最長・最短の背番号

 拙著「番号は謎」は、電話番号や郵便番号、原子番号からマイナンバーまで身の回りの番号の起源や謎に迫った本であるが、中でも一番ページ数を割いたのが、野球の背番号であった。

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 何しろ背番号は、選手・ファン双方に強い思い入れを持たれているし、エピソードも豊富にある。背番号だけでも何冊も本を書けるだろうし、実際にも多くの関連書籍が出版されている。筆者ももっと書きたいことはあったが、だいぶ削らざるを得なかった。ということで、ちょっとこちらで番外編を書いてみるとしよう。

 今シーズン、背番号で話題を集めたのは何といっても澤村拓一投手だろう。巨人から千葉ロッテへ、シーズン途中での突然のトレードはファンを驚かせたが、息を吹き返したかのような活躍で、両チームのファンを喜ばせている。

 この澤村投手が、ロッテでもらった番号は57番であったが、移籍当日のマウンドでは106番をつけていた。急なことでユニフォームの作成が間に合わず、体格の似た福嶋打撃投手のものを借りたためだ。

 この106番という数字は、たまたまポケモンの「サワムラー」の番号とみごと一致していた。このため、「サワムラー」がツイッターでトレンド入りするなど、話題を集めた。いっそこのまま106番で行けばという声もあったが、ルールで一軍選手は3桁番号をつけられないことになっているのは残念であった。

 このように、移籍直後であるため、あるいはユニフォームを忘れたためなどの理由で、一試合限り他人の背番号のついたユニフォームで出場したケースはかなり多い。もちろんこれは、正式に登録変更などしたわけではないので、記録に残るものではない。

 だが一試合だけ、正式に背番号を変えて出場した選手がいる。北海道日本ハムファイターズの新庄剛志選手は、入団以来背番号1を着けていたが、2006年9月27日の一試合だけ、背番号63で出場したのだ。新庄はこのシーズン限りでの引退を表明しており、本拠地での最終戦だけプロ入り当時の背番号63を着けたいと願い出て、許可された。ファイターズを人気球団に押し上げた大功労者に、球団はできるだけの配慮で花道を飾ったのだろう。

 この変更は、正式にリーグに許諾を得たものであり、それまで63番を着けていた渡部龍一選手は68番に変更された。翌日には新庄は背番号1に、渡部は63番に戻されている。渡部は「どうせなら背番号1にしてほしかった」と笑わせていたらしい。

 これが背番号をつけた最短記録かというと、実はそうではない。背番号を背負った期間の最短記録保持者は、江川卓投手だ。江川の入団時、いわゆる「空白の一日」騒動があったことはご記憶の方も多いと思う。この時、コミッショナーの「強い要望」により、江川はいったん阪神に入団し、小林繁投手とトレードという形式を取った。このため、江川は8時間だけ阪神に在籍したことになっており、このとき登録された背番号3番が、史上最短記録だ。

 逆に史上最長は誰か。この記録を長らく保持していたのは巨人・王貞治であった。王は、選手として1959~80年まで、助監督として1981~83年まで、監督として1984~89年まで、計30年にわたって背番号1を着け続けた。この大記録を破ったのが中日・山本昌で、1984年から2015年まで32年にもわたって現役選手として活躍、その間一貫して背番号34を着け続けている。まさしくアンタッチャブル・レコードだ。

 筆者としては、この山本昌の34番と、通算1002登板の岩瀬仁紀の13番だけは、永久欠番でよかったのではと思う。前人未到の記録を打ち立てた者に対しては、それなりの敬意の表し方があっていいと思うのだ。

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