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現代アート論(3)―新型コロナ下の現代アート

これから述べることは、新型コロナウイルスのパンデミックが生じる直前までのアートの話である。新型コロナ危機の時代から現代アートを眺望すると、何が見えるか?

「出来事」は、歴史の外部で歴史を駆動させる。

「歴史の終焉」はポストモダンが惹き起こした唯一の「出来事」だった。唯一とは、その後ポストモダンに、どのような「出来事」も起こらなかったからである。その一押しで時代ががらりと様変わりし、その後は惰性で現実の変容が進行していった。それが定常状態に達してからの日々は、なんと永遠に不変であることか。まさに「終わりなき日常」の現実。
だが、別の新たな「出来事」が、その惰性の日常をうち壊すハンマーを振りかざした。その一撃が、ポストモダンの日常を打ち立てたポストモダン自体を転覆させるとしたら?
アートは「出来事」であり歴史がないとしてみよう。もしそうなら、モダンもポストモダンも無意味になるのか?
そのように思われるかもしれない。だが、そうではない。「出来事」としてのアートが生まれることでモダンが始まり、同じようにしてポストモダンが始まる。ピカソが生まれ、デュシャンが生まれる。ただし、歴史を読み違えたポストモダンのアーティストの場合は、どうか?
ポストモダニストの誤算は、歴史を総体的に把握できると勘違いしたところにある。マルクス・ガブリエルが言うように世界(の全体)は存在しない。
ならば歴史の全体は存在しない。にもかかわらず全体としての歴史が終焉すると言い張ることは傲慢である。歴史は、シングルであれマイノリティであれマジョリティであれ、人間が操作できるほど柔ではない。新型コロナウイルスについても、同様。ウイルスの全体は把握できない。無力ながら卑小なクラスターで対処するしかないのだ。だからといって問題が奇跡的に解決される、すなわちウイルスが撲滅されると思ってはならない。ウイルスの世界は有限の断片であり無限の全体である。いずれにせよ人間の手に負えない。把握できない全体を捕まえられると思い上がったポストモダンのシミュレーショニストは、読みを外したのか? 自分のシミュレーションに正解(限界)があると考えたのだ。それが致命的だった。シミュラークルに答えはない。だからやり続けるしかないのだが、できれば、その極限を目指しつつ。
アートだけでなく政治のポストモダンが終焉に追い込まれる。私が死を宣告するまでもなく、新型コロナウイルスがそれをさっさとやってのけたのだ。コロナウイルスの感染を甘く見た人間は、この災厄で苦い絶望を味わされるだろう。
現代アートはどうか? 
見出しと次の写真は、新型コロナウイルス下の現代アートをイメージしたかのようなAlbert Oehlenの作品(2015年)である。樹木になり損ねた不毛の幹、枝、根が空虚にはびこる。

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新型コロナ危機の時代にアートはない。それ以前の現代アートに戻ろう。ポストコロナのアートを見定めるために。

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