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アリストテレスを真剣に受け取る:「物」を通じて社会へ開かれるエコロジー

英語のリスニング強化のために、散歩をしながら英語のYouTube動画を聞くようにしている。たまたまレコメンドされたMichio KakuさんのThe Universe in a Nutshellという動画が、内容はもとよりストーリーテラーとしての語り口が見事で、研究者としてのみならず、Big Thinkの語り部としての能力についても感嘆を覚えたのであった。

動画の中で、アイザック・ニュートン以前に物理現象がどのように理解されていたかを示すために、アリストテレスが物体の運動についてどう考えていたかが例として取り上げられていた。いわく、運動している物体がやがて動きを止めるのは、物体が「疲れる(get tired)」からだとアリストテレスは考えたのであると。

出典について、浅学にして詳らかにしない。深読みするに、アリストテレスは、物体についても人間のように何か変化する内的な「力」のようなものを持っていると考えたのだろう。すなわち、運動している人間は、やがて疲労したりお腹が空いたりして運動を止めることになる。物体についても、同じようなことだと。もちろん、そんなことはなくて、いまでは明らかになっている物理的な諸力によって、物体は運動を止めることになるわけだが。

では、アリストテレスのいうことを、昔のひとの戯言と一笑にふして済ませてしまってよいのだろうか。そこから何か得られることは何かないのだろうか。そんなことを、動画を聞きながら思ったのであった(アリストテレスの話の後はそんなことを考えながら歩いていたので、その後動画の中でどんな話がされていたのか思い出すことができない)。

石か何かを投げた時の放物運動についてならば、物理学の法則に基づいて考えたらよかろう。一方で、人間の利用に供される物について考えると、その物の働きというのはアリストテレス的な様相を呈してくるようにも思えるのだ。どういうことか。

放り投げたり落としたりして物理法則の再現実験に供されていた石が、実はなにやら珍かな石であることが判明したとする。そうすると、その石が持つ働きというのは、たとえば金銭的な価値の向上という形で変化することもある。全世界でゴールドラッシュのようなことが起こり、人々がこぞって石を掘り起こす。そして、やがて希少性が失われ価値が暴落する。しかし、その後、別の化学的な作用が発見されて、新たな科学的進展に欠かせない材料を提供するという価値を発揮し始めるかもしれない。

こうした事態を、石を取り巻く人間たちの社会という事象を取り除いてみた場合、石がめきめき体力をつけたり、そうかと思えば唐突に疲れを見せ始めたり、ともあれそういったことによって石そのものの作用が変化していくように見えはしまいか。すなわち石そのものに内在する何らかの力の発揮によて、石の作用が変化するということである。

もちろん、馬鹿げた例ではある。しかし、本当にそうだろうか。

僕はコンピュータとネットワークからなるシステムを構築し、ある種のサービスを提供する仕事を生業にしている。そのようなシステムは、ハードウェアが壊れるとか電源の供給が停止するとかの例外的な事態がない限りは、決まった入力に対しては決まった出力を返す。投げた石が、諸条件が同じならいつも同じ放物線を描くように。

我々の業界では「技術的負債」ということがいわれる。開発したシステムによって得られる成果は、ただ純粋にプラスの成果として存在するのではなく、以前の開発の積み重ねによって生じるいわば負債のような事象の上に成り立っているという比喩である。それがどのような事態であるかについては、広木大地氏による「「技術的負債」への処方箋と「2つのDX」」を参照してほしい。この記事では、技術的負債が発生する原因を、主に開発チームを含めたソフトウェアの内部に求めている。ここでは少し違うことを考えてみたい。

積み重ねた鋭意が「負債」と呼ばれるようになるのは、開発者を含めたシステムに内在する諸力によってのみ生じるのではない。システムを取り巻く環境の変化によるところもある。すなわち、ある時にはこれがよかろうと思って作ったシステムが、需要の変化によってユーザから見ると古ぼけたものとして見えるようになり、やがて機能を十分には果たさなくなるということだ。

ここで起こっているのは、前述の石と同じ事態ではなかろうか。すなわち、石の作用というものが、それを取り巻く社会の変化によって変化していくということである。その間、石そのものの本質が変化したわけではまったくない。しかし、社会という事象を捨象してみれば、全体として石が持つ作用が変化したとみなしたって構わない。システムの例でいえば、システムが機能しなくなるというのは、利用者の需要を捨象した時に見える現象のいいであるように。

ここで考えたいのは、比喩的な意味での「物」のようなものについてである。システムの話をしたので、例示をスライドさせて考えると、「物」といえばInternet of Thingsというわけで、昨今は単なる「物」であるはずのものが、ネットワークにつながることによって、ただのThingではあり得ない利便性を発揮するということが注目されている。そうした「物」についても、前述したシステムの例と同じことがいえる。

すなわち、こういってよかろう。Things eventually stop because they get tired.

システムの作用は、それそのものの性質によって決まるのみならず、システムの利用者が何を求めるかによって決まる。ある時には有用だったシステムであっても、時間の変化によって役立たなくなることはある。そして、それはシステム外の事象によって起こることなのであるから、システムに内在的な力によって決まるのではない。もとより、システムそのものに変化する力があるわけではないのだから。

「システムは、だんだん疲れていくために有用でなくなる」という考えは誤りであるとはいえよう。一方で、システムに対してそのような見方をする問うことは有用であり得るとも思えるのだ。すなわち「疲れてしまう」という時間的な変化をシステムに内在する力と見做すことは、開発者たちの鋭意という動的な力、そして需要の変化という力を、それ自体は静的なシステム内部に織り込んでいく契機となるのではないかということである。

ネットワークにつながった物たちは、疲れてしまう。そういうとなにやらネガティブな響きを帯びてしまうが、疲れるという動的な契機を「物」の世界に見出すことによって、何がその力をもたらすのかについて内在的・外在的な諸力について思いを馳せることにつながる。現に、システムたちの作用というのはそうした諸力のあわいにおいて、その都度たまさか発揮されるというのが本当のところなのだから。

物は、もののけ=物の怪を帯びる。長く使ったものに愛着が湧いて捨て難いという経験は、誰にでもあることだろう。もう必要ないからといって捨てようとすれば、内心の声が物に伝わって、よくないことが起こるのではないかという気持ちに駆られ、内心の声をすら押さえ、黙ってしまう。時には「道具を買うということは、数万年にわたる責任を引き受けることである」という事態を引き起こすこともある。

放っておくと疲れてしまう、愛らしい「物」たちの声を耳を澄ますこと。物自体に内在する力という仮想的な認識を通して、我々の認識は社会へと開かれていく。それは、よりよいシステムを作り続けることにつながるかもしれないし、物を大事に扱うということにつながるのかもしれない。ひいては、大きくいえば社会をよくするということだ。そうした物を通しての社会への開かれを、エコロジーと呼んでみたい。目の前の物たちが「疲れてしまう」ことを真剣に受け取ることから、それは始まる。

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