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上野 寛永寺

「上野」。今は公園として整備され、市民の憩いの場となっていますが、江戸時代は江戸を代表する寺院=寛永寺が建っており、完全に寺院の街でした。

現在の上野公園は寛永寺の広大な敷地の一部を利用したもので、寛永寺最盛期には上野公園を中心に、日暮里や根津付近まで寺社領があったとされています。

その寛永寺ですが、「寛永寺」の名前は通称で、正式名は、「東叡山 寛永寺 円頓院」となります。

通常、寺院には、山号・寺号・院号があり、院の集合が寺、寺の集合が山となり、例えば、延暦寺の場合も「比叡山 延暦寺 止観院」がその正式名称となっています。

注)円頓院・止観院の院号は江戸時代から、一般には普及しておらず、江戸時代には「山下で、円頓院は、知りませぬ」と歌った川柳が流行したそうです。

延暦寺を例に出しましたが、東叡山は、東の比叡山からその名前がきています。江戸城からすると上野の方角は、鬼門の方角に当たる北東に位置し、同じく、京都における鬼門の方角に建立された比叡山に倣い、東叡山とされました。

また、寺号である、寛永寺も、当時の元号である「寛永年間」から名付けられたもので、これも、延暦7年(788年)に建立された延暦寺に倣ったものです。日本には250近く元号がありますが、当時の元号が寺の名称として使用されることは非常に珍しく、元号を決める朝廷と幕府の力関係が分かるという意味で、「寛永寺」名前の由来一つとっても非常に興味深いです。

寛永寺は、何故ゆえ、このような、超別格特別待遇を得ることになったのでしょうか。そこには、幕府の対朝廷政策が深く関わっています。

江戸時代の朝幕関係を知る「不定期シリーズ:寛永寺」として、今後シリーズ化し、考えて行きたいと思います。


余談:幕府の都市計画

東叡山寛永寺は、比叡山延暦寺の完全コピー版として、江戸に建てられました。寺の他にも、不忍の池は琵琶湖のコピー、また、京都の清水寺のコピーとして清水観音堂を建て、江戸における一大京都テーマパークを上野に作りました

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写真:現在の上野公園内にある清水観音堂。写真中央の月の松は、復元ですが、江戸時代にも同様の形をした松があり、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれています。

幕府は、その他にも日本全国から有名な寺院の分院を江戸に作ります。愛宕神社や、虎門にある金比羅神社も一例です。

江戸という都市を、ほぼ白紙ベースから立ち上げるにあたり、そういった全国的に既に名のある寺社仏閣を招聘することにより、江戸という街のブランド力向上を狙ったのだと思います。

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