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小説「透明楽団」 小説塾・6回課題コース 第5課題

絵描きを目指しているかたが、時系列で作品を並べて、腕が上達する過程を見せてくれることがあります。それを小説でやってみようと思います。無料で読めます。投げ銭スタイルです。

2018年に薄井ゆうじ氏が主催する「小説塾」の小説創作講座・全6回・課題コースを受講した際に提出した小説たちです。最後の課題だけ、褒められました。

最後に、この小説の(厳しい)講評を紹介したブログ記事のリンクを載せておきます。

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「透明楽団」

 その女が一眼レフカメラを構えてシャッターを押して、ストロボがあたりを照らすと、その場にいた人間は一人残らず息を止めた。誰も声を発することはできなかった。赤ん坊は初めて感情の消えた母を見た。ストロボは連続して焚かれる。誰も彼女に関わろうとしなかった。刺激すればさらに好ましくない行動を引き起こすかもしれない、と判断したからだ。ただ時間が過ぎれば、その奇妙な行為も終わるとその場にいた人間は、息を止めた短い間に結論づけた。月浦(つきうら)はじめを除いて。
「もういいだろ」焼香の順番を待っていた月浦はじめは声をかけた。
「あなたには関係ないでしょう喪服の女は振り返り言い放った。
 声に嫌味はなく、むしろ澄んでいた。いい女だ、と正直に思った。
「通夜の最中だ。遺影や故人をむやみやたらに写真に撮るのは、間違ってる」
 女は言葉を最後まで聞かずに、再びシャッターを押した。ストロボが光る。薄暗い室内を閃光が走る。死が、月浦影史(かげふみ)の死が、照らされる。
 思わず女の腕をつかんだときに、喪主が口を開いた。
「夫は騒がしいのは嫌いです」月浦幸子が、焼香の列まで歩み寄り、声を押さえて二人を一喝した。あたりは静けさを取り戻し、やがて赤ん坊の鳴き声が響いた。
 死者には敬意を払わなければならないはずだと月浦はじめは信じている。
 月浦はじめは左手で鼻先をなぞるふりをして指先の匂いをかぎながら、頬がたれた優しい表情の月浦影史の遺影に視線を合わせた。遺影の中の大叔父は遠くを見つめていた。大叔父はその後退を知らない眼差しで見据えていたのかもしれない。月浦はじめが彼女と再び同じ空間で同じ時間に出会い、同じ対象に目を向けて手を動かすことを。
 
 月浦影史は月浦はじめの祖父の弟にあたる。そして画家だった。浦和市に洋風の屋敷をかまえ、夏の間だけ離れで地域の小学生を相手に絵画教室を開いていた。
「翼はもっと大きく、たまごの形はもう少し伸ばして模様はこんな風にしよう、もっと不思議な力を持っている鳥になるよ。目は透き通る赤色がいいね」
 月浦影史は笑いながら、はじめ少年が三十分かけてA3用紙の宇宙にクレヨンで夢中に描き続けた鳥を容赦なく、別の色のクレヨンで描き足し、そして塗りつぶした。自分なりに考えた雷を操る鳥はすぐに少年のイメージとはかけ離れた鳥になってしまった。
 しかしその一瞬のうちに、絵は生まれ変わり、命が宿った。はじめ少年が描いた鳥は呼吸を開始し、空中を切り裂く雷鳴が目から脳内へ轟き、卵は今にも孵化しそうになった。ザリガニを道路に置いて車に轢かせたことがある。今目にしている瞬間は、それとは逆方向の力だった。
 これ以上ないと考えてもまだまだ改善の余地が常にある、少年の頃に体に刻まれた教訓は、デザイン会社で働く今になっても月浦はじめを助けている。上司や顧客にデザインやイラストを突き返されても、どこかに改善の余地がある、と前向きに考えて仕事に取り組むことができる。
 二九歳となった月浦はじめの記憶にはまだ月浦影史のためだけの椅子が用意されている。

 伊藤文月(ふみつき)は門扉の隙間から屋敷を一眼レフカメラで写真に収めた。浦和駅から徒歩十五分程度の場所に屋敷はある。二階建てで横に長い。部屋数の正確な数はわからないが、十以上はあるはずだ。あたりの住宅とは規模が違う。庭の真中には背の高い桜の樹がそびえ立ち、枝をあたりに向かって自由に伸ばしている。没落した由緒ある名家から買い取ったそうだ。母親の話だから話半分にしておかないといけないけれど。
 鳥が何羽か固められて門扉に止まっていた。等間隔に装飾された鳥たちはさえずりの途中で時間を止められたようだった。
 伊藤真沙絵(まさえ)から連絡があったのは祖父の葬式から二週間ほどたった頃だった。

「週末空いてる? 急で悪いんだけどさ、おばあちゃんちに行ってくれる? 写真よ。写真撮って欲しいんだって。ほら前に教えたことなかったっけ。影史じいちゃんがおばあちゃんを毎年撮ってるって」
「修士論文の構想発表が近いの。それって私じゃないといけないの? ボタンを押せるなら誰にでもできる」図書館から飛び出してキャンパスをひとりで歩きながら無駄だと思いつつ抵抗した。大学院生は八月に教授達の前で構想発表をすることになっている。
「誰にでもできないのよ。だからお願いしてるんじゃない。おばあちゃん直々のメッセージなの。ふみを連れてきてって」大学を卒業してから保険会社で営業として働いてきた母は意見を簡単には変えない。
「どうして私なの」
「出口のある方向を教えてあげる、とおばあちゃんは言っていたわ」
「私は問題を抱えていない。いま頭の中にあるのは論文の構想のことだけなの。それに写真を撮って何があるっていうの」
「あなたは問題を抱えている、おばあちゃんは無駄なことはしない。私が知っているのはこの二つよ」
 伊藤文月は頭をかいて空を見上げた。夕日が大学図書館を照らす。帰路につく者、手をつなぐ者、図書館に入る者、ただベンチに座っている者。それぞれの目的を抱えてそれぞれの方向へ進んでいる。私はどこへ進んでいるだろう、伊藤文月は自問した。メディアのあり方について研究して修士論文を書いて、報道関係の仕事に就く。その方向に進んでいるはずだ。何も問題はないはずだ。おばあちゃん、私は問題ないわ。

 伊藤文月はインターフォンで屋敷の主を呼び出した。ガチャリ、とセキュリティが解ける音がした。
 正面玄関に着くとドアが開き、家事手伝いが迎えてくれた。六十は超えているはずだが、相変わらず姿勢がよい。彼女の規律を愛するような足取りに見とれていると部屋に通された。席に着いていたのは通夜で声をかけてきた男だった。

 どこに惹きつけられるのだろう、と月浦はじめは再び彼女を目にしたときに率直に思った。大きな瞳、艶やかな髪、濃紺のワンピースと白い肌のコントラスト。やはり通夜で故人を撮影していた女だ。
 母から連絡を受けたのは葬式の翌々週の月曜日だった。猛暑日が続く7月の週始めに面倒なことに巻き込まれる予感がしてうんざりした。
「週末に幸子さんの絵を描いてくれる?」と月浦正子は電話口で言った。
「どうして」ため息をついた。口説こうとしている女とメッセージをやりとりしている途中だった。母さん、わりに重要な局面なんだよ。狭いアパートのベッドに座り壁によりかかりながら、雷鳥の絵を眺めた。
「毎年影史さんは幸子さんの絵を描いていたみたいなの。7月に必ず」
「俺である理由がない」週末にディナーの約束をしてある。次のデートで朝まで素敵な時間を過ごす予定なのだ。
「ご指名なのよ。何とか予定を調整してくれるかしら。幸子さんの頼みを断るわけにもいかないのよ。夕方には終わると思うから、お願い」
 月浦はじめは約束を守ることにした。通夜の空気を乱してしまった罪悪感があった。それに、と月浦はじめは思った、夕方に終わるであれば、ディナーに持ち込む話の種としては悪くない。今日は何していたの? 大叔母をモデルに絵を描いていたんだ。死んでしまった大叔父の代わりにね。
「あと」正子は思い出したように付け加えた。「カメラマンが一緒にいるそうよ。幸子さんを撮るの。お孫さんの伊藤文月さん。この間のお葬式にもいたのよ」
 月浦影史の遺体と遺影、焚かれたストロボ、照らされた死。ただ思い返してもカメラを職業にしているような手付きではなかった。作品を撮るような気構えではなく、ただ記録しているような印象だった。
「大学院に通っているみたい。何を専攻しているのかまではわからないけどメディアに関することだそうよ。そして」正子は間を置いてから囁いた。「彼女は問題を抱えている」
「誰だって問題を抱えている」
「太陽に黒点があるようにね。ただ幸子さんはこうも言ったの。はじめならきっとその問題を解決することができるだろうって」
「冗談だろ」
「解決の糸口くらいは見つけてあげなさいよ。なぜって、あなただって」と正子は言葉を切った。「それなりに抱えているんだから。そうでしょう?」
 月浦はじめは電話を切るとベッドに横になって目を閉じた。机に広げられたスケッチブックには登場人物も背景もない白いコマが連ねられていた。月浦幸子は一体何を知っているのだろうか。

「あなたの美しさをキャンパスに描きました。これからもずっと描かせてください。あなたがこの世を去るまで」月浦幸子の声が部屋に響いた。顔に刻まれた深いシワは大木の年輪を思い出させる。夫の絵画を常に批評してきた眼光は鋭い。紫のワンピースとゴールドのネックレス。月浦幸子が身に付けていたのはそれだけだった。
「それが結局プロボーズの言葉だった。それから毎年私の誕生日には欠かさず絵を描いてくれたの。八七歳になる去年まで欠かさずに。私が死ぬまでの姿をキャンパスに収めたかったようです。あなたにその願いを受け継いで欲しいの。月浦はじめさん」
「影史おじさんのように上手に描けませんよ」
「あなたが月浦家のなかで絵が一番上手な子供だったと、あのひとは言っていました」月浦幸子は朗らかに答えた。「あなたが絵画教室に通っているときから」
 あの人はどんな子供のどんな絵だろうと褒めていた。それでも月浦はじめは微笑んだ。
「撮影する理由は?」伊藤文月が静かに尋ねた。
「絵を描くという行為の一部なのよ。彼にとってはね。ふみちゃんにお願いする理由も必要かしら」伊藤文月はうなずいた。「孫に撮ってほしいのがひとつ。もうひとつはふみちゃんにとって大事だからよ」
 家事手伝いが曇り一つない銀のトレーからアイスコーヒーを静かに文月の前に置いた。文月はアイスコーヒーを両手で包み込み肌を冷やした。その様をそれとなく見ながら、伊藤文月の抱える問題と撮影による効用について頭を巡らせたが月浦はじめはすぐにあきらめた。
「しばらくしたら庭の離れへきてちょうだい」月浦幸子は奥の部屋へ戻った。

 通夜に声をかけてきた男に関心はなかった。こちらの領域に足を踏み込み、言い分を聞かずに、ただ主張する男。共同作業を考えるとうんざりした。
 月浦はじめもあの塾の生徒だったことだけが関心をひいた。「クジラの潮吹きのように、みんなも元気よく絵を書きましょう」それがクジラ塾のキャッチコピーだった。
 伊藤文月は家族揃って日野市に住んでおり、小学生の頃夏休みに毎年帰省すると参加していた。本物の画家に教えてもらえるとあって、生徒は二十人ほどはいた記憶がある。そのうちのひとりが月浦はじめだったのかもしれない。ただそれだけの話だ。
 離れは小学校の教室ほどの大きさだった。塾を開催している間は机がいくつも並んでいて、子供たちが絵を描いていた。今は何もない。ただ広い空間があるのみだ。そして壁には大小様々な油絵が飾られてある。大半が祖母を描いた絵だとわかる。その他はただ肌色に塗りつぶされた絵だった。
 ひときわ目立つのは、壁一面ほどのサイズの絵だった。中央下部には正装した指揮者が深海のような暗闇に向かって指揮棒を掲げている。指揮者の後ろ姿、ただそれだけの絵だ。
「クジラのサーカス、彼の代表作よ」見とれる二人に祖母は説明した。「不思議な絵でしょう。大半は黒と濃紺で塗りつぶされているのに、何かが漂っている気がする」
 ソファが一つ「クジラのサーカス」の前に置かれていた。向かいには椅子が二脚とキャンバスを支えるイーゼルが一つあるのみだった。
「はじめさん、下書きはしないでちょうだい。そんなに長くこの場所にはいられないから。クーラーがこの部屋にはないのよ。彼のこだわりでね。ここで描くときには人間だけあれば十分だって」
 首筋が汗ばむのを文月は感じた。ゲリラ豪雨の予報もあったはずだ。早く終わらせないと、窓を開けておくこともできなくなる。月浦はじめと並んで椅子に座った。
「まずは写真を撮ってくれる?」
 伊藤文月はカメラ越しに祖母とクジラのサーカスの指揮者が重なるのに気がついた。焦点を祖母に合わせると、その背後で何かが蠢いている気がした。シャッターを押した瞬間に祖母は口を開いた。
「佐々原詩季(しき)は死んだのよ」
 ストロボが焚かれた。クジラのサーカスの暗闇に波紋が広がった。何かが動いた。指揮棒の向こうで何かが移動している。その動きに目を凝らしていると、頭の中の暗闇も同時に揺らぎはじめた。絵画の中の蠢きが体内に侵入してきたのかもしれない。記憶が揺さぶられ始めた。
写真部だった詩季に高校の学園祭への出展写真の被写体に選ばれた。感情表現が苦手だった文月の表情の奥にある微妙な揺らぎを引き出してくれた。「引き出すのよ」と詩季はよく口にしていた。「引き出して、一瞬だけ固めるの」と。
 それがきっかけで写真部に入部した。対象の奥底の揺らぎをレンズの前におびき寄せ、シャッターで固める度に喜びを感じた。
 尊敬するカメラマンが教壇に立つ都内の大学に二人で進学した。写真サークルに入り、高校生活の延長を多くの仲間と謳歌した。撮影技術を競い合い、酒を飲み、そして恋愛について語り合った。困ったらまず相談するのは詩季だった。
 報道カメラマンに内定が決まった詩季とその日に二人だけで池袋でお祝いした。文月は社会での報道のあり方について研究してから働くつもりで、大学院の進学試験をパスしたところだった。いつもよりお酒を多く飲み、これまでのことを語り合った。
「社会の真相を引き出すよ」詩季は文月の目を見て言った。
その帰り道に飲酒運転に巻き込まれて詩季は死んだ。
「詩季は死んでない」伊藤文月は自然とつぶやいた。ストロボが祖母を照らす。そう、詩季は死んでない。連絡が取れないだけ。前髪に思わず手が伸びる。ニキビに触れた痛みが文月を現実に戻した。
 そう、と祖母はため息をついた。それから月浦はじめに言葉を投げかけた。
「渡辺一樹(かずき)くんは元気かしら」

「あいつは死にましたよ。ずいぶん前に」月浦はじめはキャンバスから顔をあげて答えた。そういうことか。「ただ記憶のなかで元気にしていますよ」
 月浦幸子の背後には「クジラのサーカス」が佇んでいる。指揮棒は漆黒に向けられている。どの演奏者に指示を出そうとしているのか、何かを待っているのだろうか。闇はモザイク状に描かれている。じっと見ていると何かが蠢いているようだ。不意にストロボが焚かれる。闇の中を何かが蠢くと同時に久喜市の中学に通っていた頃の記憶が湧き上がった。
「続きが気になるな」休み時間にスケッチブックを覗き込んだ一樹はそう言った。三年生に上がってすぐ野球部から美術部に転部した月浦はじめはよく漫画を描いていた。
 試合中に外野フライをジャンプしてキャッチした。しかし着地がうまくできず、左腕を複雑に骨折した。グローブから白球はこぼれ、走者一掃のヒットとなり、逆転負けした。野球人生をあきらめるしかないほどひどい怪我だった。部活仲間だった一樹ははじめ以上に悲しんでくれた。
 夏休みは学校に通って秋の文化祭に出展する作品に取り組んでいた。校庭からはときおり金属音が響いてくる。一樹が部室にやって来たのは八月の半ばだった。
「母の誕生日に自画像をプレゼントしたい」と一樹は言った。野球部の強い私立高校への受験を認めてくれた親への感謝の気持ちとして渡したいそうだ。母は自分が好きだから、と。一樹はもう合格した気になっていた。快く依頼を引き受けた。毎日三十分ほど、練習を終えた一樹の自画像を他愛のない話をしながら少しずつ描いた。
 下絵が完成した日に、一樹は帰り道に交通事故で死んだ。信号を無視して交差点に突っ込んだトラックにはねられたのだ。
それから一ヶ月ほどの記憶はない。次の記憶は月浦影文との会話だった。絵のアドバイスをもらいに行ったのだろう。
「彼を閉じ込めてはいけないよ」月浦影文は下絵を見てそう声をかけてくれた。「彼は生きているんだ、君の記憶の中で生きているのだから。彼の死を決して閉じ込めてはいけない。そしてそれだけじゃなくて……」その先を思い出せない。
 記憶の中で一樹はキャンバスの向こうではにかんでいる。記憶の中で生きているのだ。それで十分だった。
「だからカメラで切り取るような接し方はしない」さらりとつぶやいた。「写真は生命を閉じ込めてしまう。それはただの記録に過ぎない。記憶こそが死者と出会う場所ですよ」だからこそ通夜という場でシャッターを切る女に腹が立ったのだ。月浦幸子が微笑むのを見たとき、はじめに向かってストロボが焚かれた。
「あなたは知っているの? 死者に接する正しい方法を」
 雨が降り始めた。

「思い出すことさ」月浦はじめは祖母とキャンバスを交互に見つめながら言った。「それこそがこの世を去った者への礼儀だと僕は思う。ただ記録に残すためにカメラを構えるのは間違ってる」
「佐々原詩季さんとのお別れのときにも撮影したと真沙絵から聞いている」
 詩季は死んでなかった。ただ寝ているだけだったのだ。彼女に教わったとおりに採光に気を配り、写真に収めた。何枚も何枚も。そのときは理由も言われずに友達に止められた。その写真を詩季に送付しても連絡はなかった。私は間違ったことをしているのだろうか。
 写真を撮るしかできなかったのだ。閉じ込めようとなんかしてない。寝顔の詩季から眠ってしまった生を引き出そうとしただけなのだ。
「彼女は記憶の中で生きている。そうだろ」
「記憶の中にいる友達と戯れることで、その死を乗り越えることができたの?」
「ふみちゃん、言葉を選びなさい」雨音が激しさを増してきた。月浦はじめはこちらに向き直り、まっすぐに見つめた。
「乗り越えられなかった。だからただ思い出すだけだ。あいつは死んだけど記憶の中で生きていることをね」
 叩きつけるような雨が離れを襲った。開け放たれた窓からは雨が勢いよく入り込んでくる。月浦はじめと一緒に窓を締めた。汗が首筋を垂れはじめた。空気が体にまとわりつく。
 ただ彼女の笑顔を思い出せばいいの? それが死者への正しい接し方なの? それだけでいいの?
 ふとカメラを祖母に向けた。祖母はもぞもぞと体を動かしている。まずは靴下を脱ぎ、それから背中のファスナーを下げた。紫のワンピースが足元に落ちた。ベージュの下着姿の祖母が立っていた。
「暑いなら日をあらためましょう」月浦はじめは驚いて言った。
「その必要はないわ。いままでのは前座。これから劇団員が登場してサーカスを繰り広げるのよ」祖母は続ける。「死者への接し方。死者は光で照らすべきではないわ。後で思い出すためとはいえね。記憶。死者との記憶。それこそが大事なのよ。はじめさんの言うとおりに。でも」祖母はブラジャーのホックを外した。垂れた乳房が皺だらけの腹に近づく。体中にシミがあり、皮膚はしわだらけだった。そして祖母はついに指を下着にかけた。
「やめてよ、おばあちゃん。何しているの」窓を叩く雨が強くなる。雨粒ひとつひとつの音が窓辺から室内へと徐々に侵食していく。
「撮影を止めないで」と祖母は言った。だけど体はそう簡単に動かない。
「死を決して閉じ込めてはいけない。思い出すだけでも足りない。そしてそれだけじゃなくて……」足の先から下着を取り外してソファに投げると、こちらに向き直った。祖母の裸体が再び「クジラのサーカス」の指揮者と重なった。裸の背後へ暗闇が広がっている。何かが横切ったように見えた。
「記憶から活力を得ること。それが死者への最も正しい接し方よ」堂々と声は張り上げられ、月浦はじめと同様に体を固めてしまった。おばあちゃんいったい何をしているの。
「さあ、照らしてちょうだい。私を描いてちょうだい」

 ばあさんの裸を見るような趣味はない、と悪態をつきたかった。だがその姿には視線を離さない何かが含まれていた。時間が人体から奪えるものをすべて奪ったあとの姿。それでも自らの足で立ち、その姿を堂々と胸を張って世界に晒している。悪趣味と簡単に切り捨てられない。その何かをキャンバスに描く必要があるのだという衝動に突き動かされた。それが月浦幸子の望みなのだと確信した。
 叩きつけるような雨が続いている。空は暗黒に近い紺色だった。月浦幸子の背後に広がる「クジラのサーカス」の闇が世界とつなががったようだった。。
 離れの電球は寿命が近いのだろう。時折点灯する。
 不意にストロボが焚かれた。いままでのような礼儀正しく、控えめな光ではなかった。不規則で、不安定で挑戦的な光。彼女もやはり何かの衝動に突き動かされている。
 光が照らす角度によって月浦幸子の存在が変化する。現実に浮かび上がる対象の核はその都度異なっている。彼女の才能だろうか。光に対応するかのように指揮者の向こうに広がる暗闇が蠢く。
「全部さぁ、やりたいように描いたらいいよ。むちゃくちゃに描いてるお前は楽しそうだし、絵もそっちのほうが勢い出てるよ」
 唐突だった。いつか一樹がキャンバスの前で悩んでいる僕に言ったのだった。そうだよな、一樹。そうだよな。その記憶が吹き出して体の内側に充満すると筆を持ちなおし、感じるままに描き始めた。人間という輪郭はもはや必要ない。月浦幸子に潜むエネルギーをそのまま描こう。気持ち良い方向へ筆を動かした。

 シャッターを切ることを止められなかった。醜い、そう思った。だけどそれ以上に堂々とした祖母に心揺さぶられた。何が私を掴んでいるの。窓の外まで広がる「クジラのサーカス」の暗闇をストロボが照らしたときにその記憶が湧き上がった。見えないオーケストラが突然演奏をはじめたかのように。
「ふみのストロボの光に照らされるとさ、被写体が変身しちゃうんだよね。届くんだろうね。被写体が大事にしていることにさ。そして刺激して気持ちいい方へ変えちゃう。だからみんな自分が知らない自分の写真にびっくりするんだよ」
 死者を変化させることはできない。生だけが源を持っている。ストロボはそれを照らすことができる。電球が点滅した。「ほら、世界は美しいでしょう」詩季が耳元で教えてくれる。
 夢中で写真を撮る。祖母の肉体は光に一瞬照らされると変化する。肉体に宿る生きる意志、世界に対する主張、存在することの誇り。
 月浦はじめも額から汗を流しながら絵筆を動かしている。さっきまでとは筆の運び方が違う。祖母のむき出しの存在感にあてられている。肉体ごとキャンバスに向かっている。
 背後の壁まで下がり、月浦はじめと祖母を同時に写真に収めた。生きる意志を発する者と、それを描く者。彼らは生きている。私はそれを照らすことができる。そしてそれは私を変化させてくれるはずだ。気持ちの良い方向へと。
 詩季、ありがとう。いつも私を導いてくれる。もう迷わない。世界は美しい。

 月浦はじめが描いたのは、輪郭のぼやけた月浦幸子の絵だった。ストロボが照らす度に月浦幸子は変化した。その存在に境界線を与えることは不適当だと、はじめは思い当たった。筆を動かす間に、一樹は語り続けた。「思い切り書いてくれよ」と。
 その日から月浦はじめはスケッチブック漫画を描き始めた。思いのたけをぶちまけるように。これまでその思いを無視し続けてきた事実を創作の燃料とし続けた。きっかけとなった月浦幸子から受けた奇妙な依頼に感謝をしていた。
 部屋の湿気にあえでいた祖母の裸体を写真に収めた日から、伊藤文月は佐々原詩季に携帯電話でメッセージを送ることをやめた。祖母に別れを告げると、「そんな顔だったかしら」と笑顔でいわれた。
「素敵よ、今のほうが」
「あの部屋で少し痩せただけよ」
後日、出来上がった写真を受け取った月浦幸子は喜んだ。「こんな顔だったかしら」と。
 伊藤文月は修士論文の執筆の合間に写真を毎日一枚撮ることにした。それは自分であったり、風景であったり、月浦はじめであったりした。対象が発しているものを捉えられることができないこともあれば、とびきりうまくいくこともあった。「さすが」そう詩季は語ってくれる。
 月浦幸子は脱衣所で化粧を落として服を脱いだ。そして三面鏡に映る老いた肉体を見つめて恍惚した。シミのある皮膚に張りはない。目はややくぼみ、乳房、腰回り、臀部の肉は垂れてきている。しかしそれでも目の奥には孫娘が引き出してくれたように力があった。月浦はじめが描いたようにエネルギーに満ちていた。「美しい」月浦影史がささやいた。
 月明かりが離れを照らす。雲間から断続的に差し込むその光にあてられる度に、「クジラのサーカス」の指揮者は暗闇に蠢くものを見出し、その指揮棒で意味のあるメロディーを紡ごうとしている。

                               (了)

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