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小説「鏡面で踊る男」 小説塾・6回課題コース 第1課題

絵描きを目指しているかたが、時系列で作品を並べて、腕が上達する過程を見せてくれることがあります。それを小説でやってみようと思います。無料で読めます。投げ銭スタイルです。

2018年に薄井ゆうじ氏が主催する「小説塾」の小説創作講座・全6回・課題コースを受講した際に提出した小説たちです。最後の課題だけ、褒められました。

最後に、この小説の(厳しい)講評を紹介したブログ記事のリンクを載せておきます。

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鏡面で踊る男 

僕がそれを思い出したのは、窓に映る女の表情がゆっくりと歪みはじめたのに気が付いたときだった。

 僕はその日も残業を終えてから退社した。その日も相変わらず星の見えない夜だった。どの方角にも、ビルと星のない冬空。星空に運命を見出すことは誰にもできそうにない。通りを歩く人と同様に、携帯電話をのぞきながら、有楽町線で池袋に向かう。 

 地下鉄にはやはり少なくない客が乗っている。

 酔っ払って大声でしゃべる五十代中頃の二人組のサラリーマン。黒いピンヒールで巨体を支えるのに成功している女性は顔の半分をマスクで隠し、携帯電話に顔を近づけている。高校生だか予備校生の男は英単語帳を拡げ、時折目を閉じ、口を動かしている。そのたびに肩にふけが落ちる。いつもの有楽町線だ。

 いつも通りに僕は車両のつなぎ目近くに位置し、バッグから取り出した文庫本を読みはじめた。イスラーム哲学を解説したその文庫本は黒いブックカバーに覆われている。遠い砂漠の世界宗教。もうすぐ三十歳に手が届く年齢だが、自分の人生をうまく意味付けできない。どんな海賊旗を掲げればいいのだ。何を探しているのか。一つの章が終わった。だが、僕には何も変化はない。深くため息を吐く。僕は目を閉じ、文庫本をしまった。電車が駅につき、ドアが開き、乗客がなだれ込む。僕に誰かがぶつかる。ここは東京の地下鉄なのだ。僕は目を開き、窓を見つめた。

 その女性に気付いたのはそのときだった。飯田橋駅から乗車したその小柄な女性は僕の隣でバッグから文庫本を取り出し、耳にその長い髪をかけてから読みはじめた。彼女は文庫本にブックカバーをしない性格のようだ。アンビリーバブル、と学生は小さくつぶやく。黄表紙の岩波文庫。それは僕が今読んでいる本と同じだった。イスラーム哲学。あるいは彼女もまた海賊旗に掲げるべき図柄を探しているのだろうか。化粧は薄く、目は細長い。鼻筋はきれいに整い、顎のラインは見事に耳まで走っている。こんなに儚い表情をした海賊船帳は歴史上に存在しただろうか。彼女は時折、唇を動かして何かをつぶやいている。迷いはない。艶やかなピンクの口紅が薄い唇を包む。何度も繰り返えされた言葉なのかもしれない。

 その抑えられた美貌に(僕にはそう見える)目を奪われていると、突然彼女は文庫をパタンと閉じた。それからゆっくりと目を閉じた。次の駅に到着する。乗客で車内はさらに混みあう。そのときだった。彼女は目を開き、窓に映る僕を見た。表情が次第に笑みに変わっていくさまを僕は見つめた。目をそらさずにはいられなかった。細長い目は一切動かず、頬が次第につりあがる。口元の動きに統一感はない。望まれるすべての条件が揃い、ついに呪いが顕現し、その効果が今まさに僕におよぶのを予感させるような、歪で、そして不吉な笑顔だった。

 そのとき、その記憶が鮮烈に僕を貫いた。が、唐突さゆえに、意識の地平に留まることなく、余韻だけ残して消えてしまった。海面からその身を投げ出し、水しぶきだけ残したザトウクジラのように。が、その不完全な記憶の気配はまだ僕から遠くはなれていない。海面にはクジラの影。幾重ものヴェールを重ねられた記憶だ。そうであるがゆえに、僕はそう直観せずにはいられない。いま最も求めている記憶なのだと。その記憶には、海賊旗のシンボルを見い出せるはずだと。大海を吹き抜ける風を受ける帆に描くべき僕の海賊旗が。

 僕と彼女の間で、時間が局所的に淀む。見つめ合う、そのわずかな時間に僕はその記憶にアクセスするために体中の器官を動員した。だが何かが阻む。彼女の唇が言葉を形づくる瞬間に、緊急停止のアナウンスが流れた。急激に速度を落として、電車はやがて止まった。ガタン。彼女は大きく揺さぶられ、文庫本を落とした。僕はそれを拾い上げ、びっくりしましたね、という意味を含めて微笑した。手渡す瞬間に、僕に向けられた何かの気配を彼女の瞳の奥にそっと探るために。神殿の宝物を盗もうとする大泥棒のように。
彼女がみずみずしい肌色の指先で文庫本に触れようとしたそのときに、バイオリンの音が空間を引き裂くように響き渡った。バッハのG線上アリア。車内の誰もが固まり、周囲を見渡しはじめたが、もうすでに彼女はその携帯の持ち主に目を飛ばしていた。彼女が僕の目の前で行った必要最低限の動作に、すなわち目を閉じ、耳をすませ、首を回す動作に僕の記憶の種子が反応したのを見逃すわけにはいかなかった。首筋に描く髪の毛の模様は何かを語りかけている。だが、その言葉を読み取れない。僕にとって不可欠な何かの在り処を示しているはずなのに。音が鳴り止む。

「いま電車だよ。もうすぐ帰るって。そんなに飲んでないよお。いいじゃないかよ。今日中には帰るんだから」とサラリーマンは大声で話し、電話を切った。相変わらず愛されているねえ、と相方がからむ。

 彼女が振り返り、僕に再び目線を投げかけてから、文庫本を受け取った。わずかに微笑みながら。暗号を解く鍵を探す名探偵のように、彼女の瞳をほんの一瞬のぞき込む。途端にその記憶の影が目の前を通り過ぎる。彼女は瞬きをして、口を動かした。ありがとう、と声に出したつもりなのだろうが、僕の耳に届く瞬間に、別の女の叫び声が彼女の声をかき消した。

「いやあ」と鋭い叫び声が車内に響く。ピンヒールが根本から折れて床に転がっている。なによもう、と女は小さい声で毒づいた。まったく、プレゼントまで使えないんだから、と悪態をつくと、女の左足首が不自然に曲がった。連れ合いを失ったピンヒールに彼女を支える気力は残っていなかった。彼女は大きな体から大きなため息を吐いた。

 僕は網棚の荷物の中からトレーニングシューズを取り出した。黒一色のスニーカーだ。今週にでも買い換えようと考えているほど使い古されているが、裸足で帰るよりはましだろう。僕は女に近寄り、スニーカーを手に声をかけた。大変でしたね、という笑顔で。

「よかったら、これ履いて帰ってください」
「いらない、アイツを駅まで呼ぶから」

 乗客の目線を体に浴びながら、僕は元の位置に戻った。ミゼラブル、と予備校生は目を閉じて、小さく何度も唱えた。

「いらないんだ。裸足で帰るのかな」と不意に彼女は僕に声をかけた。
「ええ、そうみたいです」と多少のおかしみを込めて彼女に答えるつもりだったが、僕はとっさに言葉に詰まった。彼女の眼差しが僕の眼球を貫いたときに、クジラが跳ねた。彼女の声は耳から侵入し、心臓まで届く。小さいが力強い。声の波紋は鼓動のリズムを変える。新たな律動は僕の体を次第に作り替えていく。記憶だけが、その記憶だけが、不鮮明なままだ。完全に姿をみせないが、新たな律動と共振している。彼女の耳に踊るエメラルドグリーンの水晶が僕をあざ笑うように妖しく光る。それが合図のかのように、車内の灯りが消えた。体に緊張が走る。たまにある電気トラブルだろう、と思ったそのときだった。

「思い出せたのか」
 彼女の声から朗らかな響きは消えている。低く暗く、そして重い声。重圧に僕は固まる。車中の人びとはすぐにその暗闇に溶け込む。誰も声を出さなかった。闇の中を、僕らは移動し続けた。が、僕にはその声がのしかかる。思い出せたのか。

 トンネルに等間隔に設置された蛍光灯の光が窓から入り込む。一瞬照らし出される彼女は不敵に笑いながら僕を見つめる。いや、彼女は僕を見つめてはいない。僕が記憶に見出そうとしているそれを射抜くように見つめているのだ。僕にその覚悟があるかどうか、を。

 その記憶を僕が記憶として切り取ったとき、今と同じように射抜かれていたのだ。僕はそのとき、自分が求めているはずのそれを差し出したのだ。くだらないものを守るための代償として。そして、自らその記憶ごと焼き払ったのだ。それから僕は帆のない船で同じ星を見上げて、大海の上を揺れていたのだ。闇の中を列車が進む。次の駅はこんなに遠かっただろうか。

 ガタン、と電車は大きく揺れた。鈍い音がして灯りがついた。まるでピンスポットのように僕の頭上にだけ。車中の人がみな同時に僕を見つめる。もう思い出せたのかい、と。僕は顔をそむけた。目線の先には男が映っていた。ガタン、と電車が揺れた。崩れたバランスを取り戻そうと、僕はとっさに肩に力を入れ、腕を空中に投げ出したとき、窓に映る男が僕の動きを真似て踊った。彼は笑っていた。その瞬間に、差し出して失われたはずの記憶が炎の内から蘇り、その産声は僕を圧倒し、震え上がらせた。クジラは豪快に宙を跳ね続ける。記憶が記憶を呼ぶ。車中の人びとの両眼が僕を射抜く。だが、僕と窓の男は笑いながら、揺れに合わせて、震える体を踊らせ続けた。

「文庫本をひろってくれてありがとう」彼女はそう言って、下車した。
 あたりは光に満ちて、足元はもはや揺れていなかった。ドアから吹き付ける風を体に受けた。

                               (了)

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こちらの小説の講評はこちら。

読んでくださったかた、ありがとうございます。

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