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小説「ホウオウの寝床」 小説塾・6回課題コース 第6課題

絵描きを目指しているかたが、時系列で作品を並べて、腕が上達する過程を見せてくれることがあります。それを小説でやってみようと思います。無料で読めます。投げ銭スタイルです。

2018年に薄井ゆうじ氏が主催する「小説塾」の小説創作講座・全6回・課題コースを受講した際に提出した小説たちです。最後の課題だけ、褒められました。

最後に、この小説の(厳しい)講評を紹介したブログ記事のリンクを載せておきます。

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「ホウオウの寝床」

 葉柴郵太郎(はしばゆうたろう)が出産と殺害をしたのは三月の最終週の金曜日の誕生日だった。
 誕生祝いをしてくれた連中は夜通し飲んで朝方になって帰っていった。葉柴は昼過ぎに起きると、重たい体を持ち上げ、洗面台に向かった。二十二歳おめでとう、と口紅で鏡に書いてあった。昨日は男だけで飲んだはずだ。ガールフレンドがいない俺へのあてつけか。かを洗って、濡らしたタオルで拭き取った。テーブルに戻り、友人への仕返しを考えながら、グラス、空き缶、ウイスキーの瓶、ペットボトル、つまみのゴミを片付けると、四月から就活がんばろうね、と別の色の口紅で書かれていた。葉柴はつばを吐いて、ウェットティッシュで拭いた。
 どうして全員が同時期に、同様のスーツ姿で、同じようなバッグを持って、行動しなくちゃならない。が、そうやって不快に思って何も活動しない同質な集団に自分自身が属していると考えると、葉柴は自己嫌悪に陥った。
葉柴はプレゼントのひとつである、就職活動対策本を手に取ると、ゴミ箱に捨てた。
 思わず体を折り曲げてしまうほどの腹痛が襲われたのはそのときだった。気だるい眠気は吹き飛び、散らかった部屋を這うようにしてトイレに向かう。
 体に異変が起きていることはすぐにわかった。便意とは異なる痛みだったからだ。葉柴郵太郎は便器に座っていきんだ。何かが違う。すぐに出ないし、腹痛はだんだん局所的になり、一点に集中し、鋭さを増す。あう、と情けない声が漏れてしまう。今日は誕生日だぞ。やがて頭で考えることができないほど痛みが頂点に達したときにそれは出た。が、すべては出ていない。冷や汗が顔ににじむ。
 それはトイレットペーパーで拭き取れなかった。便とは違う弾力がそれにはあった。つまめるのだ。腹痛は治まった。引き抜く覚悟をした。肛門から何かが抜けた。ミミズ。それが第一印象だ。白いトイレットペーパーに映える薄いピンクのミミズ。便はついていない。現実についていけない。意識の真ん中に亀裂が入り、無数の欠片となった。
「うそだろ」
 意識の欠片をなんとか集めてようやく言葉になった。こわばった体を動かしてポケットから携帯電話を取り出し、寄生虫が出たときの対処方法を調べた。すぐにサイトが何件かヒットした。文明の進歩にこれほど感謝したことはない。ミミズは背後のトイレタンクの縁に置いた。ときおり、その身を震わせている。取り消せない現実に吐き気がした。
 寄生虫が出た場合は小瓶等に保管して、医者に見せたほうがよい、と調べたサイトに記載されていた。素人判断では寄生虫の特定と対策に誤りが生じる可能性があるからだ。ズボンを下げたまま冷蔵庫まで歩き、中から栄養ドリンクを一気に飲み干した。気分は変わらない。トイレに戻り、寄生虫をトイレットペーパー越しにつかむと、便座に座って慎重に小瓶に入れた。
寄生虫は体をよじらせた。蓋を占めると気持ちが落ち着いた。危機はとりあえず、小瓶に抑え込むことができたのだから。そのときはじめて、トイレの白いドアに油性ペンで記された文字に気が付いた。
「ハッピーバースデー」
 うそだろ、賃貸だぞ、と葉柴は苛立ったが、寄生虫の誕生のことを考えると、妙な偶然の一致に苦笑いした。偶然の一致に出くわすといつも母の口癖が反射的に思い浮かぶ。
「郵太郎、それはきっと何かのメッセージなのよ」
 葉柴は鏡に向かって、手首を返してみたが、スパイダーマンのように糸は出なかった。そういうメッセージではないようだ。
 リビングでテレビをつけると同じようなニュースが流れていた。日常のリズムに戻ると、深呼吸をしてから、携帯電話で病院を検索した。

「ジャングルにでも行ったのかい」白髪の老医者は真面目に葉柴郵太郎に聞いた。池袋駅から少し離れた内科を受診した。
「行きたいと思ったこともないです」真顔でそんなこと訊かれる日が来るなんて思ってもみなかった。
「恰幅がいいから、そういう場所に行く仕事なのかと思ってね。いまどき寄生虫なんて珍しいから」高校でラグビー部に所属した三年間で胸板は厚くなり、首は太くなった。葉柴は早口で相手を小馬鹿にするような話し方をする老医者に嫌気がさした。
「じゃあ、どこかで回虫の卵の付いた生野菜を口にしたんだろうね。無農薬野菜の生野菜をさ。いまどき珍しいよ。久しぶりに見たよ。回虫なんて。本当にジャングル行ってないの? 日本じゃ絶滅したようなもんだから。まあ、いい。じゃ、虫下しの薬を出しておきますね。一回飲めば終わりです。たとえ何匹いても」
「まだ腹の中にいるかもしれないってことですか?」
「一匹だという確証はないからね」老医者は笑うと目が大きくなった。「ちなみにどうして回る虫っていうか教えてあげようか。読んで字のごとく、体を回るからさ。回虫の卵は口から人体に入る。経口感染という。胃液で卵の殻が溶けて、赤ちゃんが生まれる。それから小腸に移動する。だけどそこで成長はせずに、いったん血管に侵入するんだ。ああ、気持ち悪い。そして肝臓を経由してから肺に到達する。それから気管支から口に再び戻り、喉を通り、再度小腸に戻って成長する。体を回る虫、すなわち回虫さ。まるで新築物件をくまなく内覧するかのように。あなたよりもあなたの内側には詳しいかもしれない。ああ、気持ち悪い」老医者は厚い眼鏡の向こうの大きい目をさらに拡げて笑った。
「薬はすぐに効きますか?」
「一晩で治るから安心しなさい。で、これはどうする、記念に持って帰るかい? 君の内側を旅した君の分身のごとき回虫を。おおげさか」老医者は再び笑った。汚い歯が並んでいた。
「持ち帰ります。僕が供養しますよ。天国に旅立てるように」どうせ持って帰るはずがない、と考えている老医者の思い通りの返事をするのが癪だった。どこかのゴミ箱にでも捨てよう。
 病院で会計を済ますと隣接する薬局に向かった。平日の昼間だからか客は少なく、すぐに薬剤師に呼ばれた。
「葉柴さん、申し訳ありませんが、この薬はすぐにはご用意できません。お取り寄せに三日前後かかります」髪の短い薬剤師の女性はカウンター越しに端的に伝えた。「この薬はいまあまり処方されていませんので。薬が入り次第、ご連絡差し上げます」
 葉柴は携帯電話の番号を伝えると薬局を出た。
 外に出ると携帯電話が鳴った。同級生の似森早苗(にもりさなえ)からの着信だった。
「ポスト、お誕生日おめでとう。いま何してるの?」
 葉柴郵太郎は子供の頃からポストが渾名だった。興奮するとすぐに顔が赤くなる体質と名前の郵の字が由来だった。大学でも酒を飲むと顔がすぐに人一倍赤くなるので、結局ポストと呼ばれている。
「仙人のもとで影分身の術を習得したところ」
「意味不明な冗談がほんと好きね。元気ならいいわ。暇なら会わない? 十五時前にいつもの喫茶店で」
「何の用?」声が乱れるのをなんとか抑えた。二十二歳だ。胸の高鳴りくらいで慌てない。
「お楽しみ。分身じゃなくて本体が来てよ」

 老舗喫茶「つるくさ」は立教大学の裏に小さく店を構えている。ここから二十分程度だ。葉柴はポケットの栄養ドリンクを指で回しながら歩いて向かった。
 立教大学の池袋キャンパスを抜ける。葉柴と似森はこの四月で社会学部社会学科の四年生になる。二人は同じ社会統計学のゼミに所属していた。統計の看板に気後れする学生が多く、他のゼミとは異なり面接もなかったので葉柴はこのゼミを志望した。面倒なことは極力避けて通る、それが葉柴の人生訓のひとつだ。だが実際のところは既存の社会調査のデータを統計ソフトのボタンを順番に操作し、因果関係のようなものを見出すだけで単位がもらえる。先生もうるさくなく、無駄話にあいづちを打っていればいいだけだ。
 もうすぐ入学式が行われるようだ。キャンパスはサークルや部活動の勧誘の準備に賑わっていた。葉柴はどの団体にも所属していない。中学はサッカー部、高校はラグビー部に所属していたので、団体行動が常だった。集団に属さずに生活してみたかったのだ。
 葉柴郵太郎は遠目でそれらを眺めながら、一人でゆっくりと歩いた。大学生の服装は遠目から見ると似たように見えた。自分もその一人に含まれるかもしれない。
 裏門を通り過ぎ、車道を渡る。「つるくさ」の正面は看板通りにつる草に覆われている。六十歳を過ぎるマスターがはるか昔に立教大学在学中に校舎から種をくすねたという噂だ。コーヒーや軽食はいたって普通だが、時間の経過だけがもたらす木材の味が店内に居心地よい雰囲気をつくり出している。アイスコーヒーとサンドイッチを購入してテーブルに着く。
 リュックをのぞくと文庫本があった。見覚えのない推理小説だった。昨晩の誕生日会で誰かがプレゼントしてくれたのかもしれない。あるいは誰かの忘れ物かもしれない。酔っ払った友人はよく葉柴の家に忘れ物をする。
「何読んでるの、それ?」
 警察官が死体を発見し、式神探偵なる主人公が勝手に現場検証に立ち入った場面を読んでいると、似森がカフェラテを持って向かいの席に座った。
「害のないミステリー小説。知らないうちにリュックに入ってた」
「なにそれ」
 似森は笑うと目が線のように細くなり、右頬のホクロがえくぼに沈む。長い脚は黒のスラックスに包まれ、白いシャツに赤いカーディガンを羽織っている。艶やかな黒髪は肩にかかり、胸元にはバラのネックレスが光っていた。似森は無造作に葉柴の顔に手を伸ばしてから頬をつねった。
「よし、本物ね」似森は笑った。
「ありゃ冗談だって。で、今日はどんな用? 誕生日プレゼントでもくれるの? 例のサークルの勧誘なら断るよ。ひとりも加入してない「樹と触れ合おうの会」の」と葉柴は笑った。葉柴は似森の向こうに見えたマリリン・モンローの年季のあるポスターにちらちらと目を向けながら喋った。似森の目を見てしゃべり続けるのはむずかしかった。あまりにも葉柴の心の中まで視線が入ってくる、そんな気がしてならないからだ。
「そんな弱っちい名前じゃないの。「触樹会」よ。ほら、最近名刺もつくったんだから」
 触樹会、会長、似森早苗。名刺の表にはそう記されていた。大きな樹に身を預けましょう、と裏面にはサークルのミッションが毛筆体で描かれていた。半年前に立ち上げたサークルでいまのところ一人で活動している。自然体験を目的として、具体的には森林公園の散歩やハイキング、キャンプなどがしたいそうだが、似森は特にハンモックを気に入っていた。
「やくざみたいな名前だな。もうちょっとチャーミングにしたほうがいいね」
「ほっといて。シンプルで気に入っているからいいの。四月に何人か新入生を入れてみせるんだから。でも今日は勧誘で呼んだんじゃないの」
「貸すほど金はないよ」
「知ってるよ」似森は笑った。「誕生日プレゼントを渡すために呼んだの」
ホクロがえくぼに沈むと葉柴はうれしくなる。似森はカフェラテを口にしてから、一度ゆっくり目を閉じてから、口を動かした。
「付き合って欲しいの」と目を細めた似森は言った。似森のえくぼにホクロが吸い込まれた瞬間に、葉柴の時間は止まり、周りから音が消えてしまった。心臓の鼓動が世界を揺らした。
「よく当たる占い屋さんがあるのよ。その占いが私からの誕生日プレゼント。だからいまから葉柴にも付き合ってほしいの」
 グラスの氷はゆっくりと溶けて、カランと音を立てた。葉柴はひどく薄いアイスコーヒーを飲み干すと、いいね、と返事をした。

2 
 
 ここまではうまくいってる、と似森早苗は安心した。もちろん事前に葉柴が今日の夕方から予定がないことは葉柴の友人に確認をしていた。葉柴がシンプルな服装の女性に好意を抱くこともリサーチ済みだ。
「なんていう占い屋さんなの」
「ホウオウの寝床ってところ。人気なんだから」
「変な名前」
 今日はきちんと葉柴にあのときの御礼を伝えることができるはずだ。二人は沈みかけた夕暮れのなかを北池袋へと向かった。
ホウオウの寝床は、池袋駅北口から十分程度の路地に面した雑居ビルの四階にあった。汚く狭いエレベーターを湿った空気とともに登り、扉が開くとすぐに看板に踊る文字が目に入る。
ホウオウがあなたの死と再生を導きます、と。
 真紅のドアを開くと不機嫌な中年の女性が受付にいた。落ち込んだ目をした痩せた中国人女性で、赤いストールを頭にかけ、鳳凰が描かれた赤い袈裟に似た服を着ている。店内は薄暗く、天井、壁、床、調度品にいたるまで赤、オレンジ、金色で揃えられていた。
「予約している似森早苗です」
 女は名簿を確認して、席を立つと、面倒くさそうに、ついてくるように促して小さな部屋に二人を案内した。その部屋には真っ赤なテーブルが一台と椅子が四脚あり、大小様々な鳳凰の絵や置物があった。その女性は着席すると、野暮ったく咳払いをしてから口を開いた。
「一人二十分三千円。で、どっちがやるの?」
「わたしがやります」似森は勢いよく挙手した。葉柴は状況がつかめなかった。
「じゃ、ついておいで」
 似森は女性店員と別室に入った。部屋には大小さまざまな鳳凰が描かれているほかに、大きな鏡が立てかけられ、そばの机には化粧道具が置いてあった。部屋の中央の机の上にタロットカードが拡げられている。テーブルに着くと女性店員は説明しはじめた。
「カードを見て、あんたが不安に思ったことをそのまま連れの男に伝えて」
「それだけですか?」
「タロットカードなんてそんなものよ」
 アルバイト先の店長に教えてもらった通りだった。似森はその花屋で大学一年生の頃からアルバイトをしている。大宮駅近くの個人経営の花屋の店長、大木睦月(おおきむつき)は四十五歳のおっとりした女性で。近所の主婦を対象にしたフラワーアレンジメント教室もときおり開いている。
「素人が素人を占うんだって。早苗ちゃん、行ってきてよ。面白そうじゃん」
 大木は何でもやらせたがった。早苗ちゃんの変化が楽しみなのよ、よくそうやって話をもってくる。乗馬体験、スキューバ体験やら手裏剣投げ体験など。ホウオウの寝床の話は近所の主婦から仕入れたそうだ。
「あの彼氏誘っちゃいなよ。お駄賃あげるから。そのかわりいつもみたいに結果を教えてね」
「彼氏なんかじゃないです」と少しむきになって答えたが、葉柴にあのことを伝えるきっかけになると似森は思ったので、占いに行くことに決めた。
大木にもらった三千円はもう支払いに使った。あとは占うだけだ。
「一度で覚えられるわよ」と女性店員はタバコを吸いながら説明した。いつ吸い始めたのだろう。外国のタバコなのだろうか、嗅いだことのない匂いだった。
「まずはカードの束を額に当てる。念じるポーズね。それからカードを山札から十二枚並べる。六枚ずつ二列に。上が過去で下が現在。未来を占うときは、山札から適当にカードをめくる。それは二列の間に置く。で、直観で何か言えばいい。適当にね。ちなみにこれ、正当なやり方じゃないから」
 こんなに適当でいいのかな、と似森が考えていると、占い師は続けた。
「人間の悩みなんてほとんど同じなのよ。あんたがカードを見て、あんたが感じたことをそのまま言葉にすれば、彼にも響くはず。ただ集中しないといけない。それがないと核まで届かない」女性店員はぶっきらぼうに言い終えると、似森を鏡の前の椅子に座るように促した。
「最後に変身して終わりよ。合図するまで目は開けちゃだめ」
 葉柴に言葉が届くようにと、似森は祈った。葉柴が似森にかつてそうしてくれたように。女性店員はタバコを灰皿に押し付けてから、似森を連れて葉柴の待つ部屋に戻った。

「運命が見えるとは知らなかった」鳳凰の模様が描かれた袈裟を羽織り、向かいに座った似森に葉柴は思わず口にした。真っ赤なアイシャドウ、赤いカラーコンタクト、耳には鳳凰の羽根を刺しており、頬には金色で揺らめく炎のような模様が描かれていた。言われなければ似森と気付かないだろう。似森から嗅いだことのないような甘い香りがした。
「隠してたけど、見習い魔女なの。でも話しかけないで。集中してるんだから。運命が隠れちゃうじゃない」
 葉柴は似森の向こうの壁の上部に鳳凰の首があることにいま気付いた。似森を待っている間、小瓶を揺すって、回虫を観察していたからだ。ホウオウは羽根、眼球、嘴などが精巧に作られていて、この世ではない別の世界から顔だけ突き出して、似森を通じて、葉柴の運命を見定めようとしているかのようだった。
 似森はタロットカードを袖から取り出し、カードをシャッフルしてから、目の高さまで掲げてから額に付けた。目を閉じて精神統一をはじめたようだ。それが合図のように部屋の明かりが消えた。暗闇の中で似森の呼吸音だけが聞こえる。テーブルにカードを並べ始めると、赤いピンスポットがテーブルを照らした。似森はゆっくりと十二枚のカードを並べた。上段に六枚、下段に六枚並べ終えると、それぞれが過去と現在を意味していることを説明し、沈黙した。やがて一枚のカードを指差し、口を開いた。王子が王の胸を剣で刺し、王妃はすでに倒れている。
「ポストは昔から家族に問題を抱えてきた、そうでしょ。父と母の両方に」親しみやすい普段の似森の声ではなかった。静かで、迷いなく、遠くをみはるかすようだった。
「みんな何かしら家族に問題を抱えてるよ」
「はぐらかしてはだめ。いつもそうやってきたんじゃない? 自分だけの問題を大きな問題にすり替えて、話をややこしくする」民衆を扇動する男が逆さまになったカードを似森は指差した。
「ポストはその問題を解決しないといけない。じゃないと一生つきまとうわ。そしてそれができるみたい。ほら、見て」小舟に乗った男女が夜空に光る星を指差しているカードを似森は示した。
「解決にはどうあがいても手が届かない、とも読み取れるけど」
 葉柴は苛立った。家族に問題を抱えていない人はいない。子供はみな、親に呪いをかけられている。親は生きてきた人生を振り返って、自分で実践できなかった教訓を子供の体に埋め込むのだ。
 あなたはあなた自身の託されたメッセージを世に伝えるために生きているのよ、それを考えなさい、と母は人生の節目でそう語った。郵便局に努めていた両親は飛び交う郵便物から、そのような人生訓を導き出して、「郵」の字を子供の名前につけたのだ。
「やっぱり小さい頃から何かにずっと悩んでいる」小動物が暗い森をさまよっているカードを指差す。「どんなことに悩んでいるの?」
「当ててみてよ」似森の細長い目を見つめて言った。赤い光の向こう側にいる似森は無邪気で聖なる存在のように葉柴には思えた。純粋で清らかで、不幸なことが身に降りかからないことを信じているように見えた。汚してやりたい、と葉柴は純粋に思った。
 似森は何枚かカードを山札からめくった。影がない人物のカードで手が止まった。
「自分に自信がない?」
「自信がある人間の方が少ないだろう」
 図星だったからだ。自分がどんなメッセージを託されているのか、葉柴にはいまだにわからなかった。自分が無価値な人間に思えて仕方なかった。だから、就職活動にも熱心になれないし、君にも告白できない。そう葉柴は心の中でつぶやいた。
「どうすれば自信が持てるようになる?」葉柴は訊いた。
 似森は再び何枚かカードをめくり、うずくまる乞食の背後で微笑む天使のカードで手を止めた。
「感謝することよ。特に見逃している施しに対して。数多くの施しがあなたを支えていることに気付いたほうがいい。そうすれば世界を信頼して身を委ねられる覚悟ができるはず」似森はゆっくりと厳かに言い放った。
「最後に今後の運命について占う」似森は山札のカードを一枚めくった。森の妖精が朝日に照らされていた。
「近いうちに大きな変化があるはず。あるいはもう起きているのかも。そしてそれがポストの悩みの解決への一歩となるはず」似森の視線は葉柴の瞳を射抜いた。
 言い終わった瞬間に再び照明が突然消えた。部屋に明かりが満ちると、テーブルの脇に不健康そうな女店員が立っていた。換気扇が音を立てて回り、空気が入れ替えられ、日常に戻った。
「時間だから終わり。占いはうまくできていたと思うわ。私が途中から横にいたのに気付かなかったでしょう。十分入り込めていたわ。じゃあ、占いの結果を踏まえて、人生をよりよく生きてちょうだい」
 似森は化粧を整え、それから二人はビルを出た。
「ありがとね。付き合ってくれて。人の運命占ってみたかったのよ。いいプレゼントになった?」
「結構いい線いってた」 
「よかった。夜空いてる? 占いの感想をさ、お酒飲みながら聞かせてよ。一九時からでどう」
「誕生祝いだから似森の奢りね」化粧が落ちた素顔に近い似森の顔はあどけなかった。似森と池袋駅で別れた。葉柴は占いの結果について考えながら、ポケットから小瓶を取り出した。中にはピンクのそれがじっと横たわっていた。お前が俺の悩みを解決してくれるのか? 葉柴は苦笑してポケットに小瓶を戻した。 

 似森は池袋から湘南新宿ラインに乗って、大宮まで下った。駅から歩いて五分の場所にアルバイト先の花屋は店を構えている。
 似森は草花や樹木に手で触れたり、匂いを嗅いだりすると心が落ち着く。だから花屋を選んだ。だが、自然とそうなったわけではなく、ある事件がきっかけとなったからだった。
 小学生の似森にとって、夏休みに埼玉のベッドタウンを離れ、山口県の父方の祖父母の家に帰省することはなによりも楽しみだった。山間部にある家屋は屋敷のように広く、たくさんの部屋があることは似森の冒険心をそそるものがあった。父、母、祖父、祖母みんなが世話をしてくれる。ハッピーエンドが約束された冒険だった。
 が、その事件は夏祭りに起こった。裏山の山頂にある神社で毎年行われる夏祭りで親戚や地元の子供と一緒にかくれんぼをして遊んでいたときだった。神社の裏手の雑木林に隠れた似森は、ふと空を見上げた。夕闇が、似森を囲っていた。大きな風に枝が揺れた。その様子に魅入ってしまった。我に返ると、周りの風景がよそよそしくなり似森は自分がどこにいるのかわからなくなった。少し歩き回っても、どこまでも闇だった。
「あっ」
 ぬかるんだ土に足をとられて体勢をくずし、坂を滑り落ちた。何度か体ごと回転して、背中に大きな衝撃を感じ、やっと止まった。大きな怪我はしていなかったが、痛みで動けなかった。孤独と不安を紛らわせるために目を閉じると、やがて意識は消えて、眠ってしまった。
 目を覚ますと、ぼんやりとした視界の中で数人の男に囲まれていた。目の前にいる父の力強い声を聞いた途端に似森は泣き出した。父の胸で泣いたあと、ふと振り向くと、太陽に照らされて大樹がそびえ立っていた。樹の向こう側は崖だった。もしその樹にぶつからなければ、急勾配をそのまま転落して命はなかっただろう、と父は似森を叱ったあとに、抱きしめながら語った。樹に守られたのだ。それから似森は樹木や草花に親しみを抱くようになった。
 今日は一七時から一時間だけフラワーアレンジメント教室の手伝いがあった。似森が店に入ると店長の大木睦月はひとりで今回の課題作品のフラワーリースを作成していた。
「みんなにはまだ難しいかしら、でも男子三日会わざれば刮目して見よって言うしねぇ。うちの受講生は女性しかいないけど」花に触れているときの大木はよくひとりごとを言う。
 似森は花屋も好きだった。日常空間とは一線を画しているからだ。敷居をまたいだ人間は花の匂いに包まれる。花が主役の花の世界。
「早苗ちゃん、おはよう。今日もありがとうね」似森が挨拶を返すと、大木は手を止めた。「それはそうと、うまくいったかしら」
「初夏に向けてピッタリだと思いますよ」似森は課題作品をひと目見て答えた。「スプレーウィットとプリンセス・オブ・ウェールズの白バラはさわやかですし、赤いジューンベリーの一枝もアクセントとして効いています。みんな喜んでつくると思います」
「褒めてくれてありがとう。でも占いの方よ、私が聞きたいのは。秘密は嫌よ」微笑んで大木は言った。
 あ、と似森は口に手を当てて笑った。
「他人の運命を見通すなんてできっこないですね。でも集中したらそれっぽいこと言えました」
「才能あるかもよ。ただ運命は無理でも予感くらいは感じたかしら」ジューンベリーの一枝を刺す場所を探しながら大木は言った。
「恋の予感」
「しないですよ、そんなの。ただちょっと元気出してほしかっただけです」
 あらそう、と大木は再び課題作品にとりかかった。似森はエプロンを身に着け、店頭に並んでいる花を一本ずつきれいに揃えはじめた。ほら背筋伸ばして、と手に取る花に声をかける。話しかけると花の調子がよくなる、と似森は信じていた。似森の花への素直な姿勢に感化されて花を好きになり、リピーターになる客も少なくなかった。
「早苗ちゃん、看板出しといてちょうだい」
 似森が表に講座開催中と記された小さな看板を通りに出すと、受講生がちょうど見えはじめた。受講生の多くは近所の主婦で、上は七十代までいる。今日は六人集まった。井戸端会議の延長のような集まりなので、すぐに花の話からそれてしまう。似森にとっては社会勉強の場のひとつでもあった。
「こないだ関口さんが紹介してくれた占いのお店に、さっそく早苗ちゃんが行ってきたの。彼氏に占いのプレゼントをしたのよ」
「どうだったの、よく当たったの」と、受講生がはやしたてる。
「これがね、普通の占いと違うのよ。ホウオウの寝床っていうところで、自分で自分の友達を占うらしいの」大木は楽しそうに説明した。「で、どうだったのよ、早苗ちゃん」
 似森は恥ずかしながら一部始終を教えた。真っ赤な室内だったこと、店員が不健康そうだったこと、赤い袈裟をかぶって、派手なメイクをしたこと、そして占いの内容を。
「自分で占うなんて珍しいわね。結果は当たったの?」また誰かが言った。
「これからお酒飲みながら結果について聞く予定です」
 あら、デート、いいわね、若いって、と主婦たちがざわついた。一番にこにこしていたのは最年長の真野さんだった。
「早苗ちゃんが占ったのは自分自身のことかもしれないね。ときに人間はかけて欲しい言葉を他人にかけるものよ。七十二年も生きているといろんなことがわかる。大きな変化が欲しいのは早苗ちゃんのほうじゃない?」
 

「ポストがポストになってる。相変わらずすぐ顔が赤くなるのね」
「ほっとけ」葉柴の顔はゆでだこのように赤くなっていた。
「で、私の誕生日プレゼントどうだった? 当たってた?」似森は二杯目のビールを豪快にあおぐと葉柴に尋ねた。
「当たってるとこもあったよ」
「ほんと? 冗談抜きよ」葉柴はうなずいた。「やっぱり自分に自信がないんだ」
「みんなそうだろ」
「あっ、また大きな問題にすり替えてる。癖だね」
「ご指摘いただきありがとうございます」
「まずは素直になるところからはじめるべきね。話聞いたけど就職活動してないんでしょ。業界勉強も自己分析もしてないみたいじゃん。ポストはさ、よく本読んでるし、やる気出せばいいところ入れるって」
「やる気が出てくれればね、そっちはどうなの?」
「私はもう業界も目星つけてるし、一般常識も勉強してる。森林公園の運営、造園会社、植物園運営とか、自然体験のイベント会社とか。とにかく自然と関わる仕事に就くつもり」
似森は突然グラスを目線の高さに持ち上げ、腕を突き出した。葉柴は仕方なく同じようにした。
「ポストの誕生日に乾杯!」勢いよく似森はグラスをぶつけた。ぐいっとビールを飲み干した。
「お前そんなに強くないだろ」
「いいのよ、めでたい日くらい。さあ、話して聞かせて。小さい頃からの悩みを」
「退屈だよ」
「昔話は子供の頃から私は好きなの」
「むかしむかしあるところに……なんてね」似森のえくぼにホクロが沈んだ。「幼い頃から母によく言われたんだ。人様には絶対に迷惑をかけてはならないってね。もちろん当たり前のことだ。だけどそれを守らないと、見捨てられるような気がしたんだ。だから絶対に守るようにしてた。そしたらいつも他人の目とか、その場のルールとか規範とかばっかり考えるようになってた。いま思えば、きっかけは小学校の転校だったと思う。転校したことある?」
「ない。けど転校生は私のクラスにはいたよ」
「転校生は二種類に分けられる。明るく楽しく振る舞って集団の新しい規範となるか、それとも集団のルールを予測し徹底的に守るか。俺は後者だった。担任の先生が目をかけているのが誰か、誰がクラスのムードを決定しているのか、どんな生徒像、友達像が求められているのか、そんなことばかり気にしていたんだ。俺は幼い頃からの訓練でそれに合わせて振る舞うことができた」
「優等生だったのね」
「だから妬まれた。そういう能力に長けてない子からね。郵便ポストって渾名にかこつけて、切手サイズの紙を貼ったゴミやら石ころを投げつけられたこともあった。でも彼らの気持ちもわかった。ルールを理解できないと地面が消えてしまったような気分になるから。転校初日と同じだ。だから機会があれば、彼らを集団の中に組み込むように取り計らった。それでいじめはなんとかなった」
「あんまり楽しくなさそうな学校生活」
「単純にやりたいことを主張することは好ましくなくて、集団の規範に沿った意見を持つほうがよいってことを学んだ」
「それのどこに悩んでいるの?」
「今度は父の呪い。高校進学の頃から、将来就きたい仕事や仕事内容を考えろって言われてきた。それが規範だと思った。それをきちんと把握していなければならないってね。でもそれがわからなかった。だから地面が消えちまった。ただ漠然とサラリーマンにはなりたくなかった。夜遅く帰ってきて、疲れた顔でビールを飲んで、バラエティ番組を見て、大笑いするような生活はさ。それからずっと考えてる。どんなことを仕事にするべきかをさ。高校じゃわからなかった。だから大学に行って考えることにした。それでもわからない。だんだんと規範を守れない自分は無価値なんじゃないかと思うようになった」
「他人の目ばっかり気にして、自分のやりたいことがわからなくて悩んでる、それで就活に身が入らないってことね」
「短くするとそうなるね」
「なにそれ。甘くない?」似森は静かにそう言い放った。「他人の目と規範を気にしてるのって、結局自分が傷つきたくないからって理由でしょ。甘ちゃんじゃない。それを親のせいにするなんて。両親のおかげでここまで育ててもらったんでしょ」
「わかってるよ」
「本当にわかってるの? ポストが嫌いなサラリーマンをお父さんがやってきたから大学だって入れたわけじゃん。そういうとこわかってるの? 恩返ししたいと思わないの?」
 葉柴はレモンサワーを一息で飲み干した。
「わかってるよ」と葉柴は似森の目を見据えて言った。「ただ納得したいんだよ。自分に向いてる仕事が何かって。でもそんなのやってみないとわからない。でもやみくもにってわけにもいかないだろう。大企業で有名だからだとか、その業界でトップクラスだからとかの理由だけで決められるのか? 俺にはそれが正しいとは思えない。だから悩んでるんだ」
 誰かにこんなに自分の心境を打ち明けたことがないことに葉柴はレモンサワーに口をつけたときにふと思い当たった。
「その悩みの解決方法を教えてあげる」
「どんな?」
「大事な話だから静かなところで話そうよ。どこか知ってる?」
「一番安上がりなのは俺の家だね。プレゼントでもらったうまいウイスキーもあるし」
「襲わない?」
「許可がない限りは」
 似森はえくぼにホクロを沈ませた。二人は会計を割勘で済ませて店を出た。星がよく見える日だった。

「ロックにする」ウイスキーの割り方を訊いた葉柴に似森は答えた。葉柴はグラスに氷を入れてテーブルに置いた。
 似森は部屋をぐるりと見渡した。ワンルームの真ん中に平凡なテーブルがある。棚には漫画本、小説、CDアルバムが並んでいた。窓際のベッドのそばのハンガーラックには私服に混じって、シワひとつないスーツがかけられていた。
「何かかけてよ」
「それじゃあジャズで」
「よく聞くの?」
「いや、ものは試しで買ってみた」
 なにそれ、と微笑む似森を見ながら、葉柴は二つのグラスにウイスキーを注いだ。トクトクと黄金色の液体が瓶から流れ出る。ポストの誕生日に、と似森はグラスを掲げた。二人はグラスを軽くぶつけた。名前を知らないトランペット奏者が名前を知らない曲を演奏していた。
「見習い魔女さん、それで悩みの解決方法は?」
「秘密を守れるかしら」似森は得意そうに微笑みながら言った。「誕生日の人間にしか教えることができない掟なの」
「古今東西の神様に誓って」葉柴も微小した。
「思い出して、深く味わうの。それしかないの。自分が何をしたいのか、を納得するには」
「思い出すって何を?」
「一本の樹よ」似森の答えに、葉柴はまぶたを閉じてから、わからないと首を振った。
「ゼミで奇跡の話をしたのを覚えている? 社会統計学のゼミでどうしてそんなテーマになったかは覚えてないけど。専門は政治社会学だったけど脱線が好きだからね、あの先生。その話の流れで私が一本の樹について話した」
「科学の発展の歴史の話じゃなかったかな。そこで奇跡について、どう思うか話した覚えがある。いまこの瞬間が続いてることが奇跡だとか、存在していることが奇跡だとか、そんな話になった。でも似森の話は思い出せない」
「私はそのとき死にかけた話をしたの。幼い頃、山で遊んでいて、足を滑らせて斜面を転げ落ちた話。崖に落ちる手前で大きな樹にぶつかったのよ。それで助かった。それから自然に親しみを抱くようになったって。それが私の奇跡ですってね。ただの幸運な話で片付けられそうになったけど、ポストだけが真剣に考えてくれた。そして笑いながら言ってくれたのよ」
「覚えてない」
「『神様にぶつかったのかもね。似森にとっての神様に。いいなぁ、自分だけの神様に出会えるなんて』って。その瞬間に、あの助けてくれた樹が、私だけの一本の樹になったの。背中にぶつかった衝撃をありありと思い出した。あのとき背中に感じたのは、大きな手のひらだったんだって思った。私を支えてくれてる私だけの手のひらがあるんだって。これからも支え続けてくれるって信じるようになった。そう思えると安心できた。だから樹とか森とかの自然にどんな形でも関わる仕事にしようって決めた。それがきっかけで触樹会もはじめた。全部ポストのあの言葉のおかげなのよ。感謝してる」
 似森はずっと言いたかった感謝を言葉にできてうれしかった。ほっとすると急に酔いが回っているのを感じた。
「ありがとう。俺も少しは役に立ってるんだね。うれしいよ」葉柴はグラスに口を付けた。真正面から感謝されたのはいつぶりだろうか。
「だから恩返しなの。記憶に深い意味を引き出してくれたポストに。なんだか元気ないし、就活にも前向きじゃないからさ」
「俺にもあるかな、そういう記憶」
「きっとあるし、ないならいまから作ればいいんじゃない? これだっていう記憶を」似森はくったくのない笑顔を葉柴に向けた。「私でよければ手伝うよ」
 葉柴は目をつむり、酔いまかせに記憶を掘り下げはじめた。自分がまるごと支えられたような記憶を。だがそんな記憶は思い当たらなかった。まず思い出話が葉柴は好きじゃなかった。いい思い出なんてそうないと思っていたからだ。蘇る記憶は初めて似森に会ったときのことだ。大学三年生の春の初回のゼミでたまたま席が隣だった。そのとき軽く似森は微笑んだ。葉柴はえくぼに吸い込まれるホクロを見た瞬間に恋に落ちたのだ。似森の唇、目、鼻筋、首、肩、胸、脚に触れたい、記憶から葉柴が引き出せる意味はその程度だった。
 自分自身を委ねられるような記憶はこれから作ればいいのか、と葉柴は自問した。あの方法ならきっとそれが試せる。成功すれば、そのために生きよう。失敗しても、また別の方法
を考えればいい。
 似森はテレビをつけると、深夜番組を見出した。バラエティ番組で売出し中の芸人やタレントが騙されて穴に落とされたり、奇怪な音に驚かされたりしていた。とっさの人間らしくない動きや、叫び声に二人で笑いあった。
 冷蔵庫に氷を取りに行って、戻ってみると似森は頬杖を突きながら目を閉じかけていた。
「終電は?」
「とっくに過ぎてる」
「寝るなら、そっちのベッド使って。俺は床でいいから」
「私に手を出す?」
「やめとく。カエルに変えられたくはない」
 似森はゆっくりと立ち上がり、よろめきながらベッドに倒れこんだ。朝起きたらすぐ帰るから、と似森は小さな声でささやくと、目を閉じた。
 葉柴は残ったウイスキーの瓶を棚に戻し、グラスを台所へ片付けた。葉柴は何度かよろけた。テレビを消してクローゼットから寝袋を取り出して、床に拡げた。二日連続で結構な酒の量を飲んだようだ。だが、まだ頭も回るし、体も動かせる。
まだだ、まだはやい、もう少ししてからだ。葉柴は緊張しはじめている自分に気付いた。
 部屋の明かりを消して、その時を待った。酔いが体中をめぐり、体が熱い。葉柴はしばらく目を閉じて、耳をすました。寝息が聞こえた。
 葉柴はゆっくりと寝袋から這い出て、似森が寝ているベッドの脇に立った。カーテンの隙間から月明かりがこぼれ、似森の顔に細い光の筋が落ちている。世界を信頼している表情をしていた。美しい、と葉柴は心から思った。
「こんなふうに、誰かに、何かに、自分のすべてを支えられている、という感覚が欲しいよ」と葉柴は小さくつぶやいた。
 右ポケットに手を突っ込むと栄養ドリンクが、そこにはあった。供養を意識すると、簡単に捨てることが葉柴にはできなかった。月明かりのなかで、瓶を揺すると、それが頭をゆっくりともたげた。よかった、まだ生きている。
「あなたよりもあなたの内側に詳しいかもしれないね」とあの老医者は言った。つまり、これは、俺の分身なのだ。俺はゆっくりと瓶の蓋を開けて、左の手のひらにそれを載せた。ピンク色をしたそれは広がりのある空間を感覚したのか、体をくねらせた。月光に照らされたピンク色のそれは生まれたての赤ん坊のように無垢な印象を葉柴に与えた。
 うやうやしく右手で取り上げると、葉柴は似森の顔にそれを近づけた。耳も鼻も現実的じゃない。体内に潜り込ませるなら、やはり口からだろう。ガタガタと風が強く窓をたたいた。葉柴が驚いた拍子に回虫は似森の頬に落ちてしまった。ぴとっという音さえ葉柴には聞こえた。それはホクロの位置だった。いま似森が笑えば、それはホクロと一緒にえくぼに吸い込まれただろう。
 似森の頬の上でじっとしているそれを眺めていると、葉柴は自分が興奮していることに気付いた。それは禁止されたルールを思い切り破る快感に似ていた。汚してはならないものを汚す喜びだった。
 喜びを引き裂いたのは、鳴り響いた携帯電話だった。ビールのコマーシャルに使われている曲が大音量で鳴った。似森の携帯電話だった。音に反応して似森は体を動かした。ピンク色のそれはベッドの脇に落下して身悶えている。とっさに、葉柴は似森が気付くよりも早く、右手で回虫を掴んで手の中に隠した。それから携帯電話を見つけて、似森に渡した。
「誰よ、こんな夜中に。ケイコか、明日折り返そう」そう言って似森は着信を切り、着信音をオフにした。
「水でも飲む?」と葉柴が尋ねると、似森は静かにうなずいた。回虫だけでは飲み込めないことに気付いたからだ。
 葉柴は部屋のいちばん小さい明かりをつけて、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出した。似森はあお向けで目を閉じていた。
「飲ませてあげるよ、口開けて、見習い魔女さん」葉柴は興奮を抑え、平然と言った。似森は薄目を開けて、小さく口を開けた。ピンク色のそれを握った右手でそっとキャップをはずし、左手でゆっくりと飲ませた。喉が動き、水は似森の体内への侵入を成功させた。次だ、次に口を開けたとき、水と一緒にそれを流し込もう、と葉柴は決意した。次が、その瞬間なのだ。似森が口を開き、水とともに、それを入れようとした瞬間だった。
「ポスト、私が一本の樹を見つけられたのはあなたのおかげよ。ほんとうにありがとう」目をつむったまま似森は言った。「葉柴の言葉がただの記憶を特別な記憶にしてくれた」
「たまたまだよ」
 それが手のひらで蠢く。もう一度水を飲ませようとしたが、似森は会話を続けた。
「葉柴は神様も投函するポストなのかも。まるで人々にとって大切なメッセージを伝える預言者みたいに」似森のえくぼにホクロが沈んだ。「ねぇ、私の耳をよく見てくれる? もっと近くで」
 葉柴は白い小さな左耳に顔をゆっくり近づけた。その瞬間、似森は顔を傾けて、葉柴の頬に口づけをした。
 葉柴の世界は動きを止め、重力の向きが変わった。柔らかな唇に葉柴は支えられていた。
唇が離れると葉柴は足に重さを感じた。
「似森、おれはおまえのことが……」
「全部、明日にしよう」
 似森は体を壁際にぴったりと寄せてから眠りについた。葉柴の頬に残る似森の唇のやわらかな温度はだんだんと高くなった。体中に回った酒に引火したかのように体が熱い。
明日の朝に想いを伝えよう。生まれ変わったかのように自信があふれた。そう決意したときに、拳を握りしめていることに葉柴は気が付いた。それは体から体液を漏らして死んでいた。
                               (了)

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