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小説「花束ルーレット」 小説塾・6回課題コース 第4課題

絵描きを目指しているかたが、時系列で作品を並べて、腕が上達する過程を見せてくれることがあります。それを小説でやってみようと思います。無料で読めます。投げ銭スタイルです。

2018年に薄井ゆうじ氏が主催する「小説塾」の小説創作講座・全6回・課題コースを受講した際に提出した小説たちです。最後の課題だけ、褒められました。

最後に、この小説の(厳しい)講評を紹介したブログ記事のリンクを載せておきます。

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「花束ルーレット」

 千夜子がドアから顔を出して覗いている。期待と不安で落ち着かないのだろう、と似森は微笑んだ。パソコンから顔を上げた似森の顔を見た千夜子は安心して、書斎に歩み寄り、膝の上にのせるように彼にせがんだ。ステンドグラス越しの光があどけない顔を包む。
「今日はどんな夢を見たいんだい」と眼鏡をデスクに置いからくりくりとした目でこちらを見上げる頭を撫でる。「楽しい夢? 面白い夢?」似森は千代子を抱きかかえた。
「おじいちゃんの昔話がいい。明日みんなに教えてあげるの。きっとお友達になってくれる」
 デスクトップの背景には娘夫婦とピンク色のランドセルを背負った千夜子が桜の樹の下で笑っている。
 手には荒野の写真。月の隣には赤い星。どこでこれを見つけたのだろう。孫娘の心地よい重さを太ももに感じながら似森は口を開いた。
 
大学卒業後、イベントや講演を運営する会社に就職して数年たった時期だった。突然、特定の人の声が聞こえなくなった。仕事のストレスを抱えている自覚はなかった。ただ直属の上司の表情が苦手なくらいだった。自信に満ちた顔、眠たそうな目つき、質問調子の詰問。それくらいだ。
 昔から自信に満ちた人物が得意ではなかった。人生にはささいな契機でも状況が一変し、情勢が逆転することがある。自分の決断が裏目に出て、これまでの事実の意味合いが変わってしまうことが多々あった。気付けばなるべく決断を遅らせる傾向が身についていた。即断即決できる人物に親しみを抱きにくいのは、自分の欠点を他人の美点に見出してしまうからかもしれない。
 会社に事情を話し、二週間ほど休むことにした。病院をめぐるもこれといった原因は見つからなかった。おそらくストレスが溜まっているのでしょう、しばらく休んでください。医者の指示通りに似森は安静にしていた。その友人から連絡があったのはその頃だった。
 俺を探しに来てくれよ、とメッセージが始まっていた。体調を崩しているみたいだな、気分転換に旅行でもどうだ。こっちは広いぞ。満員電車も大渋滞もない。コンクリートの高層ビル群に囲まれることもない。太陽は地平線から顔を出し、地平線の向こうへ帰る。風は土、植物、人の匂いを運ぶ。自然だ。お前が健康だった頃の体の記憶を呼び戻してくれるはずだ。返事を待ってる。
 メッセージに添付されていた写真を見て、似森は柴内に会いにいくことを決めた。どこまでも続く青空の下に広がる荒野と一本道。ただそれだけの写真だったが、似森はどうしてもその道の向こう側を見たくなったのだ。医者に安静を指示され、会社にも休養の許可を与えられた身での旅行は失礼かと頭によぎったが、荒野の魅力には抗えなかった。
 なぜ、柴内は連絡をくれたのだろうか。それが似森の出国の理由の一つだった。柴内とは高校の最後の学年だけクラスが同じだけだった。席が隣同士だったことで、趣味や進路について休み時間に話したが、特別親しい仲だった記憶はない。進学校だったこともあり、二人とも東京のそれなりに名の知れた大学に進学した。それぞれの生活を送るなかで、連絡を取り合うことは少なくなっていった。在学中に何かの飲み会で顔を合わす程度の付き合いだった。社会に出てからは一度も言葉を交わしていない。
 ☓☓☓☓国際空港にて待つ、衣食住はある程度の面倒がみられるので軽い荷物でかまわない、と返信があった。似森はパスポートを引き出しの奥から引っ張り出し、パソコンで翌日分の国際航空チケットを購入し、二日分の着替えをリュックサックに詰めて、ベッドに潜りこんだ。
その晩、夢に柴内が出てきた。二人並んで、荒野の岩陰でビールを飲みながら、地平線に沈む太陽を見つめている。どこに隠していたかは似森にはわからなかったが、柴内が花束を渡した。そんな夢を見た。
着陸のアナウンスで目が覚めた。眼下には荒野が広がっていた。似森は荒野に点在する大小さまざまな岩を見て、眠りの中で再び柴内と岩陰に座り込んで何かを話していた夢を見た、そんな気がした。二度連続だ。柴内に話したらどう反応するだろう。
キャビンアテンダントが座席を周り、シートベルトをチェックし、飛行機は着陸態勢に入った。無事に飛行機が止まると似森は安心した。まだ慣れない。万が一の可能性に引きつけられてしまう傾向は子供の頃からだ。もし今エンジンが爆発したら、僕はどこまで自分でいられるのだろうか。迫る爆炎や破片を認識するのだろうか、と。いつもそう考えている内に、シートベルトをはずすサインが耳に届く。
 入国手続きをして、到着ロビーに向かった。が、柴内の姿はなかった。メールで知らせた到着時刻通りだったのだが。そのうち来るだろうとカフェでアイスコーヒーを頼んだときだった。携帯に柴内からのメールが届いた。
 
親愛なる友人、似森へ。ようこそわが町へ。突き抜けた青空、遥か彼方の空間、君にまとわりつく風、足元を確固として支える荒野、すべてが君のために姿を現すように手配をかけた。よく目を凝らしてくれ。でないと、僕に会えない。会えない理由は、直に君に話したい。添付した写真を見て欲しい。僕はそこにいる。探してくれ。
 
写真には荒野が映っていた。硬い地面、大小さまざまな岩、大きな砂埃。それだけだ。あまりにも特徴がなさすぎる。こんな場所を特定するのは不可能だ。
柴内はなぜ迎えに来ないのだろう。直に会って話さなければならない理由はなんだ。メールで済む話じゃないか。僕は大きくため息をついた。お手上げだ。空港の外に広がる荒野を見れば誰だってそう思うに違いない。柴内の電話番号を確認しておくべきだった。
似森はしばらく考えてから、タクシードライバーに話しかけることにした。
空港の出入り口から少し歩くとタクシーが道に並んでいた。日焼けした運転手が数人でタバコを吸っていた。どこまでも続く一本道はやがて点になる。太陽の光を肌で感じ取る。心地よい風がほほをなで、見渡す限りの荒野に抜ける。
「バカなやつがまたひとり増えたぞ」写真を見せると一人が叫んだ。別の一人は、車体に寄りかかり大げさに笑った。タクシーまでが似森を笑うかのように揺れた。風が笑い声を彼方まで運ぶ。
「どこから来たんだ? 中国、韓国?」
「日本だ」似森が答えると、ぞろそろと集まったタクシードライバーはまた笑った。
「遠路はるばるご苦労なこって。日本にはミステリーハンターがたくさんいるのか」
「これは絵だぞ」前歯が半分ない年配の男が似森から携帯を奪い、高らかに掲げた。
「それにこんな赤く輝く星なんて誰も実際にみたことがない。言い伝えだ」黒ずんだ指先で月の隣の赤い星を指した。
「誰も信じてない地域の言い伝えだ。どっかのバカがそれを写真に似せて絵を描いたんだろう。それで一儲けしようって考えたんだろうな」
「言い伝えはたしか︙︙。その星を見たら死ぬんだっけか」ドライバーたちはタバコをふかしながら笑った。
「おれのばあちゃんはその星を見たってよ」二十代だろう、周りから一世代若い青年が答えた。ドライバー達の動きが止まり、タバコから灰が落ちた。
「おめえのとこのホラ吹きババアはまだ生きてるじゃねえか」

「あいつらは言い伝えを信じてないんだ」フレッドはそう言ってエンジンをかけた。
「いや、表に出さないだけかもしれないな。祭りなんかのときははりきってるし」似森は窓を流れる荒野を見つめていた。どこまでも道が続いている。どこまで行けば、彼ら家族が経営するモーテルにたどり着けるのだろう。友人を探していると説明すると、祖母の話をとりあえず聞きに行こう、とフレッドは言った。
 今晩の宿はとっていない。彼の祖母がホラ吹きでも宿は借りられるだろう。フレッドがホラを吹いているようには、似森には見えなかった。
「ばあちゃんは何でも知ってる。きっとその写真の場所も、似森の悩みを解決する方法も。ただ、君に心を開けばだけどさ」
「どうすればいい」
「君がまず自分の心を開くのさ」とフレッドは陽気に笑った。
 陽が傾き始め、夕焼けが荒野の一本道を照らす。あらゆる影が伸びはじめた。
「まずは僕に教えてくれよ。君のこと、最初から」ラジオから流れるポップスに合わせてフレッドは鼻歌を歌いはじめた。
「友人が先週メールをくれたんだ」
「もっと前からだ」とフレッドは話をさえぎった。「心を開く準備をするんだよ。語ってくれよ。僕に君を。まずは名前の由来からひとつ頼むよ。それに着くにはまだまだ時間がかかるし」フレッドはタバコに火をつけ、肺からゆっくりと煙を吐いてから似森に一本差し出した。三年ぶりのタバコははじめて吸ったときのようにむせた。禁煙した理由を似森は思い出せなかった。
 僕はフルネームを述べてから口を開いた。自分の生年月日から、名前の由来、小学生のときから続いているあだ名、初恋、部活動、大学受験、大学院での研究内容、就職活動、仕事の概要、そして聴覚の異変まで。
「それは君を幸福に導く選択だったかい」とフレッドはときおり質問した。わからない、と似森は窓から見える荒野を見つめて答えるばかりだった。
「それで、今にいたるわけか」うんうんと頭をひねりながらぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「そう、友達の柴内亮介に会いに来た」
「なんだシバウチのことだったのか。だったらすぐに会えるかもしれない」フレッドは視点を前方から似森の顔に移し、まじまじと見つめた。運転に支障はないようだった。
「彼は見つけたと教えてくれた」
「何を?」
「赤い星を」腰が浮いた。いつも間にか砂利道を飛ばしていた。
「言い伝えなんじゃないのか」
「僕は見たことないけどね。これで二人目なんだよ。ばあちゃんとシバウチ。ばあちゃんも目を丸くしてたな」
「柴内はモーテルに滞在しているのか」
「ときどきね。一昨日も泊まったよ」
 太陽が地平線にその身を隠し始めたときに、モーテルについた。あたりは濃い闇に包まれていたが、一目で安宿だとわかる小さな館だった。古びた外壁、手入れのされていない花壇、磨かれていない窓。フレッドと一緒にドアをくぐり、受付で宿泊の手配をすました。案内された部屋に荷物を置いてから、食堂で夕飯を済ませ、ベッドで眠りについた。
 じっとりと全身にかいた汗をシャワーで流し食堂へと向かった。三度連続で柴内の夢だ。柴内と赤い星。内容は思い出せないが、不快感だけが体に残る。死の星、とタクシードライバーは言っていた。ただの言い伝えだとも。似森は現実的な人間だと自負していた。科学こそが世界を正しく理解する唯一の方法だとまではいかないにしても、自分の身の回りには人智を超えた力がおよぶことはないだろうと考えていた。手のひらをかざして病を治癒したり、子羊の血で一族の繁栄を祈願することもあるかもしれない。ただ、それは自身の身の周りでは力を発揮しない、と。だが、三度連続で同じ人物が夢に出た事実と赤い星の言い伝えに似森はわずかに不安を覚えた。
「よく来たね。うちのトマトは絶品だよ」とフレッドの隣に座っている背中を丸めた老婆が似森に挨拶した。「朝から頭がフル回転」老婆はトマトをまるかじりした。
「こちらがニモリ、シバウチの連れなんだって。こっちがサラ。僕のばあちゃん」
「あたしはなんだって知ってるよ。お前さん、双子の弟がいる顔だね。責任感が強いと思い込んでる。体が故障するまで心をこき使うタイプだ」似森の顔を軽く一瞥してから言った。フレッドは驚いた顔でサラを見た。
「どうして知ってるんだ。オレはまだ似森について何も話してないのに」
「うそだろ?」似森はフレッドを笑った。
「本当だよ。オレは本人がいないところで、そいつの話しをするのが嫌いなんだ」
「なんでも知ってるんだよ。あたしは」もう一度トマトにかぶりついたサラは満足気に言った。
「で、何を聞きたいんだい」食後のコーヒーを飲みながらサラは尋ねた。
「それはわからない?」似森は笑顔でサラに問いかけた。
「試すんじゃないよ。言い伝えのことだろう。最初から教えてくれるかい」静かに答えた。
 フレッドに車内で話したように、似森は話した。文字通りはじめから。サラはすでに知っているかのように相槌をうった。
「今日シバウチに会えるよ」とサラは何気なく言った。
「赤い星の下で?」
「そう。夜の九時に出発しな。私が教える方向に歩けばそこに着く」
 そしてサラは言い伝えを似森に語った。
 ある男が荒野をさまよっていた。その男は自分自身を見失っていた。愛する女を置いていかなければならない運命を恨んでいた。友人殺しの罪を着せられ、街を追われた男は、ゆく当てもなく、荒野を歩き続けた。やがて運命への恨みは生への無関心へと変貌し、男は死を求めはじめた。夜通し歩き続け、寝食を忘れ、空を見続けた。大きな岩の上で寝ていた男は、首筋に寒気を感じ、背後に気配を感じた。
振り返ると黒い男が立っていた。男は自分自身の影だと直観し、命を奪われると思い込み、その黒い男を突き飛ばした。恐怖に心を奪われた男は助けに来たはずの愛する女を突き飛ばし、その拍子に足をすべらせ、地面に落ちた。死の間際、傍らに寄り添う女に向けて、男は声を絞り出した。赤い星が月のそばに見える、と。
「この話は各地に伝わり、月のそばに赤い星を見ると背後に自分自身を見出して不幸になる、という言い伝えになった」
「その噂はいつから?」
「俺が赤ん坊の頃から」フレッドの声が聞こえた。
 似森は、読書や散歩をしたりモーテルの掃除を手伝ったりして午前中を過ごした。昼は三人で食事をし、とりとめのない話しをした。
 眠気が似森を襲ったのは一四時くらいだった。その夢の中で、柴内は死んだ。
 手に血の温度を感じた。強く刃物の柄を握っている。刃は柴内の腹に食い込んでいる。思うように手は動かない。鉄のように固く、そして震えている。涎が顎をつたうのに似森が気づいたとき、歯をくいしばっているのがわかった。顎の筋肉の震えが止まらない。
 似森の肩に顎をのせている柴内の目はうつろだ。もう生気はないようだ。似森は震えるたびに、刃先に柴内の肉の重さを知る。
「僕で最後にするんだ︙︙」耳元にあたたかい息を感じる。柴内が続けた言葉は似森には伝わらなかった。
 柴内の体からすべてが抜けきったとき、似森は月を見上げた。はじめて似森は星と目が合う経験をした。月のそばの赤い星に。
 そこで夢は終わった。

 汗に濡れた体をシャワーで洗うと、フレッドが夕飯を知らせた。五時間以上眠っていたようだ。
「花が咲いているはずだ。その岩山を見つければいい。そこから空を見上げればきっと赤い星が見える」サラはシチューを食べながら似森に伝えた。
「時間は?」
「二十分」
 夕食が終わると三人でコーヒーを飲んだ。シバウチによろしく伝えといてくれ、とサラとフレッドは頼んだ。二十一時になると、二人は裏口まで似森を案内し、コンパスと懐中電灯と小ぶりのナイフを似森に渡して見送った。
 言われた通りに、似森は北東に向けて足を進めた。砂、岩山、闇、雲、月。コンパスを片手に似森は歩いた。ムカデやサソリや見たことのない虫が地面を這っている。風がときおり吹き付ける。人や動物のような声を耳にするたびに、似森は立ち止まり、振り返った。
 果たして言い伝えは本当なのだろか。似森は柴内が何をしたいのかが分からなかった。不幸になると運命づけられた場所で何を伝えるつもりなのだろうか、と考えていると足元で何かを踏んだ。
 花だった。白い花がひとつの平べったい岩の周りに生えていた。似森は小さな岩を階段のように踏みしめ、その岩に登った。大人が二、三人は大の字で寝られるほどの大きさだった。そこで似森は空を見上げた。
 満月の星が光を放っていた。それだけだった。赤い星などどこにもない。やはり言い伝えだったのだろう。似森はしゃがみこんだ。人智を超えた現象は自分の人生の舞台には登場しない、と似森はあらためて確信した。首筋に異物を感じたのはそのときだった。
「動くな」
「誰だ?」似森は反射的に声を出したが、思い当たる人物は一人しかいない。この場所を知っている人物、そして日本語が使える人物。柴内だ。振り返ろうとする似森の首筋に刃物の先端が触れる。
「振り返るな」
「何の真似だよ。柴内」
「言い伝えを聞かなかったのか? お前を殺しにだよ」
「言い伝えの男は自分自身に殺されると恐怖したんだ。お前は俺じゃない」
「お前の代わりに殺しに来たのさ。お前もあの男と同じように人生に無関心になっている。それが体に現れはじめているんだ。だから耳に異変が起きた。お前は誤解しているだろうが、特定の人の声が聞こえないんじゃない。特定の言葉が聞こえないんだ」
「どうして知っている」
「俺は何でも知ってるんだよ。その原因もだいたい予想がつくし、治療法もわかる。なぜって? 俺も同じ症状が出たことがあるが回復したからだ」
「その方法がこれか」
「死んでもらう」柴内は白い花束を似森に渡した。岩の周りに自生する花。花束からは甘い匂いがする。呼吸するたびに似森の全身をめぐる。
「一度死んでもらう。記憶の中へ」
 似森の意識はぼやけ、視界は霞み、体から力が抜けた。が、意識が失われたわけではない。
「なぜ俺を助ける」
「恩返しだ」意識が朦朧とする似森には柴内の声が自分自身の声のように聞こえる。砂、岩山、月、そして身体が溶け合い、事物の境界線が消えていく。
「思い出してくれよ。俺を助けたときを。お前が死ぬ間際に見る走馬灯の中にセリフある人物として登場させてくれ」
 柴内の声が似森の記憶を回転させる。朦朧とする意識で、柴内との会話を思い出そうとする。「走馬灯の中にセリフある人物として」この言葉が記憶の中で光る。
 小説のセリフだったか、映画のセリフだったか思い出せないが、誰かが口にしたのを思い出す。再び記憶が回転し、溶け合う。火花が散るように記憶の断片が飛来する。
 放課後の屋上から校舎の中へ似森は戻る。背には夕焼けを浴びながら。階段を登ってくる男とすれ違う。誰だ? 似森は何かを口にした。高校生のときの記憶が意識の中で次々と浮かんでくる。部活、授業、登下校、友人の顔。水面に浮かぶ像のようにその輪郭はぼやけている。掘り出された記憶がうねる。そして再び、夕焼けを背に、柴内と階段ですれ違う。
「深くは知らないけどよ。俺はお前の友達だ。忘れんなよ」あのとき似森は柴内にとっさに話しかけた。「走馬灯の中でセリフある人物として登場させてくれよな」そう、あのとき似森を見上げた柴内の瞳に影を感じたのを思い出した。漆黒の固まり。柴内を取り囲む無機質で動かしがたいほどの密度もって迫る目に見えない力を似森は感じずにいられなかった。何よりも腹立たしいのは、柴内が自身の良さを忘却していたことだった。だから、この言葉が口から出たのだ。何かの助けになるかと思って。柴内の肩に手をおいて、死ぬんじゃないぞと心に唱えながら。
 そこで似森の記憶はまったく別の記憶につながる。このセリフは映画や小説などで知ったわけじゃない。似森自身が作り出した言葉であった。自分自身のために作り上げた脚本に出てくるセリフだ。似森の体は震え、目が開いた。全身の細胞が回転するかのように鳥肌が立った。あの当時、映画や小説が好きだった。その記憶は物語を希求する似森の心の蠢きを思い出させた。
「思い出したか?」
「ああ。思い出した」
「死んだか?」
「確かに死んだよ。いや、死んでたのかもしれない。聞こえない言葉もわかった気がするよ」似森は言葉を切った。「俺の下の名前だろう」
「ご名答。自分自身を見失っていたんだから当然だな。フレッドとサラの呼びかけに反応してなかったからな」
 そうかもしれないな、と似森はつぶやくと、首筋から刃物が離れた。振り返ると闇に溶け込んだ男が立っていた。瞳はまっすぐと似森に向かう。そして柴内は口を開いた。
「自分自身の核となる記憶は見出し続ける必要があるんだ」

 千夜子の瞼は閉じかけられていた。歳を重ねると話が長くなってしまう。サラが柴内の指示通りに動いていたこと、フレッドの車に盗聴器を仕掛けていたことを話す時間はないようだ。言い伝えはサラが若い頃目の前で飛び降り自殺をした夫の行動に、自らの心を守るために作り出して吹聴した幻想だということも。それを柴内が利用したことも。

「明日はみんなに何を話せばいいの?」睡眠と覚醒の境界域から千夜子が質問する。寝ぼけ眼、気だるい声、桃色の肌。その全てに似森は愛おしさを感じる。
「大きくなって思い出すために遊ぼうって誘うのさ」
「よくわかんないけど、覚えておくね」小さな声でそうささやくと千夜子は眠った。

                               (了)

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