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ポストモダン回顧と現在(ポストモダンの多様性批判_1)No.3

ポストモダンの思想としての多様性は、リオタールの「小さな物語」を発端として、ポスト・ダントーの何でもありの結論に行き着く。だが、リオタールはともかく、アートへのダントーの影響は限定的だっただろう。彼のヘーゲル主義的アート(の歴史)の終焉は衝撃的(今さらヘーゲルですか?という問いにも関わらず)だったとはいえ、その後のアートの表現の自由へのダントーの貢献に、あまり説得力があったとは思えない。
というより表現の自由は、(ヘーゲル=ダントー流の理念の不在という)否定的な形ではなく、より肯定的な命題ではないのか? リオタールの「小さな物語」もやはり、ポスト・ヘーゲルのコンテクストに置き直せば、アートが歴史から放逐される際の体のよい口実だったのかもしれない。
だがアートは、理念から立ち去られたといっても、コンセプト(概念)という確かな武器をすでに装備していた。そのアイデアを提供したのが、20世紀初期に理念を喪失したアートを見るに見かねて蹶起したデュシャンではなかったか? 理論は、アート自体から来るほうが健全(理論が適用されるのが、そのアートだけでもよい)で、外部から与えられると碌なことはない。それは、モダンのグリーンバーグで実証済みだろう。
デュシャンがレディメイドによって提示したテーマのコンセプトは、それでなければ20世紀のアートが単なる装飾に堕する危機をギリギリの所で救出する捨て身の賭けだったと言える。彼は、チェスにかまけてアートをほっておくような冷淡な人間ではなく、かなりの熱血ボーイだったのだ。
さて、デュシャンの手が及ばないポストモダン(とはいえ、ポストモダンをコンセプトとして読み解くことはできる)の時代になると、90年代のダントーの言説は、アートの終わりを終わり続けるという名言(迷言?)以外に、その中身が問われることはなかった(その言葉の予言的正確さは最近まで有効だったが、そうであるがゆえに害なしとはしない)。
ただし、何でもよい無差別なアートが、真剣に語るに足る価値があるとは思われない。実際、その多様性を吟味し批判する言説はなく、あるとしても注目されることはない。多様性の相対主義を批判する勢力もいたが、彼らの絶対主義自体が相対主義の批判の対象だったのだ。何でもありの混乱は、それを整理する言葉すら萎縮させるものだった。多様性と括って無視するなら別だが、それは何も言ってないか、多様性を囲い込む悪意がちらついている。
見方を変えて、多様であることの賑やかな側面を照らす自由(それは指針と行き場を失ったアートの見かけの華やかさだったのかもしれない)に、空疎な賛辞は投げつけられても、アートを実質的に活気づけることはなかったのではないか?
欧米の中心で起こった多様性の崇拝は、言説レベルではなく制作レベルでアーティストたちを喜ばせ勢いづかせるものだったが、アーティストの熱狂は長くは続かなかった。一時的な盛り上がりは、掛け声だけでほとんど内容がなかったからである。無制約の自由を与えられたアーティストは、自分が何を表現したいのか、自分に何か表現したいものがあるかと自問して、途方に暮れたのだろう(逆に、表現の自由が検閲されたり制限される現在のアーティストは、何を考えているのだろうか?)。
そのような虚弱な体質のアートの世界で、いずれ優勢になるのは過去の遺産への傾倒であり、それへの帰依である。かくして、何でもありだが何もないポストモダンは、伝統にしがみつく退廃劇へと身を委ねる。
ポストモダンは、言説面では大した足跡を残さなかった。だが、その不毛なポストモダンにあって、80年代後半からのマイノリティの活動(とくにエイズ関連のアクティヴィスティックなアートや、ナン・ゴールディンやウォルフガング・ティルマンスに代表されるプライベートなものへの没入)、そして世界的な多文化主義の志向の高まり(それは、主にビエンナーレで展開された)を、側面的に支援する根拠にはなった。
だが、ポストモダンの多様性は思想的には欧米しかもマジョリティ(白人、男性)のコンテクストで捉えられるべき事態であり、その意味では、70年代後半のプルーラリズムの現象の延長に位置づけられるだろう。だとすれば、ポストモダンのアートの多様性へのシフトは、モダンアートの閉塞状況からアートが脱出するあがきの一つだったと結論づけられるのではないか。
見出しの写真は、Anne Low『Dust Bed』(2018年)。
下の写真は、Sara Haq『Trans:plant』(2018年)。
ともに、エコロジカルなアンビエント作品。

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