見出し画像

ポストモダン終焉宣言、第5弾!(ポストモダンの黄昏に面して)

確かに、ポストモダンはだらだらと継続してしまった。
終わる終わると言いながら終わらない。アーサー・C・ダントーが予言したように終わりを終わり続けるというのは、正鵠を射ていた。ということは、やめるやめると言いながら煙草をやめられないのと同じか?
ポストモダンは中毒化する?!
その証拠に、多文化主義は終わったはずだが、またぞろ新手の文化を持ち出してくる。プリミティヴィズムも終わったはずだが、土着的なものがいつの間にかはい出す。面白いのは、グローバル資本主義と手を切ってまでドメスティックなマーケットにこだわり、ナショナリズムに頼った商売をする勢力がある。そういえば、昨今の右傾化の流れにあやかって過去や既成のジャンルを復活させ、通俗的なタブーブレーキングを狙う輩まで現れた。
だが、そんなつまらないものを引き連れて終わるとして、何が終わるのか?(終わらないとすれば本当に終わるのは、アートを生み出す人間のほうである)
アートなのか?
モダンアートなのか?
それともポストモダンアートなのか?
ダントーは、アートの終わりが引き延ばされるのがポストモダンアートだと述べた。この場合、終わらないのがポストモダンアートだが、ヘーゲリアンのダントーは大きな物語のアートは終焉すると断言した。
だが、ポストモダンアートが終わらないのだから、果てしなく繰り返されるアートも終わらない。そうならば、ダントーの言うように、なんでもありの小さな物語のアートは、永遠に安泰となる。
現在の状況は、まさにモダンもポストモダンも終わらない、その両者の共謀と結託がのさばる段階(ダントーのなんでもありのポストモダン)にある。だが、そのためにアートは窒息寸前の状態なのだ。というのは、モダンとポストモダンは相容れないのでそれらが結びついたら、それこそ自爆していまうだろうから。
アートを蘇らせるために、ポストモダンを終わらせるには、先のポストモダン終焉宣言で述べたようなリチャード・セラの戦略では難しいかもしれない。彼が呈示した物質の自己意識と同じやり方では、何も変わらないのではないか?
だから、どうだと言うのか。セラの時は、モダンアートの世界が薄々感じていた自己の死を見せつけられて動揺し、それが引き金となってポストモダンへの道を開いた。
今回は、ポストモダンの根本的変革であり、パラダイムの総取り替えなので、そうやすやすとはいかない可能性が高い。
だからといって古典からモダンへの大転換のとば口で、古典絵画を無理やり終わらせたゴヤのような豪腕アーティストが現れてこないとも限らない。
ここは、繰り広げられるだろう夜宴を楽しみに待つとしようか!
写真は、ゴヤの『黒い絵』。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?