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宗教的トラウマ症候群:教化によるトラウマ

前回に引き続き、マーリーン・ウィネル博士が2011年に発表した記事の第二部です。

第三部はこちらです。

今回の記事の英語タイトルはTrauma from Religion(宗教からのトラウマ)なのですが、あえて「教化によるトラウマ」と訳してみました。宗教の心理的に有害な側面の話をする時、英語ではindoctrinationという単語がよく使われるのですが、日本の宗教二世界隈ではそれに相当する単語がこれまで存在せず、上手く言語化できていなかった感覚を、「洗脳」や「マインドコントロール」ほどネガティブな含みがなく、好影響も悪影響も及ぼしうるニュートラルなプロセスである「教化」の否定的側面に注目するという形で捉えようとしています

宗教的トラウマ症候群:教化によるトラウマ

Marlene Winell, Ph.D.

被害者を生みやすい原理主義的な宗教団体は、閉鎖的で自己完結的な教えと、権威主義的な世界観を維持するためのしくみを持っており、それに徹底的に服従しなければ集団内に居場所を得たり、死後に希望を持つ事はできせん。疑問を持たない限り集団の中は快適な環境になり得ますが、このような状況下では、子供は非常に早い段階で自分の考えや意見を抑圧し、自分が感じたこと信じなくなっていきます。真理は聖典や宗教指導者といった外部の権威から与えられるものだと信じられており、個人的な気づきや科学的な証拠は信じるに値しない、という考え方が強く支持されるため、指導者たちは信者に荒唐無稽な主張を受け入れるさせる事ができます。どれだけ宗教に貢献したかが評価され、子供達も含めたメンバーたちは、更なる信者獲得のために布教するよう求められます。服従する事こそが最も大切であるとされ、個人の成長は妨げられます。

宗教を離れるというトラウマ的体験の前に、すでに心理的な問題が宗教団体の内部でも起こりうることは明らかでしょう。聖書に基づいた原理主義団体のサバイバーは、イエスの死や聖書で語られる残虐行為、自分や他人が地獄へ落ちてしまうことへの恐怖を感じていたり、邪悪な世界で宇宙規模の残虐なドラマが繰り広げられる中、弱き人間の力の無さに絶望していたりと、死や傷害に直面する事に対しての恐怖感や無力感を訴えており、これは他のトラウマ的体験に対する反応とよく似ていると言って良いでしょう。

有害な教義
有害な教会や宗教団体は、それぞれの信仰や実践の仕方が異なっていたとしても、核となる教義に共通性を見出す事ができます。権威主義的宗教は、人間の最も原始的で強烈な感情である恐怖を基盤にしているため、非常に強力な心理的影響を持っています。また、「人間の本質は悪であり、救いが必要である」というメッセージを伝え、自らの存在を恥じるように仕向けます。こうして、生き延びるためにも、受け入れられるためにも宗教が必要だ、という考え方が代々伝えられていくのです。

永遠の罰
有害な教義の中で最も代表的なものは、未信者には永遠の罰、または滅びが待っているというものでしょう。これは、新しく信仰の道に入る人たちや、宗教二世の子供たちに対して語られる、希望に溢れた救いのメッセージの隠された一面です。聖句やイエスの言葉が引用され、どんなに訴えても決して逃れることのできない永遠の拷問、苦痛に溢れた火の海といった、地獄のイメージが鮮明に描かれます。モルモン教徒は「外の暗闇」と呼ばれる暗く冷たい地獄を最も恐るべきものとし、エホバの証人はハルマゲドンで永遠に滅んでしまえば楽園を逃してしまうと脅します。

小さな子供たちは、このようなイメージを詳細に思い浮かべることはできても、この教えが真実かどうかを吟味できるだけの脳が発達していません。周りからの強い圧力によって、こうした教えを拒否する事はほとんど不可能である中、子供たちは宗教的な大人達の思うがままに強化されていきます。

これを信じれば救われる、これをすれば救われる、といった「救いの公式」が解決策として提示されますが、多くの人にとってこれは不安を払拭するためには十分ではありません。本当にこれで永遠の苦しみから救われるのだろうか?救いを失ってしまってはいないだろうか?といった絶え間ない恐怖に襲われ、何十回も、何百回も「救われよう」とした経験を語る人も少なくありません。

「人生のほとんどを恐怖の中で過ごしてきました。教えられてきたことから解放されて平安を見つけるため、できる限り色々な本を読んでいます。もう65歳ですが、まだあらゆることを恐れています。」

「地獄への恐怖を手放すのは到底不可能に思えて、希望があるように感じません。教会で過ごしたこれまでの人生は、混乱、心の傷、失望、不安、答えのない疑問しかもたらしませんでしたが、今信じていることを手放したら私は地獄に落ちてしまうでしょう。」

取り残されることの恐怖
イエスが再臨した時に忠実な信者は天に引き上げられる(携挙)と信じる教会も多くもあり、その時に取り残されてしまうのではないかという不安は大きな恐怖となり得ます。どこを探しても親の姿を見つける事ができなかったとき、邪悪な世界にたった一人取り残されてしまったのではないかと、恐怖でパニックになった事があると語る人は少なくありません。見捨てられることは人間にとって最も基本的な恐怖の一つですから、この経験が忘れ難い恐怖体験になったとしても不思議ではありません。すぐに親の姿を見つけられなかった度にこのトラウマ体験が繰り返されていたという人もいます。

「大学一年生の頃から悪夢を見るようになりました。夢の中で私は取り残され、時には地獄に落とされました。炎の中に放り込まれ、口を開けて大声で叫ぶ直前に目が覚めたことも何度かありました。心の中でこう叫んでいました。「イエス様!許してください!ごめんなさい!わたしはあなたの期待に応える事ができませんでした!ごめんなさい!」」

「27年間、完璧な人生を送ろうとしてきましたが、失敗を犯してしまいました。一日中こんな自分のことを恥ずかしく思っていました。いつも教えられたことは全て信じていましたが、それでも神に見放されてしまったように感じました。私もハルマゲドンで死ぬのだろうと絶望していました。」

脅威に満ちた世界
至る所に悪が存在しているという教えを信じている限り、信者は世の中で安全を感じる事はできません。原理主義的な世界観では、「この世」は堕落しており、イエスが再臨して神の正義が行われるまで、サタンとその手下達によって支配された危険な場所であると考えます。また、「この世」は霊的戦いの戦場であり、子供達はキリスト教に関係のないものは全て警戒するよう教えられます。教会では「この世」のものは悪いものだと批判され、親は子供が「この世」の影響を受けないようにと、宗教的な学校に通わせたり、ホームスクールで教育を受けさせることもあります。子供達は宗教的な文化の外にあるものに慣れ親しむ事ができず、それらを恐れて育つことになります。

「地獄の苦しみや異言(不可解な言葉を語りだす現象)が話されるのが当たり前の環境で育ちました。外の世界はあらゆる誘惑に満ちており、罪人たちが私を破滅に引きずり下ろそうとしている、邪悪で危険な場所だと信じていました。」

悪魔に関する記述を文字通りの事実として理解することに重点を置くグループもあり、信者はどこにでも潜んでいる悪霊の存在を恐れるようになります。そのような信者たちにとって、救いとはすなわち悪魔の攻撃から守られることであり、日常生活を送る時も常に「神の武具」を身に着けているようにと注意されます。恐ろしいイメージを伝えるためによく引用されるのがペテロへの手紙第一、5章8節です。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

罪深い自己
原理主義的キリスト教の中で、地獄に次いで有害な教えといえば「原罪」でしょう。人類の堕落について繰り返し語られ、どれだけイエスの救いの恵みのことを聞かされたとしても、子供たちは(そして大人たちも)自分は邪悪で欠陥があるのだという思いを抱え続けることになります。ある元信者はこれを「おとり神学」と呼びました。「あなたは救われた」というメッセージを使って勧誘しておきながら、実際に入ってみると「罪深いあなたは救われるに値しない」と教えるからです。

「神に罰せられる代わりに自分を罰しようと思い、腕を切りつけたり、火傷を負わせたり、薬物乱用したり、絶食したりして、何年もの間自分を傷つけてきました。私の人生に良い事が起こっても大丈夫なんだと感じられるようになるまで長い時間がかかりました。」

信者達は、宗教によって定められたルールを守らなければならないという思い責任を負わされながらも、ルールを守るための能力は与えられていない、という矛盾する二つの束縛に苦しめられます。神が祈りに応えなかったり、約束されているはずの力を信者に与えなかったりしても、決して神が責められる事はありません。

「人生のほとんどを神の怒りを鎮めるために努力してきましたが、どれだけ祈っても、どれだけ聖書を読んでも、どれだけ愛しても、十分だと思う事はできず、自分はどうしようもないダメ人間なんだと思っていました。」

このような宗教の中では、自分は良い人だとか、賢いとか、強いとか、愛情深いとか、有能だと考えることは傲慢とされ、重い罪だとみなされます。このような美徳は自分のものではなく、完璧である神から与えられるものだと信じられているからです。どんなに良いことをしてもそれは全て神のおかげであり、悪いことをすればそれは全て自分の責任になってしまいます。信者は神の素晴らしさを反映し、完璧な神の意思に従うのだと言われます。しかし、もしそう上手くいかない場合はどうでしょうか?原理主義的なキリスト教は、あらゆる個人的な問題の解決を約束しますが、それが果たされない時、その責任と強烈な罪悪感は神ではなく個人が背負う事になるのです。

「子供の頃から苦しんできたうつ病や依存症から自分を解放するため、キリスト教徒になり、言われた事はなんでもしました。断食し、祈り、世俗的なものを断ち切って、十分の一を献金し、聖霊を授かり、聖霊のバプテスマを受け、聖書を読んで、聖句を覚え、あれもこれも必死に試しましたが、どれも根本的な解決には至りませんでした。自暴自棄になって、自ら命を絶とうと思ったことさえあります。」

悪霊の憑依
子供が悪さをした時、子供が親の手に負えない時、子供の行動の裏には霊的な原因があると(しばしば聖職者によって)判断された時、子供が悪霊に取り憑かれていると非難されるという、特殊な虐待が起こり得ます。悪魔に憑かれているなどというレッテルを貼られる事は、非常に恥ずかしく、恐ろしい事です。強制的に悪魔祓いがなされる事は現代であってもよくある話で、これは大人になってからも影響を与えるトラウマ的体験になりかねません。

「親が子供に『あなたは汚れた霊に取り憑かれている』と伝え、悪霊を追い出そうとするなんて本当に間違っています。子供が悪魔に取り憑かれているなどと考えるのは、親が盲信しているからに他なりません。子供は残りの人生を、親、神、地獄、携挙、週末、死、暗闇など、あらゆる事に怯えながら過ごすことになるのです。」

虐待の連鎖
信者の苦境には終わりがなく、罪、罪悪感、許しと救い、というサイクルを繰り返しますが、これは家庭内暴力の虐待の連鎖とよく似ています。信者が神との「個人的な関係」を持っていると言う時、それは多くの場合完全な支配と服従関係の事であり、彼らはこのような「愛」に感謝すべきであると確信しています。支配的な夫のように、この神は全能を誇る支配的な男性であり、彼の言葉は逆らうことのできない絶対的な法律であるとされます。熱心な信者は「悔い改め」、「改心」して、再び神に従うことを誓います。すると、一時的にではありますが、不安から解放され、前向きな気持ちになります。こうして忠誠心を強化する機会が定期的にあることによって、虐待の連鎖が維持されるのです。献身的な妻のように、最も忠実な信者が最も大きな被害を受ける事になってしまいます。

「『この忌々しい誘惑から解放されますように!』とひたすら祈り続けました。枕に拳を打ちつけてもがき苦しみました。持てる信仰の全てを絞り出してこの問題を解決しようとしました。『我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ!』という私の祈りは答えられませんでした。悪いのはもちろん自分だと思い、自分を責めました。自分は歪んでいて、自分の中に悪が宿っていると感じていました。」

「キリストや神に対しての信仰は諦めたくありませんが、これまで一度も、自分で決めた事を最後まで守ったり、激しく苦しまずに自分の利益のために何かを決断できたりしたことはありません。神の意思は何なのか、いつまで経ってもわかりません。」

考えるな、感じるな
原理主義的な教えは、自分の考えに頼るのは危険だと警告すると同時に、突飛な主張を信じるように要求するため、知的発達に悪影響を及ぼしかねません。教義に疑問を持つ事は信者にとって大きな危険を冒す行為であり、批判的な思考は評価されません。感情や直感も疑わしいものであるとみなされるため、子供たちは自分たちの感覚を信頼しなくなっていきます。イエスや聖書などの外部の権威以外の指針を持つことは認められないため、彼らはは自分の心の声の聞き方がわからないまま育ち、意思決定や道徳的発達に支障が出てしまいます。

「原理主義は人を狂わせます。非論理的な主張がごちゃごちゃに混ざり合った意味不明な信念を、なんとか論理的に理解しようと必死に努力すれば、誰だって頭がおかしくなっていきます。」

「自分で何かを決めた事はほとんどありません。この世の終わりは近いと信じて育ってきたので、大人になってからの人生のことなんか考えた事がありませんでした。」

「(宗教に入ってから)自分の感情の多くを抑圧し、認知が歪んできて、思考も不明瞭になっていきました。活気に満ちた前向きな性格から、消極的で退屈な性格へと変わってしまったのです。」

権力の濫用
以上のような教義に含まれる有害性に加え、教会や家庭の中で有害な宗教的行為がなされることもあります。権威主義に対する抑制機能が無い教会や家庭では、肉体的、性的、感情的虐待のリスクが高まります。また、宗教はあまりにも多くの事を秘密にします。性的抑圧や、男性中心の権力構造の神聖化によって、子どもや女性に対する虐待が起こりやすくなります。同性愛に対する痛烈な批判は、自殺を含めた大きな犠牲を生み出しかねません。

「誰にも認めてもらえなかった感情や思いを山ほど抱えていました。あの恐ろしい男から身を守ってくれるのではなく、私の感情を否定して、何が起こったとしても彼の言うことを聞くように強制されました。摂食障害になったのも無理はありません。」

一見、宗教団体は安全な環境を提供しているように思えるかもしれませんが、過度な同調圧力、数々の非現実的なルール、権力の濫用への強制的な服従など、あらゆる苦しみの原因の温床にもなりうるのです。また、それらの苦悩は隠される事も多く、たくさんの悲劇を生み出しています。繊細な性格の人や、教義を熱心に信じている人は特に高いリスクを背負っています。困難の大きさは、それぞれの教会、牧師、親などが、どのように教義を伝えるかによっても大きく変わるでしょう。

注:宗教的な子育ての弊害についてはジャネット・ハイムリック(Janet Heimlich)の著書「砕かれた意志」(Breaking Their Will)を読むことをお勧めします。この本には、肉体的・性的虐待、病気にかかる割合、性差別の影響などについて多くの情報が書かれています。これらの事実は、あざがあっても報告しない医者や、薬物問題について語ることのない更生施設など、キリスト教徒の専門家たちによるネットワークによって隠されてきたのです。

Winell, M. (2011) Religious Trauma Syndrome (Series of 3 articles), Cognitive Behavioural Therapy Today, Vol. 39, Issue 2, May 2011, Vol. 39, Issue 3, September 2011, Vol. 39, Issue 4, November 2011. British Association of Behavioural and Cognitive Therapies, London. Reprinted at Journey Free website: https://www.journeyfree.org/rts/rts-its-time-to-recognize-it/

※ 翻訳はマーリーン・ウィネル博士本人から許可を得て行っています。

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