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社会の底辺で床を舐める私の半生|そろそろ時効かな?語っちゃおう

皆さん、こんにちは。
リーダー育成家&作家の林健太郎です。

この記事は私の放言シリーズ第3段として、衝撃の私の半生について語っちゃおうと思います。

どぎつい内容になると思うので。。
この記事は全ての人に読んで欲しいわけではなく、興味のある人だけに読んでもらえればいいかなと思い、途中から有料記事にさせていただこうと思います。
もし良かったら、どうぞお読みください。

ずっと今の私ではないという不都合な事実

最近私のことを知ってくださった方は、私のことをきっとコーチングで成功している人、有名なコーチであり本を書いている著者、そしてYouTuberといったイメージで捉えてくださっているのかなと思います。
そして、ずっとそんなステータスと共に生きてきた人、そんなふうに捉えてくださる方も多いのではないかしら?
そんなふうに思います。

だけど、それは実は真実ではなく、過去の私はそんな権威性もなければ、ビジネスで成功したこともなければ。。。
というより、失敗の連続で、社会の底辺レベルで這いつくばり、起き上がるきっかけをつかめず床を舐めて涙するような人生を送ってきたような気がします。

プロのコーチとしての活動では、この経験が本当に宝だなと感じるわけですが、その渦中の私にはそんなことを感じるような余裕はなく、溺れ死なないように、本当に必死にもがきながら生きてきたよう思います。
そんなことをこれから書いていきますので、誰にでもチャンスがあるんだ!なんてことを思いながらお読みいただければと思います。

F1の空力デザイナーになる予定が・・・

私は東京の渋谷という都会に生まれ、私立の中学校→高校に通う、ある意味裕福な家庭に育った子供でした。高校2年性の時にアメリカに単身渡り、高校生としての時間を過ごし、そのままアメリカの大学に進学し、航空力学を専攻し、将来F1という世界最高峰のレースで走らせる車をデザインするエンジニアになる「予定」でした。
そしてインディアナ州にある名門、パデュー大学に進学が決まりかけていた時、日本のバブルが崩壊し、母の営む会社の経営危機が生じ、大学進学を諦めて日本に帰るという決断に迫られました。

ということで、まったく想定外の帰国になったわけですが。。。
日本に戻っても、親の資金を充てにできない、海外の高校を出たばかりの私に「ホワイトカラー」的な給料が良くて見栄えの良い仕事などあるはずもなく、建築現場で働く職人として社会人デビューを果たすことになります。
あ、カッコよく書きすぎだ。。
それしか選択肢がなく、泣く泣く目の前の状況と限られた選択肢を受け入れざるを得ない状況に立たされたのでした。

こんなはずじゃなかった。。

それが私の社会人生活の第一歩目。
1992年のことです。

東京湾にコンクリと共に沈められる

そんなクソ苦い社会人デビューを果たした私ですが、その生活は長く続かず、結局、数年後、母の営む印刷屋さんの営業マンとして仕事をするようになります。
そこから数年の間、母の事業はなんとか継続することができていたのですが、いよいよ軽印刷業というのはデジタル化で需要が著しく減少し、またまた経営危機に陥ることになります。
ここで私は、資金繰りという経営者なら日々頭を悩ますことに首を突っ込むことになります。

当時、会社としての銀行からの融資枠はとっくに限度額まで借りていたので、お金を引っ張ってくる先はクレジット会社やら町金やら、金利の高いところばかり。
母の個人的な信用で借りられるところは借り切っていたので、私の個人的な信用を投げ打ってお金を借りるレベルまで状況は悪化していました。
そして、それでも状況は改善せず、違法にお金を貸すいわゆる闇金にも手を出さざるを得ない状況にありました。

ある時、私は今でも忘れもしない新宿のとあるビルの中に入っている闇金を訪問し、お金を借りたいとお願いをしたところ、

「とりあえず10万貸すからな。で、金利として先に3万こっちでもらうから、ほら、現金7万な」

と、どう見てもカタギに見えない強面の人(その背後にもっとヤバそうな人が2人監視している状況)から凄まれつつお金を渡され、

「おまえ、きっちり返せよな、じゃなかったどこまででも追っかけてって、コンクリに詰めて東京湾に沈めるからな」

と脅されながら現金を得る、みたいなことがありました。

=ここから先、私はどうやってプロのコーチの道のりを進むことになるのでしょうか=

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