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道具を買うということは、数万年にわたる責任を引き受けることである

これといって趣味と呼べることがなくて、しかし、日頃から本ばかり読んでいるのだから「趣味は読書」といえばよいのだろうけど、そういう気持ちにはならない。それには理由がいくつかあるのだが、そのひとつには、別に好きで読んでいるわけではなく止むに止まれずやっていることなのだから、「趣味」という言葉には当てはまらないだろうということがある。

もっというと、「趣味」という言葉に対して、小学生の頃に『テニスボーイの憂鬱』を読んで以来、村上龍氏に強く影響を受け続けてきた者として、自分にそういったものがあるということを認めるわけにはいかないという気持ちもある(氏は『すべての男は消耗品である』というエッセイシリーズで、何度となく「趣味」に対する強い嫌悪を示していたのだ)。

そういう観点からいえば、趣味というのはわけもなく「好きだから」という理由でなにごとかに拘泥するということである。そういうことに対して、屈託のない気持ちを持つことは難しい。そのせいで、趣味に興じるということが自分の身の上に起きてしまう事態を避けてきたということもある。

先日、日常生活における楽しみのようなことについて問われる機会があり、あまりそういうことについて考えることもなかったので答えあぐねていたところ、「そういえば鍋を買ったと日記に書いてありましたが、その方面は最近どうですか」と水を向けられて、確かにそうした「楽しみ」があったということに気づいた。それを「趣味」と呼んでもいいのかもしれない。

食に関する道具、とりわけ調理器具やうつわについては、例外的に文字通り拘泥としかいいようのない気持ちを持っている。そういうことを思い出して、不意に恥ずかしい思いを感じながらも、「そういえば僕はあまり物事には拘泥しないほうだと思うのですが」という前置きに続いて、道具について少し話をしたのだった。

決して豊富とはいえない我が家の食器棚にも、もう300年そこらの年月を超えてきたうつわがいくつかあるのだし、それどころか、もっといえば縄文土器のようなものが想起されるように、うつわというのは代表的な考古学的遺物として平気で数千年の時を超えて遺るものである。

土製の、落とせば簡単に割れてしまうようなものですらそうなのだから、ましてや鋳物や金属製の鍋など、意図的に破壊しない限りは何万年この世に残り続けるのかわからない。そこまで大げさにいわなくても、数世代にわたって使われるということは普通にありそうなことだ。道具を買うというのは、そういう責任を引き受けるということである。

もちろん捨ててしまうことはできるだろう。しかし、まだ十分に機能するものを、そう簡単に捨てることは自分にはできない。それは値段の問題ではなくて、だからこそ厄介なのだ。100円ショップの鍋だって、数万円のオシャレな高級鍋と耐久性という意味では変わらない。100円ショップでの軽い買い物が、何万年の責任を負うことにつながるのだ。

かといって、では買ったものを後生大事にしているのかというと、そういうことはない。日常的に使わないものを、いくらそれが美しかったり入手可能だったりするからといって買うことはない。また、洗い物をしている最中に落として割ってしまうことはしょっちゅうである。

道具の性質が上記したような拘泥を生むものだからといって、もの自体を過剰に大切にするのは違うと思っている。使うものだけを買うし、不注意で割ってしまっても嘆かない・怒らないということに決めている。そうでないなら、買わないほうがいいとすら思う。壊れるという自然の結果に対しては、拘泥がない。縄文土器だって、多くはバキバキに割れた状態で出土するのだから。

大げさにいえば、道具を買うということは、それが残ってしまい得る数万年にわたるかもしれない時に対して、自分が責任を引き受けるに足る「美」を見出し得るのかという問いに対する肯定を与えるということなのだ。それだけに、何を「美」とするのかに対して、強い気持ちを持たずにはおられない。拘泥というのは、そういう理路である。同時に、道具を伝えること自体は自然の成り行きなのだから、不注意で壊してしまうこと自体に拘泥する理由はない。

とまあ、「なんか最近なんか楽しいことありましたか?」と問われただけでこんな感じのことが脳内に駆け巡るわけだ。そうした事態を「ゆる言語学ラジオ」の「意図せずメタ認知が暴走する悲しき怪物【ミーム提案委員会2】#71」では「メタモン」と呼んでいた。共感することしきりである。それこそが文字通り「拘泥」を示しており、そうであれば避けようのないことではあっても「趣味」と呼んでいいのかもしれない。

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