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ポストモダン終焉宣言、第8弾!(ポストモダンの時代に注目すると現在が見えてくる)

前世紀末の90年代は、大きな物語(プレモダンかモダンかどうかはともかく一元的世界観)と小さな物語(多元主義と相対主義)の間の論争があった。90年代はまだ大きな物語の燃え滓が燻っていたのだ。
それに対して多様性の欲求は、90年代を通じて増大していった。そのようにして現代アートはポストモダンの海に流れ込んでいったのだ。
多様性の度合いが高くなれば、それは表現としてはプライベートなものの繁茂という形で現れた。コミュニケーション不可能な分裂の様相は深刻になった。それに警鐘を鳴らす者もあったが、そのうち誰も断片化について、欠如する全体について語ること(全体への郷愁)はなくなった。
アートは中心に続いて全体を喪失したのだ。この窮地を救ったのは、折からグローバル化の真っただ中にあった資本主義マーケットだった。そのバブルの膨張の勢いのままに、現代アートへの需要と投資を最大限に喚起した。この大波に乗ってアートは息を吹き返したのである。結果、美的価値となった多様性は、マーケットで猛威を振るった。世紀末と初めのまさにポストモダンの絶頂期である。それが、リーマンショックまで続いた。
だが、現代アートは箍の外れた多様性は許容しなかった。多様性に一定の制約を課す基準を暗黙のうちに立てた。それが、現在まで現代アートの美的価値の評価基準になっている。
それは何か? そこに絡むのが、ポストモダンアートの隠れた原理である差異であり、可視的な形ではシミュラークルである。
差異が不可視であるので、まったく目立たなかったが、実はポストモダンの時代の歴史なき歴史を形作ってきた。多文化主義を含めて差異がマーケットに浸透し、身も蓋もない多様性(歴史無視、能力無視)に歯止めを掛けてきたのである。
マーケットは、独自の活動の論理を有する。マーケットは流通を最終目的とするので、交換の潤滑油が必要になる。その論理のコアは、フェティッシュである。フェティッシュは満足を与えないで誘惑する。商品はフェティッシュ(写真1)となることで、永久にマーケットの流通回路を循環するのだ。
そうなれば、商品は最強の剰余価値を帯びる。マーケットに参入したアートが、そのメカニズムに感染しないはずはない。というより、元来商品価値のないアートが商品価値を手っ取り早く身に着けられるのが、このフェイクファーのフェティシズムなのである。
永久に満足しない誘惑の流し目を送る商品価値ゼロのフェティッシュは、一時的に商品=フェティシズムとして批判の矢面に立たされたが、今やフェティシズム=アートマーケットへと全面化した。このフェティッシュなマーケットから、その下に潜んでいる純粋シミュラークルの実験(写真2)を探し出すことが、私の責務である。
見出しの写真は、2019年バーゼルのArt Basel、下の写真は、同じくバーゼルのJuneから。

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