バカなことを考えてしまう。

因みに連休明けは、心筋梗塞や脳卒中の発生率も高くなるらしい。皆多かれ少なかれストレスを感じているということか。

社会人生活も4年目になって、人が多いオフィスで仕事を進めるのがあまり得意ではないことがわかってきた (薄々は気づいていたが)。

始業前や、終業時間後といった人が少ないシチュエーションのほうが仕事がはかどる。できれば一人、少ない人数の職場で仕事がしたい。

そして、人の多い「会社」という組織で働くことが向いていないのではないかと考えるようになった。
社内政治や行き過ぎた忖度にもいい加減飽き飽きしてきたし、部署内で他部署の文句を言い、留飲を下げるしかない日々にもおさらばしたい。

なぜこんな現状なのかと思案を巡らせてみる。

私の両親の教育方針は、放任主義…とまではいかないまでも何かを強制することはなかった。勉強をしろと言われた記憶も無いし、やりたいことをやりたいようにしなさいというスタンスだった。

当時は、自分のやりたいことを選んでいるつもりだったけれど、今振り返れば、無意識のうちに自分の中に生まれてしまった「こうあるべき」という縛りに流されてしまったように思う。始まりは高校生時代からだろうか。

数学もある程度できるし就職を考えると、理系のクラスに入っておくべきだ
理系の学部に進んだからには、大学院へいくべきだ
大学院まで行ったからには、研究職へ就くべきだ
みたいな感じで。
自分で作り出した「こうあるべき」で自分の首を絞めていた。
絞めている手をよくよく見てみたら、他人の物ではなく自分自身のものだった。

大学院での研究生活はとても楽しかったし、後悔はしていない。
研究室生活で、物事をロジカルに考えることの面白さや、どうすれば自分の伝えたいことが伝わりやすくなるのかを学ぶことができた。
有意義な時間だったことは間違いない。

ただ…「もしも」を考えても仕方がないのだが、もしも高校1年の進路選択の際に文系コースへに進んでいたら、自分に合っている働き方をしている自分がいたのではないかと考えてしまう。

そんなことを考えても当然高校1年生には戻れないし、その選択をしたことで現状より悪くなっていた可能性もある。

今からできることは、シンプルだが「何がしたいかを考える」に尽きるような気がする。もちろん「こうあるべき」という考えは排除して。

もう一度、どういう働き方をするか、何がしたいのか考えなおすタイミングが来たのかもしれない。
幸か不幸か「おうち時間」は普段よりも多いので、考える時間は十分だ。

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