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当たり前じゃねえからな 大学生日記#14

某日本のコメディアンが相方に放った言葉。
最近になって、この言葉が自分に向けられているように思えてきた。

当たり前だと思っていたことが、実は当たり前じゃなかったってことはよくあること。歴史上でもそれが繰り返されている。

とうの昔、当たり前だとされていた天動説を地動説がひっくり返した。

蛙は井の中を当たり前だとして、大海を知ることなく一生を終えた。


日本にいた時は当たり前だよって思ってたことが、明らかに変わっていくような日々をこっちでは送っている。

「日本で食べれる白米ほど、美味しいお米はないからな。」
昨日ついに我慢できなくなって、米を買って鍋炊きした。まあ、食えないほどではないけど、お世辞にも美味しいとは言えないでき。俺の調理法が悪かった、俺がなれていなかったとは言え日本ほど美味しいお米はこっちで食べれない。
「生魚は美味しくないからな。」
内陸に位置しているこちらでは、当然のように生魚は冷凍されている。生魚は日本のように美味しくないし、そもそも生魚を食べるという文化はほとんど皆無。

まあ、食文化でギャップがあることくらいは井の中の蛙でも知っていそうな話だ。


読者の方々には、ここから書く話を読んでいただきたいです。本当に自分のいる世界は当たり前なのか。本当に自分の見ている景色は当たり前なのか
このNoteを読み終わった後に、一度胸に手を当てて考えていただきたいです。そんな内容をここから書いていこうと思います。


当たり前。俺は故郷、日本があるということを当たり前だと思っていた。日本という世界で見ても大国は無くなるはずなんてない。そう思っていた。

当たり前。俺の家族が安全なところにいる。俺の家族は俺の家を空けている間に死ぬなんてことがあるはずない。そう思っていた。

当たり前、ずっとぬるま湯に浸かって生きてきた俺は、全てが自分の周りにあることを当然のこととしていた。そんなことに疑問を持つことはなく、疑問を持つことは無駄だと切り捨てていた。
こっちに来なかったら、一生当たり前だと思っていたことかもしれない。

先日、クラスメイトとご飯会をした。その中で、「なぜこっちに来たのか」という議題が上がった。ある人は夫が仕事でこっちに引っ越してきた、ある人は友達が近くに住んでいるから、俺はドイツの大学院に進学するためにドイツ語を学びに来たと話した。

その中で、ウクライナ人のクラスメイトに話が回ってきた。彼女は笑いながら話してくれたから、そこまで深刻な空気にはならなかったけど、彼女は確かにこう言った。
「ウクライナがあんな感じだからね。」
と。その時、目だけは笑っていなかったような気もする。

ハロウィーンの夜、ヨーロッパで仮装とかあるのかと呑気に街に出た。中心街になら結構仮装しているような人もいるだろとか考えて、中心街をぶらぶら散策していた。
かの有名な大聖堂の前で訴えている集団があった。
「パレスチナを返せ」とただひたすらに、訴えていた。

そうか、そうだよな。この世には、故郷を追われて他の国へ行く人もいるんだなと、故郷が危機的状況にある場所もあるんだなと。
この時はそれを実感して、大変だな程度にしか考えていなかった。

しかし、自分に置き換えた時、急に強烈な恐怖に苛まれた。
怖い、怖すぎる。
「もし、明日自分の故郷が、祖国が消えてしまったら」
「もし、明日実家がなくなったら」
「もし、明日家族が失われたら」
当たり前であったことが、当たり前でなくなっていく。
絶対に無くならないものと思っていたものが、疑う余地もないと思っていたものが疑わなければならないのだと実感させられた。

「本当に明日、自分の大好きな日本があるのか?」

誰もが確証を持って、"ある"とは言えないことを読者の皆さんには知っていただきたい。
そして、世界のどこかでは当たり前でないことも知っていただきたい。
自分が安全に暮らせているのは、自分が不自由なく生活できていることは当たり前ではない。そして、世界の情勢は他人事ではない
当たり前だと思っていたことをもう一度見直して、それに対しての向き合い方を変えなければならないと思う。


井の中の蛙は、井の中だけで生きている。ただ、蛙の問題の本質は井の中で生活していることではなく、"大海を知ろうとしない"という姿勢にある。
井の中の蛙でも、現代の情報社会に住んでいる以上知ろうとするだけで大海を知れることもある。

どこかのコメディアンが言っている。
今度は相方ではなく貴方に向かって。
「当たり前じゃねえからな、この状況」
と。

ウクライナやパレスチナの人々が1日でも早く笑顔になれるよう心から願っております。

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