お城旅行記〜島原半島編① - 島原城〜
長崎県島原半島にある島原城に行ってきました。
残念ながら、天守は現存ではなく、昭和に復元されたものですが、それでもかつての天守を偲ばせる五層の見事な天守が復元されています。
なぜ「天守」を築くのか?
多くの人は、この天守にお殿様が住んだと思われるかもしれませんが、城主は基本、御殿に居住し天守には住まなかったと言われており、城によりけりですが、例えば、姫路城などは、平時は武器庫として使用されていました。
「ではなぜ、無用の天守を築くのか?」
それは、外(周辺大名や領民)に向けての「権威」の象徴のためだったと言われています。
元々、武士は先祖代々の土地を守るのがその勤めとされてきました。
「一生懸命」という言葉がありますが、元々は、「一”所”懸命」と言われており、武士が自らの所領を命をかけて守ったところからきているとの説もあります。
しかし、そんな武士たちも、江戸時代を迎えると少し様相が異なってきて、江戸幕府から命じられる領地替え=転封(てんぽう)が頻繁に行われるようになります。
島原城城主=松倉重政
前置きが長くなりました。。島原城に話を戻します。
島原城は、松倉重政によって寛永元年(1624)に築城されました。松倉氏は元々、大和五条(現在の奈良県五條市)に所領を持っていたのですが、島原城の完成から遡ること8年前の元和2年(1616)に島原に移封(転勤)となっていました。
松倉氏にとってみれば、縁もゆかりもない土地・島原。領民たちに「自分はこんなにすごい殿様だ!」とアピールをする必要があります。そのアピール材料の一つになったのが、巨大な天守を持つ城郭の建設でした。
当時、松倉氏の所領は4万石だったのですが、4万石の大名にしては、見ての通りかなり豪華な城の作りです。※注1
今も昔も「見栄え」は大切。ただ、何事も分相応が大切です。明らかに、分不相応な城を築城した松倉氏。その代償は大きく、最終的には、幕府、日本全国を巻き込んだ、日本史を揺るがす大きな事件へと発展します。
それは、また、次回のお話。。
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