見出し画像

小説「朽ち果てた飛行船」 小説塾・6回課題コース 第3課題

絵描きを目指しているかたが、時系列で作品を並べて、腕が上達する過程を見せてくれることがあります。それを小説でやってみようと思います。無料で読めます。投げ銭スタイルです。

2018年に薄井ゆうじ氏が主催する「小説塾」の小説創作講座・全6回・課題コースを受講した際に提出した小説たちです。最後の課題だけ、褒められました。

最後に、この小説の(厳しい)講評を紹介したブログ記事のリンクを載せておきます。

--------------------------------------------------------------------------------------

「朽ち果てた飛行船」

 改札のそばの公衆電話で女が泣いていた。これだけ携帯電話が普及した時代で公衆電話の利用者を見かけるのは難しい。僕は小さく舌打ちした。女はときおり泣きながら電話口で強く叫んでいた。池袋駅の地下ホームから多くの乗客が改札口までの階段を登ってくる。誰も女に気にかけない。二十三時。人はみな家路につく。
僕もその一群に属しているはずだった。だが今、泣く女のそばで、改札をすばやく通り抜ける人びとを眺めている。
「どうしてカメラを盗んだのよ」と女は電話口で叫ぶ。解雇という言葉も聞こえる。語気に合わせ、長い黒髪が揺れる。足元の黒革のバッグには金色のブランド名。そばには真紅のピンヒールが控え、肌にはりつくような黒いパンツスーツがほっそりとした足首を包んでいる。下半身を有効に動かすのに必要な筋肉以外は何もついていないかのような脚線美。胸元の開けた白いブラウスに黒のジャケットを羽織り、白い指先で受話器を握る。首をかしげる女の首筋はうっすらと汗ばんでいる。高い鼻筋に、直観に従い行動する女の性格がみえる。厚い唇は地下構内の蛍光灯に照らされ妖艶に輝く。大きな瞳には、それにふさわしいほどの長い睫毛が備わっていた。こめかみに力が入ると、眼光が鋭くなる。けれども、あふれる涙を止めることが彼女にはできない。
「小銭を貸してくださる。切らしてしまっていて。後でお返ししますから」
 潤んだ瞳に真一文字の唇。背筋を伸ばして、僕を見つめている。小銭くらいかまわないだろう。
「どれくらい」
「ありったけくださるかしら」彼女は微笑んだ。
 必要な分だけ残して小銭を渡した。ありがとう、と彼女は礼を言って、すべての小銭を公衆電話に注いだ。僕の番は果たしてくるのだろうか。
 彼女はそれから十五分程度話した。その間に階下のホームには三本の電車が止まり、過ぎ去った。通勤者の波が僕らを三度洗った。これだけ労働者がいれば、僕ひとりが欠けても世界は通常運転だろうと考えたとき、彼女は静かに電話を切った。そして地面にうずくまって動かなくなった。
 声をかけても返事はない。僕には僕の用事がある。ポケットから小銭を取り出し、公衆電話に入れた。そして、迷いなくダイヤルを回す。
どこでなくしたのかを思い出せない。退社時には持っていたはずだ。誰も出ない。電池は切れていないはずだ。先月買い替えたばかりだ。女が足元で泣いている。何人かの通行人が僕を不審がる。さっきから駅員もガラス越しにチラチラとこちらを見ている。誰も出ない。押さえきれない女の涙声が漏れたとき、電話口に男が出た。
「よかった。つながった。それは僕の携帯なんですよ。拾ってくれてありがとうございます。どちらで拾いましたか」沈黙が流れる。何も言わない。「あのう、もしもし。いまどこにいますか」
「池袋駅のホームです」
「僕はメトロポリタン口改札の公衆電話からかけています。近くの駅員さんに渡していただけますか」
「いや、すぐ近くですので、直接お渡しいたしますよ」
「ありがとうございます」僕は受話器を耳から離した。切らないで下さい、すぐ近くですから、と男はつぶやいた。
 泣いていた女はやがて立ち上がり、お金を崩してくるので待っていて欲しいと小声でしゃべり、近くのキオスクに向かった。
ホームから大勢の人びとが僕に向かって歩いてくる。女が人波をかき分け、近づいてくる。袋には二つの缶ビール。体のラインに見とれていると、後ろから声をかけられた。
「携帯の持ち主はあなたですか」眼の前の男のセリフが受話器から聞こえる。声は太い。短く刈り上げられた髪は整髪料で固められ、蛍光灯の光を反射している。深く剃られたあごには、度を越した清潔感が漂う。眉毛は左右対称に切りそろえられ、鼻には短いが、深い傷跡があり、鼻筋が曲がっていた。目はおそろしく細い。眼光が鋭いことを自覚し、故意にそれを隠している目だ。糊のきいたグレーのシャツに黒のジャケット。ネクタイはしていない。手首には雑誌で見かけた時計。不必要な折れがまったくない黒のスラックスの先には、今朝も念入りに磨かれたであろう革靴が光る。背丈はだいたい僕と同じで、百八十センチに満たないぐらいだ。
「ありがとうございます。それは僕の携帯です」僕は公衆電話の受話器を持ったまま答えた。
 彼の眼光が僕の両眼を貫きはじめたときに、突然ほほに痛みが走った。
「あんたもグルだったのね」缶ビールが床に落ち、中身が溢れた。「カメラを返しなさいよ」女が叫んだ。振り返ると男はいなかった。改札を出て、地上出口に向かって走っていた。
 男をめがけて放たれた缶ビールは、通行人の女性に当たり、地面に転がった。睨みつける通行人には目もくれず、女は僕に走り寄り、勢いよく突き飛ばした。僕はよろめきながら、何かを失っている気がした。女はバッグを掴むと、どいてよ、と声を出しながら男を追った
 いつも何かに巻き込まれる。そして何かを失う。その記憶はかすんでいるが、確かな感覚を体は忘れない。携帯電話だ。それにたいした金額ではないが、女に小銭を持ち逃げされた。僕は大きなため息をついた。駅員が僕を見ている。ちがう、僕じゃない、この騒動はあの男女が引き起こしたんだよ。
握ったままの受話器を元に戻そうとしたとき、電話口から男の声が聞こえた。
「あんた彼女に何したんだ」息が切れている。
「あなたがあの女性に何かしたんでしょう。携帯を返してもらえますか」
「条件がある。拾ったんだ、御礼のひとつがあってもいいだろう」
「謙虚な人だ」
「十分後に池袋西口公園の喫煙所」小さくつぶやいてから電話が切れた。

 メトロポリタン口から地上に出る。わずかにどぶのような臭いが空気に交じる。池袋西口公園は目と鼻の先だ。
 円形に公園を縁取る腰掛けには、コップ酒をもった老人や、酒瓶をあおる外国人がそれぞれのコミュニティで集まっている。まだらに位置するコミュニティの隙間にはサラリーマンが座っている。公園の中心にある噴水付近には、学生達が地べたに座って缶ビールを開けている。
 公園の南側には舞台がある。高さは百五十センチ。音楽祭やお祭りなどのイベントが毎週開かれている。その日その場所には大きなオブジェがあった。高さ三メートル、横幅七メートルほどだろう。飛行船だ。正確には飛行船の骨組みだ。明日布をかぶせ、希望者の子どもたちがペンキで色を塗る。文化芸術を促すイベントが開催されるそうだ。だれかが踏みつけたチラシにそう告知されていた。
 飛行船にはこれからの旅立ちを喜んで迎えるような気配はなかった。さまざまな人間を乗せ、西へ東へと世界中を周る過程で傷ついた肉体を休めているように見えた。僕は腕時計に目をやり、公衆トイレに隣接された喫煙所へ向かった。
 一年前にタバコをやめた僕にとってこの臭いは耐え難い。男はどこだ。僕の視界には老若男女の喫煙者が映る。先に僕の目に止まったのはあの女だった。そこで僕ははじめて彼女が片腕しかないことに気付いた。女は月を見上げながら細長い煙を吐いたときに、僕の肩を誰かが叩いた。
 あの男だった。唇に人差し指を立て、喫煙所を出るように、親指で出口を指した。

「条件は」終電まであと一時間もない。単刀直入に聞いた。
「彼女に写真を撮らせてやってほしい。それが条件だ」
「なぜですか」
「理由を君に説明してもわかりはしない。難しい頼みじゃないはずだ。君にカメラを渡す。そのカメラを彼女に渡す。彼女が写真を撮る。それだけだ」
「いつ、どこで、どんな写真をとるのでしょう」
「彼女にカメラを渡してから、五分ほど時間を稼いで欲しい。被写体を用意する」
「彼女とは知り合いだった?」
「仕事仲間だ」
「それだけ?」
「恋人だったこともある」
「彼女が公衆電話で涙を流していた理由も知っている?」
「もちろん」
「そして」と僕は言葉を切った。「逃げる理由があった」
「そういうことになるね。すべての理由を知り尽くさないと行動しないタイプには見えないが」
 僕は男からキャノンの一眼レフカメラを手渡された。使い古されていた。
「彼女のだ。渡してくれ」
「あなたが彼女から奪った?」
「言葉には気をつけてくれ」男は少し間を置いて言った。「おれの名前はサカキだ。もし不都合なことが起きたら名前を呼んでくれ」
 一眼レフを手にした僕は路地に消えていく彼の姿を見送り、喫煙所に戻った。
 僕は彼女の視界にそっとカメラを差し出した。
「さっきサカキという人から受けとったカメラです。あなたに渡すように頼まれた」
「返して」
「もちろん」僕はカメラを彼女に手渡した。彼女は吸いかけのタバコを僕の足元に投げる。好かれてはいないようだ。公園の照明が一瞬だけ灯り、すぐ消えた。
「あんたもあいつの仲間なの」
「恋人をあいつと呼ぶのはどうかと思いますが、僕は彼とは知り合いでもない。ただ携帯電話を失くしただけですよ」僕は彼女に事情を話した。
「それが本当だとして…、彼は私に何を求めているの」さあ、と僕は呟いた。
 公園のステージに明りが点いた。公園内がざわめく。あんちゃんなにしてんのさ。これからサーカスでもおっぱじめるのかい。ホームレスのヤジが飛ぶ。噴水が夜空に向かって立ち昇ると、静かにジャズが流れ出した。
「今から明日の予行練習をするつもりなの?」怒りを押さえながら、女はカメラを首にかかげ、喫煙所を出た。僕は後を追った。成り行きを見届けなければ携帯電話が返ってこないだろう。
「これからだってときだったが、仕方ない」舞台上の光の中で漆黒のスーツに身を包み、嵩の高いシルクハットをかぶったサカキが声を張り上げる。赤いステッキとステップでリズムを刻む。
「これからだってときだったが、仕方ない。ステップを止める理由に彼らはいつもそう言う」シルクハットをくるりと回して、かぶり直す。「君たちはそんな人間になってはいけない。立ち止まってはいけない。いつでもからだを動かすんだ。音楽に耳をすませて、リズムを刻むんだ。自分だけのリズム。自分が気持ちいいリズムを生み出すんだ。誰かの声を聞くのはあとだ。誰かに教えてもらうのはあとだ」ステッキを回転させながら宙に投げ、体を一回転させてから受け取った。
「さあ、好きな色を選ぶんだ。赤、青、黄、緑、なんでもある。自分が気持ちいい色を見つけて、手に取るんだ。それで飛行船に色を塗って欲しい。みんなの色で塗った飛行船はこの世に二つとない。僕らは飛行船を完成させて空に浮かべる。君たちの色をのせて」
サカキが杖を空高く掲げると音楽は止んだ。辺りは静まりかえる。酔っ払った学生が口真似をして、そばの女子大生を笑わせている。
「さあ、塗り終わったかい、子どもたちよ。素晴らしい飛行船ができたようだね。疲れ知らずの飛行船の完成だ。記念にみんなで写真をとろう。僕には優秀なカメラマンを見抜く目があるんだ。どれどれ。あそこの女性に頼もうか」
 サカキは片腕の女を指さした。ホームレス、大学生、外国人、カップル、サラリーマン達の視線が彼女と僕に刺さる。
「私に写真を再び撮れってこと?」女は唇を強く噛みしめ、サカキを睨んでいた。カメラを構える様子はない。
「撮らないんですか」僕は率直に聞いてみた。
「撮りたいわよ。だって私がずっと彼を撮ってきたんだから。あの日の地震と津波で腕を失うまでは。後少しだった。もう少しで、賞をとって成功できた。私も彼も。だから撮れなくなったのよ。片腕でどうやって写真を撮るっていうのよ」
「シャッターを押せば写真は取れるぞ、あゆみ」とサカキは叫ぶ。
 あゆみは優秀なカメラマンだったのだろう。写真、という言葉を聞いてから眼差しが変わった。まとう空気も僕とは異なる。
「一枚だけさっと、撮ったらいいんじゃないですか」僕は軽く口を出す。
「静かにして。素人が何を知ってるっていうのよ。あいつが言ってる写真ってのはクズよ。ただの記録のこと。何も考えずにボタンを押してできあがるものよ。私の写真は違うの」
「何のために朝目覚めているんだい? 写真を撮るためなんだろう。今のお前は何者なんだ? 教えてくれよ。写真を撮るために目覚める人間が写真を撮らなくなったら何になるんだ?」あゆみは唇を噛み締めている。「自分を偽る人間にショーに参加する資格はないぞ」サカキは笑いながら大声を出す。あゆみの目尻から、ついに一滴の涙が流れ落ちる。
 あゆみは顔を歪めながら一眼レフを構える。サカキに向かってシャッターを切る。カシャン。
「クズよ」静かにあゆみの口から言葉が漏れる。
「飛行船はひとりでは飛び立てない。あゆみ、君はどうだ」あゆみはサカキの言葉を無視してボタンを押す。カシャン。カシャン。
「ねえ、あんた名前は」あゆみが涙声で問いかける。僕は坂郷と告げた。
「サカゴウさん、手を貸してくれる」僕がうなずくと、サカキが笑った。
「さあ、子どもたちよ、君たちのおかげで朽ち果てた飛行船は再び蘇る!」サカキは左手をシルクハットの縁に手を添え、月に向かってステッキを振り上げた。その姿勢で固まった。僕は何をすればいいのだろう。
「言うとおりにして。わたしはシャッターを押す。あなたは、レンズの焦点を合わす。わたしの指示した通りに。それだけをお願い」
 僕は彼女の左隣りに位置し、ズームリングに右手で触れた。彼女の顔とサカキの顔を交互に見ながら。
「それじゃだめ。リングには左手で触って。私とあなたはひとつにならないといけない。きっと理解できないでしょうけど。私の左腕になってもらう必要があるの」彼女はまっすぐ僕を見た。
「僕はあなたの左腕になり、あなたとひとつになる」僕は彼女に確かめた。「そんなことができるんですか」
「もちろん、黙って私の指示に従えばね」
 それから彼女は詳細な指示を出しはじめた。まず、リングを可能な限り動かすように頼まれた。右回り、左回り。僕は左手でズームリングを彼女の反応を見ながら動かした。
「やっぱりだめね。これじゃあ飛行船は動かないわ。サカゴウさん、右手で私の腰を掴んで。それから私と同じ方向に視線を飛ばして」腰に手を回す必要があるのか、とまごつく暇もない。「お願いしているのは私なんだから。もう一度言わせないで」
 僕は右手で彼女の腰にやわらかく触れて、左肩からサカキと飛行船を見た。サカキはステッキを何度も宙に振り上げる。
「今から写真を撮る」あゆみは静かに呟いた。
「さっきまでのは?」僕の吐息はどうしても彼女の耳に触れてしまう。
「あれは写真じゃない。どうして写真を撮るか考えたことある?」事実の記録、と僕は端的に答えた。「それは必要条件だけど、十分条件じゃない」と冷静に続ける。「優れた写真は、人に思い出させるの。変化の兆しを。たとえこの飛行船に関係ない人が見ても、それに類似した何かを自分に見出すの。それが私の求める写真。私は今からそれを撮る。私がシャッターを押す瞬間にあなたにもきっとそれが分かると思うわ。今のあなたは私の一部なのだから。さあ、焦点をもう一度合わせて。ゆっくり」
 僕はズームリングを徐々に反時計回りにすべらせ、焦点を絞る。彼女の腰の筋肉に力が入りはじめる。そう、もっと、とあゆみは小さな声でささやく。そう、もっと、自由に動いて。はじまったわ。サカゴウさん、あなたには見える? 子どもたちがサカキを横目に飛行船に集まってるわ。彼女の声が体内に侵入してくる。またひとり、またひとり。手にはペンやらペンキブラシを持ってる。飛行船は子どもたちによって彩られていくわ。サカゴウさん、あなたにはそれが見える? しだいに腰の筋肉は彼女の言葉と呼応するように細動する。飛行船の骨組みしか見えません。もっとよくみて、ほらサカキの後ろの子は、ひとりだけ紫のペンを持ってる。ほら、今ステージで女の子が転んだ。彼女の吐息のリズムに僕の呼吸が重なる。完成が近いわ、動き出すわ。飛行船が動き出すわ。サカゴウさん、手を止めて、そこよ、それが動き出すわ、サカゴウさん、手を止めて。
 一瞬だった。彼女が僕にそう指示して、彼女がシャッターを押し切り、ストロボが焚かれた瞬間に僕にもそれが見えた。色を手にステージに集まる子どもたちと胎動している飛行船。飛行船には僕の名前がひらがなで書かれていた。僕の好きな群青色を手にした見覚えのある少年が笑顔で振り返る。そして飛行船は浮上しはじめる。強い風が吹き付けるが彼らは目をそらさずに飛行船を見つめていた。朽ち果てた飛行船の再生。涙を流す子もいた。彼女はこの景色を見ていたのか。

「いい写真がとれたみたいだね」呆然としていた僕のそばでサカキが声をかける。
「このために、私のカメラを盗んで、解雇の連絡をしたっていうの」
「僕はショーマンだからね。でも成功したみたいだ。君はきっと何かを乗り越えたはずだ。顔をみればわかる」
 サカキはあゆみの瞳を見つめながら、人差し指で彼女のあごの先端を持ち上げた。二人の唇が近づく
「記念に一枚写真を撮ってくれ。いつか思い出すために」サカキはあゆみの瞳から視線をそらさずに僕に携帯電話を投げ渡した。唇が重なる。
 僕は使い慣れた自分の携帯でカメラを起動し、写真を撮った。いつか思い出すために。
                              (了)

--------------------------------------------------------------------------------------

こちらの小説の講評はこちら。


読んでくださったかた、ありがとうございます。

ここから先は

3字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?