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ポストモダン終焉宣言、第9弾!(ポストモダン後半の20年間の空白と付録のプチ・マニフェスト)

新世紀以降ポストモダンという言葉はついぞ聞かれなくなった。
終わったか、飽きられたか?
いずれにせよ、ポストモダンの戦術的に依存的な人間の紡ぎだす文化現象が軽佻浮薄なのは、目をつぶるしかない。

流行としては去ったが、まったく解決していない。なぜなら、ヘーゲルの言うようにアートが絶対精神に見捨てられたとすれば、その後どうすればよいのか? つまり「小さな物語」の箍の外れた乱立とそれらの間の断絶の問題は、たとえそのすべてが内向して沈黙の均衡を得たとしても、消滅したわけではないのだ。
これは歴史の有無とセットなので、余計に始末が悪い。理念のない歴史だってあってよいだろうに、歴史がないからプレモダンでもポストモダンでもないと嘯けるのだ。
21世紀のポストモダンは、このようにして騙し騙しずるずるときた。
アート理論としては、理念も歴史もないので失われた20年である。アートは、歴史がないことを口実に傍若無人に振る舞った。歴史が不在なのだから、何をやっても勝手でしょというわけだ。
しかも、生まれるとたちまち忘れ去られる健忘症のアートである(歴史がないので記憶に残らない)。理論的支えがないので、中途半端かパスティッシュしか現れない。その状況を打ち破る特筆に値する表現はなく、90年代の多文化主義以降、アート理論として目立った言説は見当たらない。

しかし他方で、21世紀の世界は不毛なアートの外部で深甚な事故や事件に襲われて翻弄された。こうなればアートどころではない。とはいえ、確実にそれに刺激された新しいアートが、大惨事の現場から登場しつつある。
だが、2008年のパニックをなんとか乗り越えたマーケットは、2010年代拡大に転じ、従来のアート(ポストモダンのアート)がしぶとく生き延びている。その名前で呼ばれないし形式主義化しているので、ポストモダンの原点であるモダンの閉塞の絶望に由来する多様性は、たんなる無節操な折衷主義に堕しているが。
アートをめぐるこのマーケットと、マーケット外の社会的、政治的傾向のアートとのギャップは大きい。その溝を埋めることができるのは、純粋シミュラークルの「イメージとなった現実」ではないか? 最後の闘いが、コロナ明けに待っている。孤立無縁であることは重々承知である。だが、一人で宙に舞い上がっていた2000年代と比べて、状況は明確に把握しているつもりだ。

現実がイメージであり、イメージがいかに自由であるかを追体験させる準備は整っている。その上で共有されたイメージで現実を変革する一歩を刻むこと。つまり、歴史のある社会と連動したアートである。
見出し写真は、我々が行動する際に見習うべきPope.Lのパフォーマンス衣装。下の映像は、Pope.Lのパフォーマンス。

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