大年寺山とあの頃と僕と

 仙台の街の南に大年寺山(だいねんじやま)という山がある。大年寺山には仙台を治めた伊達家の墓所、頂上には3本のテレビ塔があり、仙台の街中からでもよく見える。東北新幹線に乗ると、長いトンネルを抜け、長町あたりで仙台到着のアナウンスが流れ、大年寺山が姿を現わす。仙台という街に縁のある人からすれば「エモい」風景なのかもしれない。

 去年の秋、サークルの友達がこの春大学を卒業し就職や大学院進学をすることで仙台を離れてしまうので、最後で仙台で一緒に呑もう、ということで仙台を訪れた。1年しかおらずろくに単位を取らないまま「卒業」し今は別の大学にいる僕を、友達は未だに一応サークルにいた「仲間」と捉えてくれている。それなら仙台に行かない理由がない。

 貧乏学生の僕は新幹線でなく1/3以下の値段で行ける高速バスで仙台に行向かった。あの頃と同じように新宿のバス乗り場から仙台行きのバスに乗る。するとこんなアナウンスが聞こえてきた。

「このバスは本日に限り東北道でなく常磐道を走行いたします......」

 仙台行きのバスはいつもなら東北道を北へ走る。それに慣れきった以上、今このインターを通過したからあとどれくらいか、どこのサービスエリアに何があるかということが何度となく乗るうちに分かってきて、長い移動時間の中の楽しみとなっていた。しかし常磐道を行かれるようでは勝手が違う。仙台までおよそ5時間とそこそこの長丁場である以上、バスはある程度退屈だ。今どこにいるのか、あとどれくらいで仙台に着くのかということが分からないと、その退屈さが無限のように思えてきて途端に「苦行」の色を帯びる。でも仕方がない。ひたすらにやり過ごすことにした。

 僕が仙台の大学に進学したのは親に薦められたからだった。現役の当時は自分の行きたい大学を受け、見事に落ちた。でも浪人して自分の行きたい大学をまた受験することはしなかった。というのも僕は浪人生のときに前立腺の慢性の病気にかかり、受ける大学を決める当時まだ毎日薬を服用し、なんなら試験もトイレの近い席や別室受験をするように配慮を申請するような状態だったからだ。

 ひどいときは10分おきに尿意に襲われる状態だったので家から出ることも出来ず、引きこもりとなった僕にもう受験勉強をしようという気力はさほどなく、毎日ラジオのスイッチを入れて「病気のみなさん、おはようございます」というフレーズを聞いて、「俺もそうなんだよな.....」と思うだけで精一杯だった。そんな生活を半年ほど送ったのち、少し薬のおかげで症状が改善したこともあり、一人暮らしが出来る大学を受けようと思い立った。そんな理由で僕は仙台にやって来たのだ。

 大学での日々はやはり浪人生のときの引きこもりライフとは違って鮮やかだった。入ったサークルの同級生にも恵まれた。しかしそれも僕にとって100点ではない、そう思えてならなかった。「自分の行きたかった大学での学生生活の方がよりよかったのではないか?」としか思えない自分がいた。いつしかその大学に行けるならまた行きたいと思うようになり、6月仮面浪人をすることを決意した。

 でも浪人時代の無気力さは大学に入っても消えない。「勉強する」という行為自体は元から好きではなかったが、拍車がかかっていた。結局受験には無事失敗した。そして仙台で4年間の大学生活を送るより、私立だとしても実家から4年間大学に通った方が安い、という経済的な理由で僕は大学を中退して、実家から通える大学に入り直した。3月、僕は仙台から去った。

 そんなダメダメな仮面浪人中も仲間はしっかりと応援してくれていた。自分が望んで入った大学のことをつまらないという理由で中退して他の大学に行こうとするやつなのに、それでも応援してくれていた。大学から帰る道すがらのテレビ塔のよく見える仲の瀬橋で喋ったあの日々を忘れない。だからこそ会いに行く価値があった。 

 そんなことを思い出して僕はうまいこと退屈を紛らわすことに成功した。高速バスは常磐道を降り、仙台駅へ向けて走っていた。いつもとは違うルートで仙台駅へ向かう中、不意に車窓に目をやったそのとき、大年寺山のテレビ塔が見えた。仙台から去ったあの日は仙台での日々が無駄なものとしか思えなかったのに、今はまだ生傷でも少しだけ愛おしい。そんな思い出が僕に涙を流させる。

 僕は仙台に帰ってきたのだ。ただいま、仙台。大年寺山のテレビ塔はあの頃と変わらず、LEDで明日は曇りになるらしいということを僕に伝えていた。

 最後にたまたま見つけた動画を紹介しておく。仙台のパチンコ屋のCMなのだが、アニメーションに出てくる仙台の風景が仙台にいた人間の記憶を刺激してくれる。大年寺山が新幹線から見えるシーンで僕は不意に胸がいっぱいになってしまった。


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