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小説「三日月に散る」 小説塾・6回課題コース 第2課題

絵描きを目指しているかたが、時系列で作品を並べて、腕が上達する過程を見せてくれることがあります。それを小説でやってみようと思います。無料で読めます。投げ銭スタイルです。

2018年に薄井ゆうじ氏が主催する「小説塾」の小説創作講座・全6回・課題コースを受講した際に提出した小説たちです。最後の課題だけ、褒められました。

最後に、この小説の(厳しい)講評を紹介したブログ記事のリンクを載せておきます。

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「三日月に散る」

「おお、山田、久しぶり」
「え?」彼女は振り返った。「私、山田じゃありませんけど」
 男はその声を最後まで聞かずに、すばやく女の肩に右手を回し、自然に抱いた。厚いダウンジャケットが首筋に当たる。
「何するんですか」女は腕を振り払おうとする。通行人が二、三人振り返る。だがそれっきりだ。誰もが、目的地に向かって歩を止めない。長靴が雪を踏みしめる。
「暴れないで、静かに。知ってるよ。雪野まゆみだろう」やわらかな口調とは裏腹に、男は雪野の肩をしっかりと握った。不吉な予感がよぎる。
「雪野まゆみ、そうだろう」男は女の顔を覗き込む。
「大声出しますよ」腕を振りほどいて雪野は言った。どうしてよりによって今日なのよ、と嘆く。二十五年ぶりに積雪十センチを記録した日に見知らぬ女を口説く必要がどこにあるのよ。
「出したければ出せばいい。でも君の友人が言うように」と男は言葉を切ると同時に立ち止まった。雪野は男の声に不穏な響きを感じた。「出したいけれど、出せないでいるものに力を注ぐべきだ」と男は言い放った。
胸に芽生えた迷いが雪野の歩を止める。この男は何かを知っているのだろうか。それともただはったりで、気をひこうとしているのだろうか。
もうすぐ十八時になる。こんな男にかまっている暇はない。子どもたちが私を待っている。生まれた年以来の大雪が降る中を土曜日に図書館に向かっているのはそのためだ。
「例えば」と男は声を強める。歩き出そうとした雪野に再び不吉な予感が漂う。「思い出せない記憶とか」
「何が言いたいの」
「君を助けるように頼まれた」
「誰に」
「君のことをよく知る人物さ」
「他の女を当たってくれる。あなたとしゃべっている暇はないの」
「そう、じゃあ。そのままその道を進むのかい」
「だから、何のことかわからないし。しゃべりかけないで」
 雪野は図書館に向かった。男は後を追わない。ダウンジャケットのポケットに両手を入れて、白い吐息を宙に吐いた。携帯電話を取り出して、新井に連絡した。

「すごい雪ね。転んだりしなかった」と司書に入り口で声をかけられた。
 大丈夫です、と読み聞かせスペースに目をやってから答えた。普段より子供の数が多い気がする。子どもたちは目に映るすべてに興味を示している。雪野はとても幸福な気持ちになる。彼らを今から別の世界へ移行させてしまうのだから。そこで子どもたちは自らの手で、自らの心を震わせるのだから。
「やっときた。はやくしてよ」と子どもたちが集まり、かがんだ彼女の体にべたべたと触る。子供たちは雪野が大好きだった。
「あんまり雪野さんを困らせてはダメよ」と新井はやさしく子供たちに声をかける。
「みんなちょっと待っていてね。いま用意するから。今日のはとっておきよ」と雪野は微笑む。
 狭いロッカールームに荷物を預け、ニット帽を外し、濡れた長靴からほっそりとした足をそっと引き抜く。シールに気が付いたのは、ハンガーにウールコートを掛けたときだった。魔法少女のシール。入口で子どもたちがいたずらをしたのだろうか。雪野が首をかしげたのは、その魔法少女が一昔前に流行ったキャラクターだったからだ。
 雪野は、大宮駅前図書館と刺繍の入った緑色のエプロンを身に付け、姿見の前に立ち、身だしなみを整えた。
「雪野さん、最近の劇団の調子はどう」と司書の新井がドアから顔を出してやさしく声をかけてくれた。雪野が出演した舞台を観劇したことのある新井に、たまたま本を借りに立ち寄った際に、子どもの読み聞きかせをお願いされたのが半年前だ。雪野は微笑み、いつもどおり順調です、と嘘をついた。雪野は一月前に劇団をやめた。自分の限界に気付いたからだ。才能のある人が舞台に立つべきだ。それだけだ。
「今日は娘のリクエストみたいね。昨日から楽しみにしていたわ。みんなお行儀よく待っているわよ」雪野は返事をして、リクエストされた本を抱えて、深く息をついてからロッカールームを出た。
 読み聞かせスペースには、子どもたちが二十人ほど待っていた。先生、今日は何読んでくれるの、はやくはやく、先生きれい、恐竜は出るかな、と子どもたちはうれしそうに声を出す。他の人もいるんだから大きい声は出さないでね、と辺りを見渡しながら雪野は笑顔でなだめた。笑顔が途切れたのは、あの男がテーブル席で読書をしているのに気付いたときだった。通りで急に肩に手を回した男。私をつけてきたのだろうか。でも私には気付いてないようだ。
座布団の上に正座で座る。これが雪野のやり方だった。椅子に座るよりも子どもたちに近いからだ。雪野は目を閉じて深呼吸をはじめた。子どもたちは物語の始まりを予感する。深い呼吸を繰り返し、自分という存在を、あるレベルまで薄めると雪野は口を開き、語りはじめた。「三日月」と静かにつぶやいた。

舞台は山の麓にある小さな村。少年は祖母と暮らしている。両親はいない。その理由を少年は知らない。祖母は愛情を少年に惜しみなく注ぐ。しかし、両親については話さない。小学校の授業参観日に、山には何でも教えてくれる神様が三日月の夜に現れると少年は知る。その夜、少年はひとりで山に分け入る。少年は闇に惑わされ、大木に背中を預けて夜を明かす。父と母に思い焦がれた少年は涙を流す。大木の根は涙を吸い取り、真っ赤な花を咲かせる。突風にあおられた花びらは一斉に散る。無数に舞い散る花びらにまぎれ、山神が現れる。姿はなく声だけだ。山神は、両親を殺したのは少年だと告げる。三歳になる少年への誕生日プレゼントを購入した帰り道に交通事故で両親は死んだ。山神は続ける。その記憶を殺したのはお前自身だと。山神の声が耳から侵入し、少年の瞼の裏に記憶が立ち上がる。母に抱かれながら、父親を見上げている。目を覆う少年の手から涙がこぼれ、喉からはうめき声が漏れる。涙を拭うと、舞い散る花びらから浮かび上がるように両親が姿をあらわす。「思い出してくれてありがとう。私たちはあなたを愛している」両親に手を触れる瞬間に、すべての花びらは散った。夜が明け、朝日が少年を照らす。少年は記憶を抱え、幸福に生きる決意をする。

雪野は本を閉じて、瞼をつむる。脈打つ血管に意識を集中し、自分が雪野まゆみであることを確認し、現実に戻った。テーブルについていた男の姿は消えていた。
「どう、面白かった」と雪野は子どもたちを見渡す。
「なんでおばあちゃんは昔話をしてあげないの」と女の子が雪野に尋ねた。「教えてあげれば、山でひとりぼっちにならなかったのに」
「おばあちゃんは知っていたの。おばあちゃんの口から話しても、彼にとって本当にはならないということが」
「誰が話してあげようと、おんなじことだろ」と男の子が言う。
「確かに同じ内容かもしれない。でもね、どこで、だれが、どんな状況でそれを伝えるのか、というのはとても大切なの。自分にとって本当のことは、ちょっと不思議な状況でしか出会えないのよ。みんなにもきっとわかるわ」
「先生にとっての、本当のことは、どうやってわかったの」と「三日月」の朗読をリクエストした女の子が訊いた。雪野は目を閉じ過去を思い巡らせた。その必要がないことをすでに知っているにもかかわらず。
「それは秘密よ」と優しく伝える。その記憶を失っているという感覚しか雪野にはなかった。そもそも私にとっての真実は本当に現れたことがあるのだろうか。次回の日時を子どもたちに確認してから、ロッカールームに戻った。
 エプロンをはずしたところで、新井が顔を出す。
「今日もありがとう。子どもたちは熱心に聞いていたわ。心ここにあらずって様子だったわ。さすが、女優は違うわね」ありがとうございます、と礼を言うしか雪野にはできなかった。着替えて、ロッカールームのドアを開き、図書館を出て、大宮駅に向かった。
 夜空に雪がぱらぱらと舞っている。青に変わった横断歩道の信号機に視線を向けると、空に浮かぶそれに気付いた。今日は三日月だ。視線を戻すと、あの男がこちらに向かって歩いていた。私を見つめている。と、突然視界に紙吹雪が舞った。真っ赤な紙吹雪が空から大量に降ってくる。雪野の視界が真っ赤に染まる。
「雪野、その記憶を葬ったのはお前だ」と男の声が向こう側から聞こえる。「お前がお前自身からそれを奪った。思い出せ。真っ赤な唇に真っ黒なドレスだ」
 雪野は目の前の現象が理解できず混乱した。だが、男の声だけはしっかり聞こえた。真っ赤な唇に、真っ黒なドレス。何かが雪野の中で揺さぶられる。あの記憶。突如として雪野の目の前には暗転した舞台が広がった。静寂が舞台を包み終えたとき、ピンスポットがその女性に当たる。大きく見開いた力強い目に、真っ赤な唇。その声は当時の雪野を圧倒し、臓器を揺さぶった。真っ黒なドレスに、何者にも影響を受けない確固たる意志がみなぎる。
「思い出した」と雪野は思わず声に出した。小学校の授業の一環で売れない劇団を市民ホールで観た。だが、雪野は絵本の少年のようには涙を流さない。「そしてあなたの名前も︙︙」
「まだだ。お前は思い出していない」真っ赤な唇に真っ黒なドレス、と男は雪野の言葉を遮り、強く繰り返す。
雪野を切り裂いたのはその瞬間に抱いた感情だった。今なら理解できる。観客の視線を独占し、指先一つで空間を操る一人の人間から放たれる圧倒的なエネルギーに、体を撃ち抜かれたのだ。人間の可能性への希望。当時の私は、ただそれを全身で受けとめるしかできなかった。全神経を駆け抜ける高揚感。温かい液体に満たされた感覚を得たとき、流れた涙に気付いて、とっさに小さな袖で拭ったのだ。隣りの男の子に気付かれないように。
雪野の頬に涙が流れたときに、クラクションが鳴った。横断歩道の信号は赤に変わり、紙吹雪はすべて道路に落ちて、湿っていた。雪野はその男に肩を抱かれながら、横断歩道を駆け足で渡った。
「内枝くんでしょう」
「ご名答」
「どうしてこんなことしてくれるの」
「頼まれたのさ。君の大事な友人に」そう言って内枝はポケットからシールを取り出した。当時流行った戦隊ヒーローもの。雪野にはそれが何を意味しているかはわからない。二人は誰かが踏みしめた足跡をなぞるように、駅に向かった。
「あれから十五年たった。本来ならもっとはやく君に会うべきだったのだけれど。僕もすっかり掘り返すのを忘れていた。うさぎの飼育小屋の真後ろを」
「あっ、タイムカプセル」
「僕らは小学六年生の夏休みにそれを埋めた。君が発案した。同じ飼育委員の僕を誘って。とても日差しが強かった。せめて記憶だけは涼しい場所に、と君が場所を決めた」
「私は何を入れていたの」
「君自身に宛てた手紙さ。きれいな字で書いてあった。そこには僕への手紙もあった」雪野は内容を覚えていない。「思い出させて、と記してあった。もし私が夢を叶えていなかったら、そうするようにってね。真っ赤な唇に真っ黒なドレス、と伝えてと。そして一つの条件があった」内枝は笑う。「ドラマチックに、と」
「ほんとうなの」
「もちろん。古今東西の神様に誓って」内枝は彼女の瞳を覗き込む。「で、僕の試みは成功したのか」
「うん。思い出したわ。真っ赤な唇と真っ黒なドレス。内枝君にはその意味がわかったの」わからない、と内枝は嘘をついた。
「よかった」あのとき涙を隠すように拭いた理由を思い出したからだ。恋心を抱く相手にはきれいな顔だけ見ていてほしい。
内枝は新井に成功を感謝した。彼女と娘の協力なしではできなかった。濡れた紙吹雪に目をやり、ドローン操縦業者に、清掃代として別途請求されるかもしれないな、と金勘定が一瞬よぎった。
「内枝くんは何を入れたの? タイムカプセルに」
「君とだいたい同じだ。僕も大切なものを思い出させられた」劇場の観覧席で垣間見た、隣にいるいつも愛くるしい笑顔の女性が涙を流した姿を思い出すように、と。その瞬間に抱いた感情をずっと忘れないように、と。
 二人はまだ足跡のついていない積雪を笑いながら踏みしめて駅へと向かった。三日月が二人を照らす。

                              (了)

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こちらの小説の講評はこちら。

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