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「物たちの社会」をいかにして作り得るか

紺野大地・池谷裕二『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのかー脳AI融合の最前線』を読んだ。進展目覚ましいAIと脳科学を単独で押し進めるのではなく、お互いを繋ぐことでそれぞれだけでは得られないような拡張を目指すという研究の見通しが語られていて、わくわくさせられる内容だった。

その直前に「実験室内で培養した人の「ミニ脳」にゲームをプレイさせることに成功、AIよりも速いわずか5分で習得」という記事を読んでいたのだが、具体的にどうやってデータをエンコード・デコードしているのだろうか?と疑問に思ったりもしたのだった。その後に読んだ前掲書では、著者らの研究プロジェクトで、2015年の段階でネズミを用いてこんな実験を成功させたという話が紹介されている。

視力を失ったネズミの脳に地磁気センサーを含むコンピューターチップを埋め込みました。このチップはネズミが北を向いたときに右脳を電気で直接刺激し、南を向いたときに左脳を刺激するように作られています。私たちは、チップを埋め込んだネズミに迷路を解かせることを試みました。私たちが用意したのはT字型の迷路で、常に東側にエサが配置されています。そのため、迷路を解くためにはコンピューターチップから伝えられる地磁気の情報を利用し、どちらが東なのかを把握しなければならないのです。

はたしてこのネズミは、東がどちらかを判別しエサを手に入れることができたのでしょうか?

驚くべきことに、コンピューターチップを脳に埋め込んでからわずか数日後には、ネズミは高い確率で東がどちらかを判別し、エサを手に入れることができるようになったのです!これはすなわち、ネズミがコンピューターチップを介して伝えられる地磁気の情報を活用できるようになったことを意味します。

紺野大地・池谷裕二『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのかー脳AI融合の最前線』(位置: 333より)

そんな単純なことで生物に新たな感覚のモダリティを付加することができるのであれば、上記の記事で紹介されているIn vitro neurons learn and exhibit sentience when embodied in a simulated game-worldという論文にあるように、ある種の計算装置にピンポンを解かせるようなこともできたりするのかなあと、信じられない思いが少し解けるような気持ちになったりもした。

福田純也『外国語学習に潜む意識と無意識』という本に面白いエピソードが紹介されている。日本語では、上下左右のような相対的な位置を示す表現と、東西南北のような絶対的な位置を示す表現とが、状況に応じて切り替えて使われる。しかし、あらゆる位置関係を絶対的な位置によって表現する言語があるのだそうだ。そのような言語を使う人々について、こんなことが語られている。

驚くべきことに、それがたとえなじみのない場所に連れていかれたときでも、暗い部屋で目隠しをしてぐるぐる回った後でも、かなり高い精度で悩むことなく絶対的方位を示すことができるそうです(Levinson(1996))。これは生まれた時からその言語に触れており、そういった感覚を矯正する言語を使用し続けることによって身についた、いわば「絶対音感」のように高度に発達した能力であるといえます。

福田純也『外国語学習に潜む意識と無意識』(p.88より)

言語によって、日本語話者からすると信じられない、まさに超能力のようなことが同じ人間に起こるのであれば、前述のネズミのようにセンサによる新たなモダリティの追加による能力拡張というのは、人間にとっても実は既に確認されている能力で、広く人類がそのような能力を身につけるということすら、充分にあり得ることであるようにも思われる。

寝入るまでのベッド内読書の一環で、樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである―考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』という本を読み始めたのだが、この中で、制約を取り払ったときに想像できる未来を考えてみようという話があった。それで少し考えてみたりしたのだが、自分の興味としては宇宙に行くとか車が空を飛ぶみたいな話よりも、人間の知性が拡張されている未来の方がよりそうなってほしいという気持ちがあるという気がする。

統計局ホームページ/日本の統計 2021-第26章 文化」に掲載されている統計によると、令和元年の日本における新刊出版数は71,903冊なのだそうな。1年のうちにそれだけが刊行されていて、もちろんこれまでに刊行された本もあるし、なんならいろんな言語で読んだらきっと面白いだろう本がたくさんあるはずだ。僕は、ブクログでの記録によると毎年だいたい200冊弱ほどの本を読んでいるが、差は広がっていくばかり。面白い本をみすみす見逃さざるを得ない状況を改善できたら、というのが個人的なあってほしい未来である。

そういう意味では、先の絶対位置を感得できるような人間の能力拡張みたいな方向での研究によって、出版された本を全部読むことは叶わなくとも、今より読める冊数をずっと多くすることはできるのかもしれないという気もする。ぜひそういう未来が到来してほしいものだなあと切に願うところである。

ところで、先のピンポンをする「脳の断片」のようなものから想像を逞しくしていくと、そういうものがどんどんあれこれできるようになったときに「意識」というものが生まれるのだろうか?というのが気になるところではある。渡辺正峰『脳の意識 機械の意識ー脳神経科学の挑戦』という本では、脳の片側をじょじょにコンピュータに置き換えていって問題なく動くようになったときに、機械になってしまった方を取り出してみれば、そこに意識が宿っているはずだという展望を述べている。そんなことが実現可能なのかわからないが、夢のある話だという気もする。

一方で、脳の断片でもコンピュータでもなんでもいいのだが、そうしたものに「意識」が芽生えるかどうかという議論がなされるときに違和感があるのは、何かの仕組み単体をどうかしたときにそうした事態が生じるのかということを議論してもしかたないのではないかということである。どういうことか。

こんなことを考えてみる。人間の赤ちゃんを、生まれた時からずっと隔離しておいて、それこそ映画「マトリックス」のように栄養だけただ与えた状態で「培養」するように育てたとする。そしてその赤ちゃんを、外界との交流をできるだけ排除して育てたときに、身体が成長したその人間に果たして「意識」と呼べるものがあるのだろうか?なんにせよ、人間の社会(狼に育てられた子供の伝説なども思い浮かべれば人間でなくてもいいのかもしれないが)との交流なしには、「意識」としての機能は育たないように思えてならない。

そう思うと、何かの仕組みをいくら単体で複雑にしていったとしても、どれだけ大量のデータを与えたとしても、「社会」の中で「意識」の萌芽を機能させない限りは、「意識」は生まれないように思える。今年はGPT-3がすごいと騒がれた年だったが、単体でどれだけすごくても、他の存在とのやりとりによってデータの中からは感得し得ないような多様性というのが社会にはあって、それが「意識」を生じせしめるのではないか?そんなことを思ったりもするのである。

先に「アリストテレスを真剣に受け取る:「物」を通じて社会へ開かれるエコロジー」という記事を書いた。ここでも述べた通り、物の機能というのは社会的な関係の中でこそ生じてくることなのであって、物自体の内在的な機能として生じるのではない。同じように、「物」がどれだけ複雑で、ある種のタスクを上手に解けるとしても、その「物」たちが「社会」におけるコミュニケーションをするのでなければ、機能すること、すなわち「意識」を持っているとみなすことはできないのではないか?

そんなこともあって、SFプロトタイピングの話でいくと、人間の知性が拡張される未来が到来してほしいと思うと同時に、情報科学の研究者としては物たちをつなぐネットワークとコミュニケーションのしくみこそが、もっといえば「物たちの社会」をいかにして作り得るのかということこそが、取り組むべき対象なのではないかと思える。「意識」というのは、物理的な存在そのものをどれだけ複雑にしてもそれだけで生じるのではなく、物単体ではあり得ない世界の多様性こそが揺籃となるのだろうから。

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