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ひとつの空

《ひとつの空》
著者:すぎやま けんたろう
発売日:2024年8月1日(仮)
定価:2500円(税込)

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info@myaction-sugiyama.com


空は大地や海と違ってどこまでも繋がっている。

快晴、大雨、厚い雲、季節や日によって様々な顔を持っている。それはまるで人生と同じである。

楽しい時、悲しい時、辛い時、人の心も空と同じようにいろいろな日々の中や人と関わる中で様々な気持ちを持っている。


空には終わりがないのだ。

だが人生には死という最期が訪れる。

空と人生、全く違うようでどこか似ている気がするのは気のせいだろうか。





八月の終わり、夏が終わりを告げ、朝晩の涼しい風が東京の大都市を包んでいた。しかし、まだ気温は三十度を超え、室内では冷房なしでは過ごせないほどの暑さが続いていた。

守は吉祥寺のワンルームを借りて生活している。四年目の大手企業で働く彼は、人との会話よりも一人で過ごす時間を好み、休みの日は家やカフェで読書に没頭することが多い。

アパートから最寄りの駅までは約20分ほどの距離で、彼は片手にコーヒー、もう片手にスマートフォンを持ち、ニュースの記事を読みながらジャズの音楽をイヤホンで聴いていた。しかし、まだ目覚めずに脳内で眠気と闘っていた。

この日もいつもと変わらず、彼の日常が始まった。何事もなく仕事を終え、家に帰る予定だった。そんな考えをしながら、最寄りの駅に到着した電車に乗った。

電車に乗ると、守は空いている席を探し、座った。スターバックスで買ったドーナツを取り出し、隣の人に迷惑をかけないように手でちぎって口に運んだ。

朝食はほとんどアパートで食べない守は、家を出るギリギリまで寝ることが多い。そのため、出勤途中に食べ物を買い、電車の中で摂ることがよくあった。

守が勤める大手企業は地上30階建てのビルで、各フロアにさまざまな企業が入居している。ビルの入り口には警備員がおり、入館許可書がないとゲートを通過することはできない。守の勤務する会社はビルの6階にあり、約千人以上の社員が働いている大規模な組織だった。

守は大学を卒業した後、特にやりたい仕事がなかったため、エントリーシートを様々な企業に提出し、結果的に現在の会社に入社し、四年間勤務している。

彼の仕事は主にデスクワークであり、上司からの指示に基づき企画書を作成したり、取引先へ提出するプレゼンの内容を考えたり、締め切りまでに仕上げて上司に提出することが主な任務だ。

守が一生懸命作成した資料を元に実際のプレゼンを行うのは上司や同僚たちの役割であり、彼自身はその現実に特に感慨を抱かず、自分がプレゼンをしたいという向上心や前向きな感情は持っていない。むしろ、他人のサポート役や裏方としてプレゼン資料作成や会議室の手配などに従事する方が得意だと感じており、それぞれの得意分野を活かしてチームプレイを行うことで会社や学校、社会が成り立っていると考えている。

そのためには、自分が得意なことに集中して仕事を果たすことが重要だと守は考えていた。彼は自らに言い聞かせながら、どんなに地味な仕事であっても文句を言わずに取り組むことを常に意識していた。

同僚や上司からは「守が作る資料は分かりやすく、プレゼンの際も説明しやすい」と高い評価を受けていた。もし自分に対してこの評判がなければ、彼自身も裏方の仕事に専念したいと思っていたのだ。

「もっと上の立場になりたい」といった野心や向上心は守の中にはなく、現状維持で現在の仕事を続けることができれば十分だと思っていた。

入社して数ヶ月が経ったある日、同期から「なぜこの会社を選んだの?」と尋ねられた。守は「面接の担当者が優しく、社内の雰囲気も明るかったから、暗い雰囲気の会社に入るよりもまし」と答えた。

「俺は、残業がないのと週休二日確保されているところに惹かれて入っただけで、もっと楽に働ける仕事があればそっちにするけどな。そんな甘い話ねえよなぁ」と半笑いでコーヒーメーカーから出てくるコーヒーが紙コップに入るのを待ちながら話していた。

企業の中には、守のような考えを持った人が必要であり、そうでなければ社長やグループのリーダーといった人の意見や考えをまとめるといった役割を持った人たちの、存在価値が無くなってしまうのではないか。つまり、“光と影”のようなもののようである。

彼が勤めている会社は、十七時になると帰宅準備をする社員が多く、この日も同僚達の中には「今日はどこの飲み屋に行って呑む?」

「私はこの後友達と会う約束があるので行けませーん」などとまっすぐ家に帰らずに、どこかでお酒を呑む相手を探しながら自分のデスクに散らばった資料を片付けたり、パソコンの電源をシャットダウンしたり、帰宅準備をする者が全体の大半を占めていた。

それとは逆に自分が抱えている仕事の量を目の前にしてため息をつき、心の中で“よし!明日の午後までに終わらせないと”と自分を鼓舞した。

同僚や職場の人が帰った後も少し会社に残って、自分が抱えている仕事を少しでも終わらせようと、そこから自分の中のギアをもう一段階上げて仕事を続ける者がいる。

守はこの場合で言うと前者だ。

仕事に対して真面目だが、ただ一つ他の職場の同僚たちと大きく違うことがあり、それは必要以上あまり同僚とコミュニケーションを取らないことだ。

例えば、「最近このお酒に嵌っていて」「あそこの居酒屋の女性がめっちゃカワイイんだよ!」といった仕事とは関係がなく、ただ集団生活の中では必要とされるコミュニケーションだ。

守はデスクの上に決めている配置へとファイルやメモ帳などを戻し、周囲の人の耳に聞こえるか聞こえないかくらいの声で「お疲れ様です」と誰に対して言うわけでもなく独り言のように発してから、一人会社を後にする。

朝歩いてきた道を戻り、会社から一番近くの駅まで辿り着き毎日決まったような時間の電車に乗り、ワンルームのアパートがある吉祥寺駅に降りる。

たまに同僚から、「たまには守も一緒に呑みに行かない?」と誘われても「いや、帰ってやらなきゃいけないことがあるから残念だけど行かないです」とやんわりと返し断っていた。

だが、特に家に帰って特別やるべきことなど無いのだが、同僚たちと呑み屋へ行き、その場で交わされる仕事に対しての愚痴や上司や取引先に対しての不満大会に付き合うことが守は嫌で、早く家に帰って趣味の読書をしたいのだ。

若い男性ならではの特徴である、晩御飯はコンビニか外食タイプの守は、今日も近くのスーパーに行き“割引”と書いてあるシールが貼られているお弁当や惣菜、そして“自分へのご褒美”である缶チューハイ一本をカゴに入れてスーパーのレジへ向かった。

実家から引っ越してからほぼ四年間、毎日通っているスーパーなのでここでも必要最低限の言葉を発して、買った物を仕事用のカバンの中に入っているエコバックを取り出し、その中に入れスーパーから出た。

普段あまり空を見上げることはなく、むしろ掌の中にあるスマホでユーチューブやニュース、滅多に来ることのないLINEをチェックしながら帰ることが多い。

この日もまだ太陽の光は強く風がなければ暑さを感じるが、九月に近くにつれ時たま吹く風はどこか優しく心地よく秋の訪れを感じさせてくれるものだった。

守の周りには、学校から家へ帰り一度荷物を置き同年代の子達と遊んでいる子供達の姿があった。

空を見上げると、童謡の“赤とんぼ”の歌詞に出てきそうなオレンジ色が強い綺麗な夕日が、そびえ立つビルの間から見え守はつい足を止めた。

この日は頬に当たった風が異様に心地よく感じ、ふと空を見上げた。

空って、こんなに綺麗だったのか。とどこかの詩人のようなことを思い、その瞬間どこからともなく湧き出て来る恥ずかしさという感情に心を支配された。

そんな彼のことなんか誰も気にせず、自分たちのペースで歩いている人がほとんどで、守の存在など気にする人は全くいない現実にふとかえると、急に出た恥ずかしさとこんなに人が大勢いるのに、自分も含めて他人に関心や興味が持てない今の人間社会の一方で、有名俳優の不倫や政治家による不祥事などが起これば、一斉に罵詈雑言を浴びさせるネットの中の社会は繋がっているようで、もしかすると本当は別世界のことではないかと考えた。

ネットの中の世界というのは本当の意味で、人と人との心は本当には繋がっていなく、誰かのことを叩いたり、様々なニュースに対して自分の主張ばかりしたりするだけで、むしろみんな本音の部分では孤独ではないのか。

それらをあまり感じないようにするために、そういった行動をとることで安心感や一体感と似たものを得られることにより、自分の精神を保っているのではないかと考えながら自分でも気付かないうちに足が動いていた。

築十年以上は経っているだろう、家賃五万円のアパート。その三階建ての二階に住んでいる守は階段を上りながらズボンのポケットから部屋の鍵を出した。

一人暮らしの彼にとっては、テレビは寂しさを少しでも紛らわすための道具である。特に観たい番組があるわけでもないが、守以外にこの部屋には誰もいないので、BGM代わりにテレビのスイッチを入れチャンネルをザッピングして、いろいろな番組を観たあとに結局バラエティへと落ち着くのである。

テレビに映るバラエティの中では若手芸人が司会の大物芸人に言葉という武器で食らいつき、司会のポジションを自分のものにしたいという熱意が声からも伝わってきた。読書が趣味の守はテレビに視界を向けることはなく、読みかけの本を手に取り、スーパーで買ってきた缶チューハイのフタを開けコップに移すことなくそのまま口に流し込む。

この瞬間が守にとっての僅かなシアワセの時である。

僅か?違う。

彼にとってこれ以上のない一番幸せな時間である。

誰にも邪魔されず大好きなアルコールを飲みながら趣味の読書を楽しむ事ができ、同僚たちと一緒に居酒屋へ行き焼き鳥を食べながら仕事のグチを言う時間と比べた時に遥かに、守にとっては特別な時間である。

そんな特別な時間を遮るように、飲みかけの缶チューハイや惣菜が置いてある机の上で何の前触れもなく、スマホが何かの知らせようとブルブルと机に振動により伝えようとしている。

右手に持っていた本を机に置き、守はスマホを手に取りながら、どうせ、迷惑メールか登録しているサイトからのお知らせのLINEだろ。とLINEの通知を削除する気持ちでスマホの画面に視線を落とすと、そこには二つ年下の弟からのLINEの通知が表示されていた。

大した用事ではない、と思いつつ指でLINEの表示をスワイプした。

「兄ちゃん、今度いつ帰って来るの?お母さんがたまには帰って来いと言っている」というなんでもない内容のLINEだった。

守の弟は実家に親と住んでいて守と全く性格が逆で、いろいろな年代や職種の友達が多く女性からモテて高校の時から彼女がいなかったということはなく、兄の守からしてみても一人の男性として素敵な部分があって、女性からモテる理由は理解できた。

守が最後に実家に帰ったのは、就職した年のゴールデンウイーク。だから遡ると、今から約四年前だ。

両親とも今まで大きな病気にはかかったことがなく、これといって実家へ帰る理由が思い当たらない守は、四年前に帰ってからは実家へは行っていない。

なぜ、実家に帰る必要があるのか。

実家に帰っても、今いる部屋より親に対し気を使って疲れるだけにしか無い、という考えを自分の心にぶつけ、スマホで弟に「何かあった?帰った方がいい?」と帰る気ゼロですよ!アピールのLINEを送った。

五分も経たずに「お母さんがどうしても話したいことがあるって」という内容のLINEが弟から返ってきた。

そこまで言うのだったらLINEで内容を伝えてくれよ、と守は思いながら「時間作って帰れるようにするけど、いつになるかわからない」と弟に返事をした。

スーパーで買った晩飯を食べ終えた守は、ほろ酔い気分で缶チューハイや食べたものを片付けることなく、そのまま身体をベッドの中へ。

食べ終えた惣菜が入っていた容器を普段であれば洗ってゴミ箱に入れているのだが、仕事の疲れとアルコールを飲んだこともあり、明日の朝に片付ければいいや、どうせこの部屋には自分以外の人はいないのだから注意されることはない。と思いながら机の上にほったらかしにした。

独身暮らしの醍醐味を守はこの日も満喫していた。

ベッドの中で目をつぶりながらさっきの弟からのLINEは、なんだったのだろう?と考えながら気付くと寝ていた。

仕事がある平日であれば、九時までには会社へ出勤しなければならない。そのため守は、寝坊して会社へ遅刻しないようにと、平日の朝六時にアラームを就寝前に必ずセットして、その後スヌーズ機能を使って、五分おきにアラームが鳴ると何度もなるようにしている。

小学生の頃から低血圧のせいもあり、朝がとても弱く目覚ましが鳴る前に起きたことは一度もなかった。

ある時に母親に連れられて病院へ行き、午前中いっぱい身体に倦怠感があること、なかなか寝起きがスッキリしないことを病院で調べたところ、“起立性調節障害”といって、思春期の子達に多く診られる症状で未だに治療方法や良い薬は見つかっていない。

守も含めこの起立性調節障害を抱えている人が多い中で、認知度が低く怠け病と勘違いされやすく悩んでいる方が多い。

「もう起きないと学校に遅刻するわよ!」と毎日のように母親が守のことを一、二回ほど声をかけて子供の時は起こされていた。

その日は前日の疲れとアルコールを飲んだこともあり、起きたのは予定よりも三十分遅れの六時半のことだった。

守はスマホに表示されている時刻を確認しながらベッドから慌てて起き、前日着ていた部屋着を脱ぎ洗濯機へ入れることもせずに、すぐにスーツへと着替えた。

いつもならシャワーを五分くらい浴びるところだが寝坊して遅刻してしまうこともあり、一分一秒でも時間短縮しようと慌てて冷蔵庫からコップに水を入れ一杯ゴクリと一気に飲み干し、アパートの部屋を後にした。

こんな時に空を自由に飛べることができたらと夢のようなことを考えながら、おそらくこの一年の間で自分が出せる精一杯の力を出し駅までダッシュし、通常であれば二〇分はかかる所を横断歩道の信号を無視したり、車が通らないことを確認したうえで車道を横断したり、と社会に存在する交通ルールを無視して、なんとか一〇分ほどで駅へ着いた。

時間短縮とはいえ強行手段を取ったことにより、毎日決まった時間に来る電車に乗ることができた。もし一本でも横断歩道で止まったり、持っている鞄を落としたり、していたら、間に合わなかったであろう。とともに自分が急いだことにより交通事故で誰かが怪我をする状況にならずによかったと考えていた。

いつもであれば、駅のホームに入ってきた車両の中を見渡して、空いている席に座りスマホを触りニュースを見たり、会社の同僚や先輩からのLINEなどに目を通したりするのだが、普段からあまり走らない守は、この日は久し振りに家から駅までの短い距離だが走ったため、自分でも驚くくらい息が上がっていた。

僕も年をとったな、ひとまず呼吸を落ち着かせよう。

そう思った守は空いているつり革を探しそこに左手を通した。

いつもなら空いている車両だが、何故かこの日は混雑していて、アパートから駅まで走ったことにより、乱れていた呼吸もだんだんと落ち着きを取り戻していった。額に滲んでいた汗も電車の冷房のおかげで、降りる駅に近づくにつれてみるみる汗が止まっていた。

車内はまだ冷房が点いていたので、着ていたワイシャツが汗で濡れていたのが、徐々に乾いていき涼しさを超えて少し寒く感じた頃、会社がある最寄り駅に近づくにつれ、さらに車内は混雑を増していった。

いったいこの東京のどこに、こんなにも多くの人がいるのか。まるで蜂の巣を切った時の断面を見ているかのように、電車の中は一駅ずつ停まるにつれ鮨詰め状態になっていった。

降りる駅に着いたら、コーヒーと食べ物を買って落ち着こう。

そんなことを人がいっぱいで空気が薄くなっているのではないかと思うほどの密度の中で、考えながら守が乗っている電車が駅に着くのを車内の中吊り広告を見ながら、ただただ待っていた。

ふと目を窓に向けると、車窓から見えるこの日の空は曇っていて、天気予報では一日曇と予報だったがおそらく雨が降るのだろうと思わせるような厚い雲が空に浮いていた。





「結衣!ちょっとこっち来て患者さんをレントゲン室に連れてって!」

前日の夜勤を担当していた先輩が、書き残していった結衣が担当する患者の症状や引き継ぐことなどが記されているパソコン上の電子カルテに隅々まで目を通し、必要なことを自分が愛用しているメモ帳に記録している時に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、少し驚きながら早歩きでパソコンの前を離れて声のする方向へ向かった。

都心にある大学病院に勤務して早二年経つ結衣は、今から約七年前の高校生の時に大きな病にかかり約半年学校を休み、治療のため病院に入院していた。

それまで風邪やインフルエンザにはかかったことはあったが、だいたいは自宅療養で回復して病院での入院生活を送ったことは無かった。

幼い頃から男の子と一緒にサッカーやドッジボールなどをする活発的な子供で、女の子がよく遊ぶままごとや人形遊びにはあまり興味がなく毎日泥だらけになって帰ってくるような子供時代を過ごしていた。

結衣がかかった大きな病というのはある日突然のことで、前日まで何も異常がなかった手足に、翌日になり痺れと激痛が走りその場に立っていることすら困難な状態であった。

担任の先生が救急車を呼び、学校から病院へ運ばれていき、病院に着く頃には両親も心配そうに駆けつけてくれて、すぐさまCTスキャンや脳波の検査などが始まり、結衣が気づいた時にはベッドの上にいた。

「もう少し遅かったら危なかったって」と目に涙を浮かべベッドサイドに座り結衣の右手をギュっと握りしめながら母親が教えてくれた。

結衣は一瞬、誰のことを言っているのかわからず、それとともに自分の身に起きたことを把握するのに時間がかかった。ベッドサイドで涙目の母親がギュッと結衣の右手を掴んでいることに気づいた。

入院した翌日から毎朝必ず看護師が結衣の所へ来ては採血を行い、担当らしき看護師は三〇代前半といった年齢で明るくて話好きな人で、採血の時も「高校ではどんなことが流行っているの?」「結衣ちゃんは彼氏とかいるの?」と話しかけてくれていた。そんな看護師に対し結衣はだんだんと心を開き、二日に一回しか来られない両親よりも会話の回数が増えていったり、内容の濃さも濃くなっていったり、と、確実に距離が短くなっていった。

そんなある日、病のせいからか急に高熱を出し夜には吐血から意識を失ってしまった。病院から両親に連絡が行き、すぐさま病院へ駆けつけてくれた。結衣の周りには主治医と看護師が二、三人集まり色々な処置を行っていた。

意識が朦朧とする中で、結衣はその看護師の姿を無意識に探す中で見つけるとなぜだか安心し、主治医と看護師が行った懸命な処置のおかげでなんとか命をとりとめた。

それから結衣が意識を取り戻したのは二日後のことだった。目を開けると天井が目に入り、ベッドサイドにあるモニターから定期的に出ている音が聞こえ、“生きている”ということに気づきベッドの上で涙を流していた。

ベッドサイドに母親の姿は無く、結衣は視界に入るものなどから自分以外の人はいるのかと探したが、看護師らしき人は見えずナースコールを押すことも考えたが、まだ体が自由に動かすことに気づき、孤独という暗闇に突き落とされた感覚に陥った。

ベッドサイドで誰かが動く気配を感じ結衣は目を開くと、結衣に気づいた看護師は「結衣ちゃん、目が覚めた?何かしてほしいことはある?」と言った。

それは毎日朝と夕方に採血してくれていた看護師の姿で、結衣は安心したことで突然涙が溢れ出てきて「私、生きているの?」と掠れた声で聞くと「すごく頑張っていたよ。先生とお母さんに連絡してくるから待っていてね」と言い残し病室から出ていった。

私、生きている…。

入院するまで当たり前だと思っていた日々が、入院生活の中で看護師や両親の持つ優しさに触れたことで、そして意識を一度失い紛れもなく“死“を感じた。

今まで当たり前と思って、元気に何不自由なく生活ができていたことに対し、結衣の中で“生きている”のではなく、たくさんの人に支えられて“生かされている”のだと一人ベッドの上で天井を見つめながら考えていた。

窓から見える空には、雲が少しかかり間から差す太陽の光がまるで結衣の命の線みたく神々しく一本の橋のように感じた。入院から半年が経ち結衣の病も完治したおかげで退院ができた。

病室では結衣と母親が主治医から今回の入院中に行った治療や、これからの日常生活の中で気をつけることの説明を受けていた。

主治医の横には入院初日から目の前のことを手伝ってくれた看護師の姿があった。

看護師は特に言葉を発することはなく、カルテらしきものを主治医が見やすいように持ち、笑顔で結衣に向かって微笑んでいた。その姿が結衣には眩しいくらい輝いて見え、結衣は心の中で誓った。

“私もいつか、傷ついた人の支えになれる看護師を目指そう”と。

看護師になって初めての仕事場である結衣にとって、二年目の今はやっと仕事や先輩後輩、ドクターとの人間関係に自分なりに慣れてきたつもりだ。

もちろん人間関係で苦労することや気持ちが落ち込むこともあるが、入院している患者の笑顔を見る度に、あの日の自分がもらった優しさを今度は他の人に渡したいという気持ちがより強くなる。

「今から、足のレントゲンを撮りに行きますね。終わったらまた病室のベッドに戻りますからね」とありきたりだが、しっかり患者の顔を見て伝え、車椅子を押してレントゲン室の方へ向かった。

「結衣ちゃんはいつも明るいから入院していても楽しいよ!」と言われ、少し照れながら「早く退院しなきゃダメですよ。そのためにはしっかりご飯食べてくださいね」と返答する。

患者からは「太陽のような笑顔を持っている結衣ちゃん」と大人気であると共に、患者だけでなく先輩や同僚、後輩達からも「仕事も出来るしオシャレだし、何より患者さんから好かれて結衣ちゃんは看護師が天職なんだね」と言われていた。

そんな彼女にとっても、この仕事は楽しいだけではなく、三交代制のシフトが組まれている彼女にとっては夜勤からの夕方出が一番身体にダメージを及ぼす。

夜勤を九時に終え、そこから電車で三十分かけて実家へ戻る。唯一救いなのは実家暮らしで帰ったら食事が用意されているという実家ならではの“特別待遇”だ。

当然それに対して、結衣は母親に対し心から感謝していた。

そしてまた夕方五時には病院へ戻るというシフトが週に最低三回ある。

それでも結衣は、この仕事を誇りに思っている。

前日も夜勤だった結衣は、この日は夕方五時までには出勤すればよかったこともあり、スマホのアラームをセットせずに寝ていた。

一階から聞こえる掃除機とテレビから流れてくる音に起こされ、夜勤の疲れが残っていた結衣はもう少し寝たいという気持ちと、夕方からの仕事の前に少しショッピングをしたいという感情の間の中、布団の上でボーッと窓から見える景色を眺めていた。

喉が乾き、パジャマのまま母親がいる一階へ自分の部屋から降りて行った。

「やっと起きたの?最近忙しいの?ご飯が冷蔵庫に入っているから食べて」と母親が掃除機を動かしながら独り言のように発した。

結衣は「はぁい」とあくび混じりの返事を返し、コップを片手に冷蔵庫の扉を開け中から水を取りコップに入れた。

冷蔵庫の中にあった、母親が食べたであろうサラダとソーセージと卵焼き残りを出し、炊飯器にこれまた残っていた米を茶碗に入れダイニングテーブルへ。

サラダ、ソーセージ、卵焼き、お米の入った茶碗をテーブルに並べ、その横に自分のスマホを置きながら「いただきます」と独り言のように言いスマホで友達から来たLINEの返事をしたり、SNSで自分の好きなファッションブランドの情報をチェックしたりしながら食事をしていた。

情報をチェックする、といってもほとんど頭の中には情報を入れずに、スマホの画面に映る写真や自分が気になるワードにしか目が行かないという具合だ。

スマホに表示されている時計を見ると、午後一時半。

ショッピングに行こうと思っていた結衣だったが、連日の仕事で疲れているのと、シャワーを浴びて仕事に行く準備しなければと頭の中でスケジュールを計算して、やむなくショッピングは諦めた。

服を着て、鏡の前で髪の毛やメイクセットで外出用の結衣を自分で作っていき、看護師という職業柄あまり派手な髪型はできないがそれでも彼女なりの目一杯のオシャレをしていく。

家を出て、最寄りの駅である荻窪駅から電車に乗り病院がある駅に向かう。

病院がある最寄りの駅までは吉祥寺から約五駅。時間でいうと二〇分くらいだ。

降りる駅までの間、スマホに入っている音楽を聴きながら医療に関する本をいつも持ち歩いているので、その日もカバンから出し読書をしていた。

ふと電車の窓から見える外の風景に目を向けると、ビルの間からほんのわずかしか見えないが青い空が見えた。

東京の空ってこんなに青かったっけ…。

そんなことを考えながらまた膝の上に開いてある本に目を落とした。

電車は何事もなく仕事場の最寄りの駅に近づいていた。





「守!ちゃんと会議室押さえてあるか?!」

怒っているようにも感じとられる言葉で一年先輩の上司から、守は確認の返事をしようとしていた。

社内で、その日使われる会議室には代表者の名前と使用時間が書かれているホワイトボードが、誰の目にも入る大きさで扉の内側に掛かっている。

守は自分が座っている椅子をホワイトボードの方に座ったまま向けて、この後使う会議室に自分の名前を書いたが目で確認し、椅子から立ち上がり自分の席から左斜め前にいる上司に向かい「先ほどしっかりホワイトボードに記入しました」と言うと、「そっか」と上司からの言葉が返ってきた。

そしてまた椅子に座って、やりかけていた仕事を再開した。

ありがとうの一言もなく「そっか」だけでやりとりが終わった。いくら仕事とはいえ上司と部下の関係であっても、ありがとうの一言がほしいと大抵の人は思うが、守はなるべく人と会話をしたくないのでこの簡単な言葉のキャッチボールがちょうどいいと感じていた。

九月中に仕上げなければならない仕事が五つ程あり、それ以外にも自分で作った案を上司や同僚に月一回見せるということが残されていた。ふとパソコンの横のカレンダーを見ると、この日は九月十五日だった。

普段あまり焦らない守だったが、自分の抱えている仕事の量と残り日数があまり無いという“卑劣な現実”から焦りを超えてどこか遠い国や島に行きたい、という非現実的な妄想ともとれる空想を頭の中で抱いていた。

少し休憩しようと思い、守は自分のデスクから同僚と会話をしようともせず、むしろ自分の存在をなるべく分からないように席を離れ、会社があるビルの横にあるスタバへ行った。

レジ前で「テイクアウトで」という一言といつも飲んでいる種類のコーヒーをオーダーし、コーヒーが手元に来るまで他の客の邪魔にならないように“受け取り口”より少し離れた所に移動して、これまたスマホの画面には、“人はどこから来て、何のために生き、そしてなぜ死という終わり方があるのか”ということについて書かれた記事を読んでいた。

そこに“人はどこから来て、何のために生き、そしてなぜ死という終わり方があるのか”に対する答えなど書いていないのは明らかだった。

守は、生と死に対する真理に気がついたらもの凄く興味が湧いていた。

答えを求めているのでは無く、時間さえあれば生と死に対する真理について考えることを意識的に行い、何かに追われるような感覚で思考を動かしていた。

そのため、食事を摂っていても味わって食べず、ただ単純に空腹を満たすために体内に食べ物を運んでいると、無意識の動作を繰り返していた。美味しいとか、不味いとかという感覚はゼロに等しかった。

その時もまたスマホの記事を読みながら、頭の中で平凡な生活をしている自分はなんで生きているのだろうと考え始めていた。

こうなるともう守の耳に周囲にいる人の話声や、車のエンジン音や信号機が変わる時になる音などは一切入って来なくなり自分の世界に飛び込んでしまうのである。

テレビやスマホなどが取り上げる事件や事故、芸能人のスキャンダルといったニュースは本当に自分と同じ世界で起こっていることなのだろうか。本当は今のこの瞬間さえ現実ではなく、もう一人の自分が見ている夢ではないかと。もう一人の自分が本来は、本当の自分ではないか、この考えを他人が聞いたら守のことを軽蔑する要因になるかもしれないと、自分でも薄々わかっていた。

「お待たせしました。ドリップコーヒーです!!」

スタバの店員の甲高い声で守がオーダーしていたコーヒーが出来上がったことを知り、スマホをズボンのポケットに入れコーヒーを受け取りに歩き出した。

「どうも」と小さい声で言い、店を後にした。

会社にある自分のデスクにコーヒーとスマホを置き、パソコンから伸びているケーブルをスマホに繋げ充電をし始める。

午後五時まであと一時間くらい。守はパソコンのメールチェックをして先輩から送られて来た、取引先の会社へ納品についてというメールを開くと、そこに書いてある文字を目で追った。

「来週の金曜までに取引先の会社へ、商品を百個納品するように」さらにその後には「綾瀬も納品日に取引先の会社に行って挨拶して来い」と記されていた。

守は、人と会って話すのはダルいと思いながらも仕事という建前で頭の中で気持ちを切り替え、「わかりました」という短い文のメールを送ってから、また自分の仕事に戻った。

一人で黙々とこなす仕事は得意だが、先ほどのメールの内容に書かれていた、人と直接関わってこなす仕事は、守には不向きで彼もあまり好きではない。

守はメールの内容の予定を忘れないようにスマホのカレンダーに記入しながら、ふとその前日に抱えている予定を見ると、そこには母親の誕生日と記されていた。

あっ、そういえば誕生日だったと思い出しながら、この前弟からきたLINEの内容が初めてここではっきりと理解できた。母親の誕生日は日曜日なので、前日の夕方にでも自分のアパートを出て電車で実家に向かえば間に合うだろうと考えていた。

午後五時になりこの日も残業はせず、自分のデスクの上を片付け帰路についた。

この日は金曜日ということもあり、いつも使っている電車は通常の二倍ほど混んでいて、守はあえて一本電車を見過ごし次に来る車両に乗ることにした。

スマホの時刻を見ると五時四〇分。いつもであれば、電車の中で自分が降りる駅に着く間、守が好きな読書ができる時間であるのだが、今は駅のホームで電車が来るのを帰宅ラッシュの人混みに押しつぶされそうになりながらも、それに負ないように足に力を入れて立って待っていた。

ふと空を見上げると、オレンジ色に染まった空になっていることに気がつく。小学校の頃から友達とサッカーや野球をして遊ぶことよりも、一人で学校の側の河川敷に座り自分が好きな本の世界に入り混みながら、たまに空を見上げることがとても好きだった。

空を見ていると、まるで自分の考えや存在が誰からも否定されないし強制されない感覚に落ち入る。

そんなことを小学生の頃から考えたり、感じたりしている時が守にとっては、すごく有意義な時間であるとともに後の彼の思考を形成した時間だったのかもしれない。

守の小中学は、ほとんど友達と遊ぶことはなく、また友達に対して関心がなかった。

そんな彼の中でも親友と呼べる人はいたのだ。

そいつとは小学校から中学二年まで毎日一緒に学校へ通い同じ時間を過ごした。二人の中で言葉はあまり多くは交わすことはなかった。

それでもお互いが言いたいことは理解しているつもりだった。他の友達と違って一緒にいても気を使わず、まるで自分にとって一部のような、大げさに言えば自分以上に自分のことを理解しようとくれている存在であった。

特にこれといった印象的な思い出はないのだが、一緒にいた時間が全て守にとっても親友にとっても一番の思い出になっている。親友との別れは守の人生にとってすごく辛く嫌な思い出になってしまった。

中学三年になる年の二月のこと。守は毎日のルーティーンとなっている中学校への道を一人歩いていた。いつもであれば途中から親友と合流し二人で一緒に歩きながら中学校へ向かう。

だが、この日はいつも合流している場所を通り過ぎても親友と一緒にならず守は黙々と一人歩いていた。きっと後から来るのだろう。と心で思いながら空を見上げながら歩いていた。

中学校に着いても親友と一緒になることはなく、一時間目の授業が始まっても親友の姿はなかった。

昼休みになり、同じクラスメートがそれぞれ仲のいい人同士で話しながら家から持ってきた弁当を開き食べ始めていた。

いつもであれば守は親友とともに学校の屋上へ上がりそこで弁当を食べていたのが、昼休みになっても親友の姿はなかった。

ガラガラと音とともに教室の扉が開き少し青白い顔の先生が教室へ入ってきた。

先生から出た言葉を聞き、守は一気に全身の血の気が引いていった。言葉の意味を理解するのに時間は必要なかった。その日の前日に守と別れた親友は自分の家の前の交差点を曲がってきた車からお年寄りを守ろうとした時に、信号無視した車に跳ねられた。救急車で病院へ運ばれたが今朝になり意識を取り戻すことはなかった。

守にとって、死というものを初めて身近で感じることとなった。

他人と話すことに対しさらに無関心だった守はそれ以来、ますます読書をしたり、一人で映画を観たりすることで一人の世界にいる時間が多くなった。

守は空を見上げていると親友と会話している感覚になるので、とても大事にしている。

駅のホームに音を鳴らしながら電車が入ってきた。

いつも乗る時間よりも一本後の電車の中はこんなに混んでいるのかと思いながら、つり革になんとか手を引っ掛けることができた。

電車の揺れに応じて、守の身体に他の人の身体や持っているカバンなどがぶつかりながらも気にせず、何となく中吊り広告に目を向けて頭の中では、帰ってからの夕飯のことや何の本を読もうかということを考えていた。

給料の大半を守は趣味の読書に当てていて、新品のものから古本と本の状態には特にこだわりはなく、とにかく読書ができて自分の世界に入れるのであればいいのである。

本のジャンルは様々なもので、哲学や人生観といったもので、人はどこから生まれてきて何の目的に生活をし、最後は死を迎えるのか、という答えが出ない考えを本に対し無意識に求めているのであろう。

守の考えを理解し同じテンションで話してくれる相手などほとんど、いや、この世界にいるのであろうか。そのことを守もどこかで理解していた。だからあまり自分の考えを表に出すことはしない。

アパートに着き、スーツから部屋着のジャージに着替えて、すぐさま本とスマホを机に並べた。

この部屋では誰にも邪魔されることはないので読書し放題である。まさに守にとって天国と言える環境である。

仕事がある時は十二時前に寝るようにしているが、翌日は土曜日で仕事が休みであるとともに誰かと会ったり、会社でやり残した仕事を終わらせなければいけなかったり、といった予定がなかった。なので、いつもであれば一缶で止めておく缶チューハイをこの日は二缶買い、それを飲みながら大いに読書できる時間であった。この日はテレビではなくスマホのユーチューブからジャズのチャンネルを選択しBGMとして流しながら本を読んでいた。





さっきまで飲んでいたアルコールが徐々に冷めてきたので、台所のやかんでお湯を沸かしインスタントコーヒーを作り始めた。

やかんからピューっという高音が静かな部屋に鳴り響き静寂を打ち消した。守は慌ててガスコンロの火を止めてやかんからマグカップにお湯を注いだ。

気がつくとコーヒーが入ったコップに手をかけたまま、机に顔を置き寝てしまっていたようだ。

スマホを見ると時刻は昼の十二時を過ぎていた。特に予定がないのだが昼までは寝てしまったことに対し、時間が戻ってこないという気持ちから少し後悔の感情が芽生えていた。

守は昨晩食べたおつまみとコーヒーが入ったマグカップを洗いに台所へ向かおうと立ち上がろうとした。

少なくとも二十八年間生活をおくる中で、数え切れないくらい毎日のように立ち上がるという動作をしていて、自分の足にどのくらい力を入れたら立ち上がれるかは頭で考えなくても体が覚えているので自然にできる。

だが、机から立ち上がろうとしても足に力が入らない。力を入れる以前に目で見えているのに足の感覚が感じられないことに気づく。同じ姿勢でいたのだからきっと足が痺れているのだろう。

少し時間が経てば、きっと足の感覚が戻ってくると心の中で自分に言い聞かせた。

一分、二分と時間だけが無情に過ぎていく。守は少しずつ焦り始めた。

自分の身体なのに思い通りに動かないことを目の前にし、一気に恐怖心で心の中がいっぱいになった。現実を受け入れられないことから何をどうしたらいいのかとパニックに陥った。当然こんな体験は初めてだ。

手は自由に動くことが分かると、慌ててコップからスマホに持ち替え実家へ電話をした。

「母ちゃん!足が動かなくて立てないんだ!!」と部屋いっぱいの声で守が電話に向かい叫んだ。

電話の向こうの母親は「何、土曜日の昼間から変な冗談言って。そんなことより今度いつ…」と母親の言葉を遮るように「冗談じゃなくて寝て起きたら足が動かないんだよ!いいから早くこっちに来てくれ!!」と怒鳴るように言い放った。

電話から聞こえてくる守の声色で、最初は冗談を言っていると思っていた母親だったが、普段怒鳴るような子ではない守の様子からだんだんとただ事ではないことが守の身に起きていると考えた母親は、「今からそっちにいくけど、他に助けてもらえる人はいないの?」と聞いた。

その時、守は会社の同僚の中で自分のことを気にかけてくれている人がどのくらいいるのか、そもそも携帯番号やラインなどの連絡先交換をして仕事以外で遊びに行ったり、連絡を取り合ったり、したことが無い。僕は本当に独りだという孤独感に覆われた。

母親からの問いに言葉を詰まらせていると「多分、二時間くらいかかっちゃうけど今からそっちに向かうから!あんたは救急車呼んで病院に行きなさい!!」と強い口調で言われた。守はアパートから近くの大学病院にしようと思い母親に病院の名前を伝えた。

救急車が来るまでの間、何度も足に力を入れ立とうとしてみたが、全く足に力が入らない。それ以前に足に感覚が戻ってくる気配が無く、“なんで僕がこんな目に合わなきゃいけないのだ”とやり場のない怒りを感じていた。

両手は自由に動いたので、手が届く範囲の携帯や財布などを自分の腹の上に置き救急隊が来るのを待った。

救急車が守のアパートに到着したのは一五分くらいだろうか。だが実際よりも一時間くらい経ったように感じた。

救急車が到着して、救急隊が守の部屋の扉を開けようとしたが鍵が掛かっており、「扉が開かないので強制的に入ってもいいですか?」という問いかけに対し「お願いします!」と目一杯の声を守は張り上げた。扉の鍵をこじ開けようとする音がしたかと思えば、次の瞬間には扉が爆弾で吹っ飛ぶような勢いで部屋の内側に倒れた。

三人の救急隊員が担架を持ち部屋の中に入ってきた。「足以外に痛いところや違和感を感じるところはありますか?」とリーダーらしき救急隊員が守に聞き、「両足の感覚が無いくらいで、他には痛いところや違和感を感じることはないです」と答えた。

答えている最中も他の救急隊員が守の手に血圧を測る機械を取り付けたり、持ってきた担架に毛布を敷いたり、と手慣れた手つきで救急車に運ぶ準備をしていた。

守は初めて乗る救急車の中に驚きながら、車内の積まれている器具や頭の上にある運転席の方を見上げるとトランシーバーっぽい機械があり、目に入るものに驚きを隠せなかった。

救急隊員から「いつも通っている病院か、搬送してほしい病院はありますか?」と聞かれ、「近くの大学病院に」と伝え「あと母親に連絡してほしいので」と母親の携帯番号が表示されているスマホを救急隊員に手渡した。

救急車を運転する隊員。今向かっている大学病院の救急搬送先らしき人と電話で守の状況を伝える隊員。守の横で体温や脈などに異常がないか調べ、それをカルテらしきものに書く隊員。守に向かい「痛いところとか気分が悪くなったら言ってください」と優しい口調で言われ「あ、はい。母親には連絡つきましたか?」と尋ねると「ご家族の方も今こちらに向かっているそうです」と言われた。

大学病院までは道が混んでいなければ四〇分くらいで到着するのだが、救急車のサイレンのパワーで半分の時間の二〇分くらいで大学病院に到着した。救急車は病院にある、救急搬送先入り口の真横に停められ救急車の扉が開き、守が乗った担架が病院の中に運ばれた。

病院の中に入る前に担架から見えた空は雲で覆われ、今にも雨が降りそうな空模様だった。

担当している患者のカルテの整理や点滴の交換など、一日に決められている業務をこなしながら患者の治療に必要な器具などの準備や、いつ鳴るか分からないナースコールに備えてナースステーションで先輩の看護師達と喋ったりしていた。

一人の先輩が突然「この前、彼氏に誘われて食事に行ったんだけど、そこのお店の料理が高くて支払いを割り勘させられたんだよ。ありえなくない?」とグチのように結衣に同意を求めてきた。

「えぇ!行く前に店のこととか調べなかったんですかねぇ?」と聞き返した。

「普通、事前に調べるよね?デートだよ⁉︎大事な彼女との」とかなりその時の事が気に食わなかった模様で、普段患者や家族に対して話す口調とは真逆であり、白衣の天使などと言われるものからはかなりイメージダウンの会話の内容と話し方だった。

結衣は、こういう会話をするよりも患者と何気ない会話をしていた方が楽しいと思いながらも愛想良く聞いていた。もし客観的に判断する人がいるとするならば、結衣の考え方を持つ人の方が理想とする看護師の姿だと判断するであろう。

時刻は正午を過ぎていて、結衣を含めた看護師達は入院患者への昼食を持って行ったり、口から食事を食べられない患者に対しては点滴を使って体に栄養を届けているので、その点滴を交換したり、と食事の時間は一番忙しい時間である。

結衣が勤めている病院は大学病院ということもあり、子供からお年寄りまで入院しており、更にその患者の大半はお金持ちの家族の一人である。

そのため、時には理不尽な事で呼ばれたり、セクハラやパワハラだったりといった事は日常茶飯事といってもおかしくない

もちろん一つひとつのことに対し、心から「ありがとう」「いつもすまないね」と感謝の言葉を言ってもらえる場面もある。

そのたびに結衣はこちらから患者に対し、一日でも早く元気になってもらい笑顔を取り戻してもらおうと思い、より一層仕事や患者に対し真摯に、自分が出来ることをやろうとパワーをもらっている気がする。

正午から一時間の間で昼食を患者に済ませてもらい、終わった人から順番に食器が乗っかったプレートを片付けていった。

その後に看護師達は順番に三十分ほどの昼食と休憩を兼ねた時間を取り、ナースステーションでは最低一人の看護師が待機した状態で順番に昼食を取っていく。

病院内の売店で買う人もいるが、結衣は出来るだけ自分の家でおにぎりを握ってくるか、母親が残り物のおかずなどを弁当箱に詰めてくれるのでそれを食べている。

結衣には毎日必ず様子を見に行っている男の子がいた。その患者は自分の担当というわけでは無く、結衣がこの大学病院に努めた初日に搬送されてきたのである。名前は翔といい年齢は中学校二年生になる。翔は小学校六年の時に体育の授業でサッカーをしている最中にボールがグラウンドから出てしまい校舎の隅に転がって行ったのを取りに向かったところ、校舎の工事をしていたところ重いバールが地上四階から落ちてきた。

翔と母親は、その現実を目の当たりにし精神的ショックを隠せなかった。

それから約三年、母親の希望で臓器移植手術を行うために、世界から翔の身体に合った臓器を提供してくれるドナーを待っているのが未だに見つかってはいない。

翔が病院に運ばれたこと、ドナー提供を待っている事はすぐに同じ病院のフロアにいた結衣の耳にも入ってきた。まだ中学生で全く結衣には想像がつかなく、なんだか分からないがそれと共に、“私に出来る事がある!会話の相手でもいいから何かしたい!!”と心の底から結衣は思った。

その日から毎日、日勤の時は五分、一〇分でもいいから翔のところへ行き「今日の夕飯のメニューはね…」「何かやってほしいこととかある?」と簡単な会話から始め、最近では翔の方から「看護師さん、なんでこの仕事をしているの?」「仕事ばかりしていて絶対モテないよね」と中学生らしい少し失礼と捉えられるようなやりとりが交わされる様になった。そこまでの関係性になるまでにはここ半年ぐらいの事である。翔と初めて会って二年半ぐらいかけて作った関係性になる。

翔の母親も結衣に対してはとても好印象で、「わざわざ来てくれてありがとうございます」と言われるので、「私の方こそ翔くんと話せる事で色々な悩みが飛んだり、考えさせられる事が沢山あります」と正直に答え、そこに嘘偽りは一切ない。

日勤の時はこうして毎回のように、翔がいる病室に行き一〇分位会話を交わしてから、制服から私服に着替えて帰る。

そんなある日、自分が担当している病棟で仕事をしていると救急搬送の受け入れの電話が鳴った。

先輩の看護師が受話器を取り、搬送されてくる患者の容態などを電話から聞きながらメモを取っている。受話器を置き「今から両足が動かない男性が運ばれてくるから、手術室の準備とベッド準備して。あと誰か先生呼んできて!」と一気に緊張感が走った。

入院している患者たちは看護師の慌ただしい様子を見て、何事が起きたのだと思う人もいれば、また救急患者が運ばれてくるのかと入院歴によって見方が違うのだ。

大学病院ともあって救急搬送の依頼は少なくはなく、入院患者や病院に勤務している医者、看護師はそういった対応に慣れている。

当然ながら全ての救急搬送の対応に応じられるわけでは無く、搬送されてくる患者の状態や病院内のベッドの空き状況に応じて受け入れを拒否する場合もある。

結衣が勤務している大学病院の方針として、“患者の身分や金で受け入れを判断せず、搬送希望時の身体に必要な治療及び必要な手当てが当病院で可能かどうかで判断せよ”とある。

先ほど電話があった救急車が病院に到着した。結衣は救急の患者をすぐに対応できる立場では無いので、搬送されてきた患者の情報が耳に入ってくる程度で、いつもの業務に戻っていた。

救急車から担架に乗せられて出てきたのは、二〇代後半の男性。意識はしっかりしていて一緒に乗っていた救急隊員から「吉祥寺在住、昼ごろに起床したところ昨日まで動いていた両足が動かず感覚がない。意識ははっきりしており脈と血圧も安定しています」と看護師に患者の情報が伝えられた。

その間看護師はカルテらしきもの必要な情報を記入したり、また他の看護師は搬送されてきた男性に「ここは感覚ありますか?」と確認しながら足の部位を変えながら触れたり、少し強めに押したりしている。男性は「全く感じません」「そこもです」と看護師に対し丁寧に答えた。

「あの、僕の携帯と母親への連絡は?」と救急隊員に聞くと「あっ、今お母様がこちらに向かっているそうです。それとコレ、ご本人の携帯と保険証になります」と言いながら看護師に携帯電話と綾瀬守と明記されている保険証を渡した。「とりあえず一度、レントゲンやCTなどの精密検査を受けてもらいますので」と看護師は守に対し伝えた。守が乗った担架はレントゲン室へ入り看護師四人がかりで担架からレントゲンの台へと守の身体が移動された。

レントゲン室に一人残され、「それでは、二、三枚撮影します。すぐに終わります」と一人残された部屋に設置されているスピーカーから男性の声が聞こえてきたかと思うと、少し大きめのシャッター音が鳴り撮影が始まった。

五分程度でレントゲン室を出てすぐさまCTスキャンを撮るため部屋を移動。移動の間に看護師が「ご家族の方は遠くに住まわれていらっしゃいますか?」と守に聞いてきた。

「同じ東京なのですけど、母は車を使わないので電車で来ていると思います。すみません」と答えた。

そんなやりとりをしていると、ちょうど守が乗ったベッドがエレベーターの前で止まった時に人の視線を感じた。

守は頭を視線の方に向けると自分が乗っているベッドを押している看護師が立つ横から、八メートルくらい離れたところに車椅子に乗ったジャージ姿の男の子がこちらを見ているのに気づいた。

ここに来るまでの間にどれだけの人とすれ違い、色々な人からの視線を向けられたかわからない。が、今こっちを見ている男の子の視線は他の人と違い、まるで鏡に映ったこれからの自分を見ているように守は感じた。

時間にすると三〇秒くらいだった。が、守にとってはまるで三、四時間くらいに感じて、きっと何かしらの意味があると根拠のない思いが残った。

エレベーターが守のいる階に到着し扉が開くと、看護師に車椅子を押されエレベーターに乗り一階から三階に移動した。三階にエレベーターが到着し医者が待つ部屋へ車椅子を押され入って行った。

「ご家族の方はまだ到着されておりませんが、先に検査結果をお伝えしましょうか?」と医者が守に向かい聞いて来た。その言葉からはとても重みが感じられて、まるで余命宣告をするドラマのワンシーンのようだった。

とっさに「そんなに重い病気なんですか?」と守の口から言葉が出た。

守は母親を待っている時間が怖く、早く自分に起きている状況を知りたいと思った。と同時に、もう二度と自分の足で歩くことや走ることができない身体へ既になっているとどこかで感じていた。

「わかりました。結論から申しますと…」と言う言葉が医者から出た後、体感時間で五秒ほどして「原因はわかりませんが、脳から足に送られる神経がどこかで止まっていて、もう二度と御自分の意思で今までの生活をすることは不可能です」

やはり…、と思っていたことが自分の現実になった瞬間、守はこの世界から自分の存在が消されたような、そんな感覚に陥り身体が震え目から涙がこぼれ落ちいき、自分の手の甲に雫が落ちた。

憤りや憎しみ、悲しいとか虚しいとかこれまで様々な感情を味わってきた。が、自分が感じている気持ちを言葉で、第三者や自分に伝えることができないくらいの感情で鮮やかな色が世界から消えたような感覚になった。

「綾瀬さん、大丈夫ですか?」と医者の声がふいに耳に聞こえ、守は「あっ、はい」と覇気の無い言葉で返事を返すと、続けて「治療やリハビリをすれば元の状態に戻れるの…ですか?」と返ってくる答えはわかっているはずなのに、無意識のまま医者に聞いた。「先程も説明したように原因がわからない為、現段階でここの病院で行える治療やリハビリはありません。もしかしたら海外や国内の病院で専門の医者がいるのかもしれませんが、可能性としては低いものだと考えておいてください」と守にとっては、まるで雨雲に覆われていた空が一気に快晴になり虹が架かっているように感じられた。

急に守の医者がいる部屋の扉をノックする音が聞こえ、扉が開くとそこには二〇代の女性の看護師に連れられて来た守の母親が顔を青くして立っていた。

守は看護師の胸元に付いてあるネームプレートに書いてある“小田結衣”という名前を見て、顔に目を向けて軽く会釈するとその結衣という看護師も会釈を返した。

母親が「守!どうしたの!!何があったの!?」と物凄い勢いで言葉を発しながら守に近寄ってきた。「お母様ですか?今、息子さんには説明させてもらいました」と医者が言い、先程守に対し説明した内容を守の母親に伝えた。

「とりあえず、精密検査は終わったのですが少し経過を診たいので、できれば一ヶ月程入院となります」と医者が守と母親の顔を見ながら伝えた。

守は無言で頷きその横で「わかりました。よろしくお願いします」と母親が医者や結衣に向かい深々と頭を下げた。

ベッドのある部屋へ守が乗った車椅子を結衣が押しその横を守の母親が歩き移動し始めた。その間母親は何度も守に向かって「ごめん」と謝り続け、「母ちゃんに謝られても困るし」と本当は泣きたいにはこっちだよと内心思いながらも、母親の前では弱い所を見せたらいけないと思い、いつものように振る舞った。

結衣に車椅子を押されて病院の廊下を歩いていると、「その人が彼氏?」という声が聞こえてきた。

ふと守は声がする方に目を向けると、そこにはさっきエレベーターに乗る前に視線を感じた車椅子だった男の子だった。

「からかわないで!今仕事中だからまた夕方行くから」と守の車椅子を押しながら結衣はその男の子に向かい返事をした。

「今の子はここに入院しているんですか?」と結衣に向かい聞いた。「翔君といって今は中学二年生で数年前に学校でサッカーをしていた時に、学校の上にあったバールが落ちてきてしまい、運ばれてきたんです。今は臓器のドナーを待っていてずっと病院に入院しているんです。私の担当ではないですが、なるべく毎日顔を見に行っています」と少し嬉しそうに説明してくれた。

この人はすごく心が綺麗な人だ、と守は後ろから聞こえて来る結衣の声を聞きながら思った。

守が乗った車椅子は三階のナースステーションがある場所から三部屋離れた六人部屋に入って行った。

部屋を入ると手前から三つ目の右側の奥に、綺麗なシーツや枕カバーが準備されたベッドがあり、「ここが守さんのベッドになります」と車椅子のブレーキを止めながら結衣が教えてくれた。

「今、男性職員を連れてきてベッドに移りますので、ここで待っていて下さい」と言い残しナースステーションの方へ向かって行った。車椅子に乗った守は自分の両手で感覚がない両足を触れてみたり、指で抓ってみたりしてみたが全く感じることはなかった。

力一杯自分の足を叩いてみようかと考えたが、母親が側にいたり、他の入院患者がいたりしたので、ここで自分の感情を顕にすると母親が心配するのと他の人に迷惑がかかると思い、自分の中にある感情を抑えた。

「お母さん、入院手続きをしてもらいますのでナースステーションの方に来て下さい」と結衣が男性看護師を三人連れて来ながら母親に言葉を放った。「じゃあ、守さんはベッドに移ってもらいますので、男性職員が抱えてベッドに移動しますね」と言い残し母親を連れ結衣はナースステーションの方へ向かって行った。

取り残された守は男性職員に抱えられベッドに車椅子から移った。ついさっきまで一人で出来ていた何気ないことが、今となっては他人の力がなければベッドへも移動出来ないのだということに対し、真っ暗な部屋に閉じ込められたかのような恐怖と孤独が入り混じった感情になった。

「クッションとか使いますか?」と男性職員に聞かれ、要らないという返事をすると頭の下に枕を入れられ身体の上からタオルケットをかけられた。ナースコールの場所を教えられ何かあったら押すようにと伝えられ、男性職員は守のベッドから去って行った。

生きていく意味はあるのか。他人や両親に迷惑を翔ならここでいっそうのこと…。

などと考えたが、自分がいるところは病院だ。周りには他の入院患者やその家族らしき人が見舞いに来ている。

こんな人の目がいっぱいなところで、医療技術をもった医者や看護師がいる中で簡単に死を選択し、実行できる確率はほぼ皆無である。

ふと、さっき結衣から聞いた翔という男の子のことを思い出した。自分よりも遥かに年下で中学生活がこれからだという時に臓器移植か。守は自分が置かれている状況を少しだけ忘れ、自分が置かれている状況よりも遥かに不幸である翔のことを考えていると少し気分が楽だった。

あまり他人と自分を比較することは無い守だが、今まで風邪以外で病院に来たことがなくましてや病室のベッドに寝た経験がない彼にとって今の状況は非常に苦痛なものであった。

気がつくと目からこぼれ落ち、涙が守の頬を伝ってベッドのシーツに落ちていた

自分の右手で目を覆い周りの人に分からぬように一人シクシクと悲しい感情を抑えようと必死だった。

ベッドサイドの窓から見える空を見ると、時間は午後五時を過ぎているとのこともあり、まだ夏独特の青い空でその中にどこか秋を感じさせるような雲が浮いていた。季節は夏を終えて木に咲く葉の色が変わり秋を迎えようとしていた。

入院してから一週間が経った。

一日中ベッドの上で過ごす守にとって、いつ退院できるか分からない入院生活の中で三食の食事の時間は唯一の楽しみであった。

入院してからは、ベッドサイドにテレビはあるものの、普段からあまり意識して見ることのない守にとっては、滅多に点けることがなく窓から見える空を眺めながら、母親に頼んでアパートから持ってきてもらった本を読むことの方が多かった。

守が入院している部屋には彼を含めて六人の男性が入院しており、年齢はバラバラだが彼が一番年下であることだけははっきりしていた。

アパートから救急車で病院へ運ばれ、衣類など入院生活で必要なものを持って来てもらったり、買ってもらったりした時に母親が駆けつけてからは、会社の同僚・上司を含めて誰一人守の元へは訪れていない。

膝の上に置かれた本に目線を落としながら、そこに書かれている文字を目で追い内容を理解すること無く、ただただ文字を見ながら、時々窓の方に顔を向けそこから見える空を見ていた。

つい一週間前まであの空の下でアパートから会社へ行き、その道中でコーヒーを買っていた何気ない日々が今となっては、ものすごくどこか奇跡が連続していたかのように感じた。

なぜ、何も悪いことをしていない僕がこんなベッドの上で寝ているんだ!と当てようのない感情が出ては消えの繰り返し続いた。

本の中に出てくる登場人物や、普段の生活で外を歩いていてすれ違ったり、する中で出会う車椅子に乗った人、“ショウガイシャ”。

自分がそっち側の立場になるとは全く考えたことはなかった。

車椅子に乗っている人とエレベーターで一緒になれば、乗り降りする際にドアを開けたり、電車で困っていそうな様子を見たら時々声をかけたり、手伝うなど、決して優しい人の類の中心にはいない方だと自分でも自覚していた。

“自分がそっち側の人生をこれから送ることになるなんて!?”

毎日会社へ行き、文句ひとつ言わず仕事をしてきて誰にも迷惑をかけていないのに…。

膝の上に置かれた本にポロポロと水滴が垂れては少しずつ滲んでいった。

病室の窓から見える空がさっきまで晴れていたが、だんだんと激しさを増していきながら雨が降り続けていた。





病院の中には、入院患者とその人の所へ見舞いに来た家族や友人などが、憩いの場として使われるベンチがある。

翔が乗った車椅子を押しながら、いつものように笑顔を浮かべている結衣の姿があった。

思春期真只中の翔にとって看護師とはいえ、女性に車椅子を押してもらうことが、自分の家族や友達がそこにいない状況とはいえものすごく恥ずかしくあり、嫌でもあり、複雑な気持ちであった。

そんな翔の思いを知ることなく、一方的に「私、この前渋谷のカフェに行った時に飲んだコーヒーが美味しくて、ついお店にあったドリップコーヒーを買っちゃったんだよね!今度他の人には内緒で、ご飯と一緒に持ってくね」と右手で翔の肩にポンと軽く手を置き、また車椅子の押し手へと右手を戻した。

「別に…」と小さく結衣の耳に聞こえるか聞こえないかの声の大きさでつぶやき、自分が着ているサッカーの日本代表のシャツの裾を伸ばしたり、縮めたり、していた。

「サッカーの試合、見に行きたいな。サッカーをしたいな」と翔は独り言のように言った。

少しいつもと違う声のトーンで「翔くんはサッカー好きなんだね。きっとまた試合を見に行ったり、友達とプレイができるよ…」と、歯切れが悪い口調だった。

また友達とプレイができる。

それが叶わない可能性が高いことを翔が一番理解していて、一番悔しい気持ちでいっぱいだった。

かれこれ三年くらい臓器提供者を待っているが、未だに何の明るい情報や希望があるのかさえ分からない。

臓器提供者が現れて見つかったとしても、翔の臓器と一致するものなのか。手術が成功する確率は百パーセントではないと主治医から言われている。

この広い空の下で自分と同じような臓器を持った人がいることは、宇宙から東京に向かってダーツの矢を投げて命中するくらい数学的には低い可能性である。きっとこの空の下のどこかに必ずいることは明確であり、可能性がゼロではない。

結衣と翔の間に何ともいえない空気が流れた。

次に何を発したら良いのか。何の話題でこの空気を変えたら良いのかと、二人が各々の頭の中で焦りと共に考えていた。

「なんでいつもそんなに笑顔でいられるんだよ」と少し嫌味ったらしく翔が結衣に聞いてきた。

結衣はそれまでゆっくりと歩いていた足を止めると、翔と同じ目線になるように膝を曲げて屈むような姿勢をとった。

目線を空の方に向け、翔以外の人に聞こえないぐらいの声で話し始めた。

「私が小学校の頃に怪我をした時に診てもらった病院の先生がとても優しかったの。今では医療技術や難しい言葉を勉強したから分かるけれど、小さい頃って分からないじゃない?でも、その時の先生がずっと笑顔で接してくれていて、すごく嬉しかったの。だから私も医療技術は高くないけれど、せめて笑顔で痛みや辛さを少しでも和らげる存在になりたいなぁと思って」

結衣はそう言うとまた翔が乗っている車椅子を押しながら前へ歩き始めた。

翔はそんなキラキラと輝いた言葉が帰ってくるとは思わず、嫌味ったらしく聞いてしまった自分を少し反省しながらも恥ずかしく思えた。

いつも一人で病室のベッドの上で一日の大半を、漫画を読んだりテレビを観たりして時間を過ごしている翔にとって、家族を含めて人と会話を交わす時間はほとんど無かった。一日三食の食事を持ってきてもらったり、健康管理のために検温や血圧を計りに訪れる結衣を除いた看護師との会話はほとんど無い。

いつになったら臓器提供者が現れ今の生活から抜け出して、同級生と同じように毎日学校へ行き好きなサッカーを含めて、自由に身体を動かせる日が来るのか。

またはずっとこのままベッドの上での生活を送らなければいけないのかとまだ中学生の彼にとっては、すごく大きな闇の中にいるような感覚である。

約三十分くらいだろうか、翔が乗った車椅子を結衣が押しながら散歩していると、先ほどまで雲一つなく青空が見えていたのに、空からポツポツと水滴が落ちて徐々に地面に生えている芝生や舗装された道やベンチ椅子がその水滴により濡れ始めてきた。

それはまるで、翔と結衣の間にあるお互いが相手のことを気遣った結果で起きてしまったすれ違う気持ちを表しているようだった。

「さっきまで良い天気だったのに」誰が言ったかはわからないが、そういった声が次から次へと飛び交って、患者やその家族は自分のベッドがある部屋へと戻っていった。結衣も翔へ部屋に戻ろうと声をかけ、翔のベッドがある部屋へと戻っていった。

車椅子からベッドへ移るには結衣一人の力では危険が伴うので、部屋へ戻る道中に男性スタッフにサポートしてもらうよう声をかけ、結衣と男性スタッフの二人で車椅子に乗った翔をベッドへと移動させた。

先ほどの雨で濡れてしまった洋服を着替えるため、結衣は男性スタッフに声を掛けて翔が乗っていた車椅子を押しながら部屋から出ていった。

翔は自分の意思で動かせる範囲で着ていた洋服を脱ぎ出し、男性スタッフへ向けて「タンス。上から三番目」と言ったように人へお願いするには適していない話し方で新しい洋服へと着替えた。

入院患者が使う車椅子を置いておくスペースへ、先ほどまで翔が乗っていた車椅子を戻した。

急に降ってきた雨で濡れてしまった結衣は一度スッタッフ専用の休憩室で大きなタオルを使い濡れた箇所を拭き、自分のカバンに入れていたペットボトルの飲み物を少し飲みながら、さっき中庭で見せた翔の半分自分の人生をどこかで諦めていて微かな希望があると信じているかのような目を思い出していた。

“もう少し違った話をすればよかったのかな“

自分が相手のことを思い、これまで体験したことを元に少しでも元気になってもらいたいという考えが、時には相手を苦しめて追い詰めることにつながってしまう。

看護師として、人として、あの話しをしたことは、本当は自分に対して鼓舞の意味で話してしまっていたのではと、手に持つペットボトルのラベルに書かれた文字に目を傾けながら、結衣は心の中でそう思った。

「お疲れ様です」と笑顔で後から入ってきた看護師に対し結衣は笑顔で挨拶をすると、「何か悩み事?いつも明るいのにさっきまでペットボトルを眺めていたからびっくりしたよ」とその看護師から言われ、とっさに「あぁ、大丈夫です」と結衣は返事をした。

大丈夫…。

その言葉を言った瞬間から、結衣は大丈夫では無いことを自覚していた。ただ、いつも元気で笑顔が絶えないというイメージを壊したく無いという思いが上回っていて、目の前の看護師に少しでも弱音を履いたら徐々に広がっていき翔をはじめ担当している入院患者に不安の気持ちを与えてしまうことがすごく彼女にとって怖く感じた。

自分が小学生の頃と、今の翔が置かれている状況は比べように無いほど全く別次元のものである。

同年代の友人は一般企業でデスクワークを行ったり、自宅で子育てをしているのでなかなか結衣が休みの日と予定と合わせるのが難しく、大体は自宅で録画してあるテレビ番組を観たり、スマホで買う予定もない洋服を見たりして、その合間に仕事に必要な知識を勉強するため本を読んだりと、気がつくと時間が過ぎていく。

今日も帰ってから特にやることはないので、きっとそういった時間の使い方をするに違いない。

ナースステーションから見える空は、先ほど前とは打って変わって雨が止み雲の合間から神々しい光のカーテンが見えていた。

入院患者が食べる食事の時間は朝、六時半・昼、十二時・夜、十八時と決められていて、当然その合間に患者の健康状態によって水分を多めに飲んだり、カロリーが多いものを食べたりするように主治医からの指示によって、昼と夜の間にヨーグルトやプリンなどや点滴が患者の健康状態によって看護師の手により対応が変わってくる。

翔には特に食事に関する特別な指示は主治医からは出ていないので、朝昼夜の三食以外に頼んでもいないのに関わらず、たまに結衣が持ってくるお菓子を食べる時がある。

翔の母親は自宅が病院から遠いということもあり、あまり病室を訪れることは無い。そのため食事の時もほとんど一人でベッドの上で済まし、テレビから流れてくる音をBGM代わりにして一人で黙々と食べている。

決して美味しいといえたものではない。

翔は特に好き嫌いがないので、食事に対して一度も不服だと感じたことはない。

この日もテレビのスイッチを入れては、そこに映っているバラエティ番組の中で子供のように騒いでいるタレントや司会者の声に耳を半分傾けて、頭の中で今日の昼間の結衣の話を思い出していた。

三年前のある朝、今まで感じたことが無い、とてつもない激痛が腰から下にかけてはしり、大声で叫び下の階の台所にいた母親の耳まで聞こえてきた。すぐさま翔の部屋の扉を物凄い勢いで開き、「どうしたの?!」と聞いてきた。

翔も自分の身に何が起こったのか分からなく、「痛い!!足と腰が!?」という言葉を何回も繰り返した。

気がつくと救急車の中に運ばれ、両手に訳のわからない機械と口には酸素が送られてくるであろう、マスクが付けられていた。

救急車でこれから病院へ行くという安心感からか、翔はまた眠りに入っていった。彼を乗せた救急車は約二十分かけて大学病院へ到着し、救急隊員から連絡を受けて患者の受入準備を終えて救急搬送車専用の入り口で看護師と医者がスタンバイしていた。

「血圧・心拍ともに異常ありません。腰から足にかけての痛みあり」「とりあえずレントゲンとCTとMRIを撮るから準備して!」といったやりとりが遠くの方で聞こえた。

翔は自分が置かれている状況を理解する暇もなく、次から次へと看護師が入れ代わり翔の元へ来ては「大丈夫ですか?!何か身体に変化があったら言ってください!!」と明らかにそんなに大きな声を出さなくても聞こえるのにも関わらず、大きな声で翔に問いかけては去っていった。

救急車で病院へ運ばれてから、だいたい一時間くらい経っただろうか。あらゆる検査が一通り終わり主治医らしき白衣を着た四十代くらいの男性が、お母さんをここに呼ぶように看護師へお願いをして、「今から診断結果をお伝えするので、ご家族の方と一緒に聞いてもらいますね」とすごく優しい口調で翔に対し言葉をかけた。

看護師に連れられて待合室にいた翔の母親が診察室へと入ってきた。ベッドに横たわる翔の横に看護師から渡された丸い椅子に座り翔の右手をそっと握りながら「先生、どんな症状なんですか?」とすごく小さく不安に満ちた声で尋ねた。

先ほど撮影したレントゲン・CT・MRIの結果を見せながらなるべく分かりやすい言葉を選び説明の準備をし始めた。

「今のままでは翔くんは歩けなくなってしまい、臓器提供者を募集してドナーとなる方から臓器をいただいて替える必要があります」とシンプルに説明した。

“ゾウキテイキョウ?”

テレビドラマの中からそういった単語を聞いたことは何回かあったが、それを説明してみろと言われた時に翔がしっかりと他の人に対し説明できる自信はないほど、自分の中での情報や知識が浅かった。

目の前では主治医がいろいろな情報が書かれた資料を元に、翔とその横に座って顔をハンカチで覆い涙を流している母親に向かって、病状のことからこれからの治療方法などについて言葉を選びながらゆっくりと丁寧に説明していた。

診察室にある時計の針だけが殺伐とした空気の中で鳴り響いていた。

学校にいる友達との生活のこと。毎日欠かさず練習しているサッカーのこと。そして何よりもこれから先どうなっていってしまうのか等。

いろいろなことが翔の頭の中に蠢いていた。ただ一つはっきりとしていたのは、とても大きなものと一緒にこれからの生活を送らなければいけないということだ。

横を見ると、看護師に肩をさすられて涙で濡れているハンカチを持っている母親の姿が目に映り、何か言葉をかけなきゃいけないことは理解していたが、今の状況にふさわしい言葉が翔には思いつかず、ただただ黙っていることしかできなかった。

診察室の扉が開き、「先生、ベッドの準備ができました」四十代くらいの看護師がとてもハキハキした声で診察室に入ってきた。「後のことは、お母さまにご説明しますので翔くんは病室へ移ってもらいます」と主治医がいうと、看護師が翔に声をかけて入院患者用のベッドへ四人がかりで身体を移し、病院の廊下を移動しその先にある個室へとベッドのまま入っていった。

約一時間前まで自分の部屋にあるベッドの上に寝ていたのが、まるで遥か彼方のことのように思えて、気がついたら寝てしまっていた。

そこからさまざまな検査を重ねていき、翔の身体に合った臓器の型や血液などの情報を調べていった。全国の大きな病院などを始め臓器提供者に立候補している人の元へ、翔が入院している病院や主治医が積極的に動いてくれた。だが、なかなか翔の身体に合った臓器提供者が現れることなく、春夏秋冬が三度過ぎていった。

そんなある日、他の看護師とは違う明るく笑顔で挨拶をしてこちらが何も聞いていないにも関わらず、天気のことや自分が食べた食事のことについて積極的に話してくる看護師がいた。

それが初めて翔の前に現れた、結衣の姿だった。それから今まで翔のことを担当していた看護師が替わり、結衣が翔の担当になった。

思春期で人見知りがある翔は、自分から結衣に対し話しかけることなく、打っている点滴が終わりそうになったら知らせたり、トイレにいく時には男性スタッフを呼んでもらったりと、最低限行ってほしいことだけ伝えるという日々が続いた。

右手にお箸を持ち目の前にある食事を眺めながら、自分がここへ入院してきた時のことを思い出していた。

“いつになったら、前の生活に戻れるんだ!”

気がつくと目の前にあったお皿が乗ったトレイを床へと払い除け、ガッシャン!!という大きな音を立てて、さっきまでお皿に乗っていた豚の生姜焼きや味噌汁などが床へと散らばっていた。

右手にはフォークを持ち今にでも自分の腹に目掛けて突き刺す体勢で目は血走って鋭く濁っていた。

「どうしたの!?」と看護師が驚きながら部屋の中に入ってくるなり、もうすぐでフォークで自分の腹を刺す体勢の翔が目に入り「何やっているの!?」と言いながら翔が持っているフォークに近づこうとした。

「それ以上こっちへ来るな!どうせ、もうこのまま誰も俺のことを助けてくれないんだ!!だったらここで死ぬ!!」

翔がいる病室から廊下、ナースセンターを通り抜けて守の耳までその声は響いていた。

夕勤の看護師へと患者の健康状態などをパソコンの画面に映った内容と自分の言葉で説明していた声が、結衣の耳へ届いた。

何事かと思い、引き継ぎが途中だったが「すみません!」と言い残し翔がいる病室へと走っていった。

そこには既に他の看護師と男性スタッフ数名がいて、翔に対しなだめるような言葉をかけ説得するように落ち着かせようとしていた。

結衣は、既に先に病室の中にいた看護師や男性スタッフに声をかけ、今の状況に至るまでの経緯を簡単に聞いた。

結衣は何も言わず、ゆっくりと一歩ずつまるで翔を包み込むように彼のもとへ近づいていった。

周りにいた看護師や男性スタッフは心の中で、彼女に任せようという思いでそれまで翔の行動を止めようとして発していた言葉を止め、ただ黙って結衣の様子を見ていた。

当然、もし翔が自分の腹部に目掛けてフォークを突き刺そうとする素振りを見せた瞬間に、彼の右手に目掛けて飛びかかる体勢をとっていた。

「その右手に持っているフォークを離しなさい」

いつも優しい口調でしか話さない結衣は、翔を諭すように冷静に淡々とした言葉で問い翔ように言葉を発した。

さっきまで大雨が降っていた外は曇りに変わっていて、風が強く部屋の窓が風により揺れ音を立てていた。

一歩ずつ翔のもとへ近づく結衣の目は、その一歩を増やすごとに潤んでいき今にも目から涙がこぼれ落ちそうだった。

翔の目にも映っていて、先ほどまで強くフォークを握りしめていた右手の力が少しずつ弱まっていき、気がつくと右手からフォークが床へと落ちていた。

翔の目からは大粒の涙がこぼれ落ち、結衣は優しく翔の背中をさすりながら優しい笑顔で「大丈夫、大丈夫だよ」と言葉をかけた。

今まで、弱音一つ吐かなく涙なんか見せたことが無い翔がここまで自分の感情を表に出しているところを見たのは、結衣を含めた看護師や男性スタッフにとって初めての光景だった。

結衣以外の看護師や男性スタッフは翔の部屋から離れていった。丸い椅子を翔が横になっているベットサイドに持ち寄りそこに結衣は座り、特に言葉を掛けるでもなく、ただ静かに翔の左手を自分の両手で包み込んでいた。

その時結衣は小学生の頃に経験した、自分が病院へ行って不安だった時と今の自分と同じようなことを当時の看護師がしてくれたことを思い出していた。

“看護師や医者がいるからって安心とは別だ”

常に自分が笑顔でいることが、入院している患者やその家族が安心してくれると思って仕事に取り組んでいた。

思っていたというか、そう信じていた。

けれども、入院している患者一人ひとりが抱えている病気や症状は様々で、結衣が笑顔でいるで、そういった病気や症状を和らげることに直接的に繋がってはいない。

それでも私の笑顔で少しでも楽な気持ちになってくれたり、楽しいと感じてもらえたりしてくれるのであれば、心から結衣はそう願っていた。

この日、日勤の結衣は十八時で帰りの支度に入る予定だったが、今は翔のそばにいることが看護師としての使命であり、何より彼女が憧れているあの時に優しくしてくれた看護師の姿に近づけるのではないかと思っていた。

「結衣さん、そろそろ私交代して…」と三十分くらい時間が経過した頃に夕勤の看護師が部屋に入ってきた。

結衣は左手の人差し指を立ててマスク越しの口の前に置き、シーっと声を出しその人差し指でスヤスヤと寝ている翔の方を指し、彼が寝ていることをジェスチャーで伝えた。

翔の左手からそっと手を離して部屋を後にした。

腕時計の針を見ると時間は十九時を過ぎていて休憩室に置いてあるバッグを持ち更衣室へ着替えて病院を後にした。

空には、夕方まであった雲が晴れて綺麗な星が輝いて夜空を見上げると心がほっこりと暖かくなった。





食事は以前と変わらず口から食べることができたので、この日も病院から出されたものに一口・二口だけ、手をつけた守は持っていたスプーンをトレイに置き天井を見つめていた。

さっきの騒ぎは一体なんだったのだと思いながら、母親がアパートから持ってきてくれた本と病院の売店で買ったであろう、歯ブラシがベットサイドに無造作に置かれていた。

「体調のほうはいかがですか?」と言いながら主治医と看護師が守の部屋に入ってきた。

昼間に、思いっきり涙を流しながら今の自分の状況を悔やんだことは無かったかのように振る舞い、「大丈夫です」とだけ返した。

主治医からは、今日まで行った検査結果や見立てについての見解が伝えられた。守は、半分上の空で聞き心の中では「早く原因を調べてくれ!」と叫んでいた。本当は言葉に出して主治医や看護師に気持ちをぶつけたかったがそんな勇気もないのと、ここで一方的に感情をさらけ出しても何も状況は変わらないことを理解していた。

はい、とだけ小さな声で返事をすると主治医と看護師は守がいる部屋から出ていった。

ベッドの上に残された守は、右手で枕元に置いてある読みかけの本を膝上に置き読み始めた。

けれど、本に書かれている内容が一切頭の中に入ってこず、時計の針が進む音がまるで自分の命が終わるまでのタイムリミットを刻んでいるかのように、大きく聞こえてきた。

守の目に映るテレビや自分の着替えが入った床頭台、エアコンの風でゆらゆらと揺れているカーテンなど、無意識に病室にあるものをひとつずつ見ては、今の僕は社会から見た時にこれらと同じようなもの。

つまり、存在していれば必要とされるが代わりになる者はいくらでも、この世界には自分以外にいるのであると考えていた。

「あぁ。」思わず口から弱々しい声が出た。その声が出たと同時に守の病室の扉が開き「体調はどう?」という声が入ってきた。声のする方を守は顔を向けると、そこには会社の同僚がスーツ姿でこちらへ向かってきていた。壁にかかっている時計に目を向けて、時刻を確認するとまだ昼の一時過ぎだった。

「こんな時間に。仕事がまだ残っているんじゃないの?」と同僚に尋ねると「部長が綾瀬の具合を見てこいって言うから、外回りの帰り道に少し寄っただけだからすぐ会社へ戻るわ」と言い、守は最近の生活の様子や主治医からの病状に対しての見解などを会社の同僚に対し説明し、「もう少しみんなに迷惑をかけてしまう形になってしまうから、先に謝っておくから伝えといてもらえる?」と伝えた。

「わかったけど、綾瀬が作った資料でないと取引先の人が、なかなか納得して契約まで辿り着かないから無理せずにだけど、みんな待っているから早く戻ってこいよ」と言いながら持っていたカバンからA4サイズの茶封筒を取り出し守へ渡した。

守が「何?」と聞くと「長期休暇になると思うから、今度来る時までに書いてくれよ。代わりに会社へ持っていってやるから」と同僚が言いながら背中をこちらに向け病室を後にした。

長期休暇か…。

入社してから風邪などを除いて一度も休みを取ったことがない守は、休むことは悪いことだといった考えが自分を支配していた。

いつ退院できるかが分からない状況で、これまで使わずに残してある有給を全て使ったとしても、これまでのように会社へ行く自分の姿を守は想像できなかった。

上司からの命令とはいえ、わざわざお見舞いへ来てくれた同僚に対し、正直なところ嬉しさよりも驚きの方が守の中で優っていた。

社内ではあまり他の同僚たちや上司と積極的にコミュニケーションを図ってこなかった守。

そして同僚の言葉にあった、綾瀬が作った資料でないと取引先の人がなかなか納得して契約まで辿り着かないから、という言葉を思い出していた。少なくとも僕が会社にとって必要とされる人材であることや、同僚や上司及び取引先からの信頼を得ていたことに気付いていなかったこと。信頼を得ていることがこんなにも嬉しいことだと心の底から守は感じ、心が太陽の光に当たっているかのようにポカポカした心地だった。

今の会社に入社した理由は特に無くて、安定した給料を自分が持っているスキルで得られるという、すごく安易な考えで数ある会社の中から選択し決めた。両親からもどこどこへ就職してほしいという要望は無く、きっと自分の道を選ぶだろうと信頼されていた。ネガティヴに捉えれば、あまり両親が守に対し関心がなかったと言ってもいいだろう。

子供の頃に友達と喧嘩をしたり、悪ふざけをして学校の先生を始め大人から怒られたりという子では無かった。休み時間も教室で中の良い友達と自分が興味のある本の話をしたり、学校で飼っていたザリガニの世話をしたりと物静かな幼少期を送っていた。

早い段階から周りの雰囲気を読む癖がついてしまい、守の周りにいた大人たちの目を気にして自分の気持ちは抑えてしまう方だった。周りにいる同年代の子供達に比べた時に、これが欲しいとか、あそこへ行きたいと泣いて両親を困らせた事は、ほとんど無い子だった。

そういった事が今になっても変わらず、社会という様々な人がいる中でうまく渡っていけている守のスキルに繋がっている。

同じ病室に入院している患者のもとへは家族らしき人が毎日のように訪れ、他愛もない会話をして前日に使用した服とおそらく家で洗濯してきたであろう、服を交換している光景が守の目の前で行われていた。

守は黙々と本を読み進める以外にやることが無く、午後になって訪れる看護師による体温と血圧の計測が終わり、夕飯の時間まで特にすることが無かった。

病院からは、車で片道一時間ほどかかるところに住んでいる母親はあまり守のところへ訪れること無く、着替えも病院のものを使っていた。

守はふとこの前すれ違った、翔のことを思い出していた。

そういえば、あの子は臓器提供者を待っていると言っていた、まだ中学生なのにかわいそうというか。まだそんなに話したこともない子のことを考えている自分が不思議でたまらなかった。

全く自分とは関係ないと言ってしまえばそれまでであったが、守はどこか自分とは関係のないこととは思えずにいた。

今までこんなに家族以外の人へ対し関心を持つことが無かった守にとって、今の自分の中にある感情は、どういったものでどこから湧いて出てきているのかを夕飯を食べながら、自分へ語りかけるように探っていた。

今の守が抱えている状況と、翔という少年が置かれている状況を比べた時に、どちらが辛い状況なのかは比べることはできない。この世界には守や翔よりも辛い状況下で自分の命を明日まで繋ぐことが難しい人たちが星の数ほどたくさんいる。

自分が助けなかったり、関心を持たなかったりしても、きっと誰かが手助けをしたり、サポートをする事で当事者である人たちは、おそらく助かっているのであろうと守は思っていた。

いざ自分の身体が動かなくなって、さらに自分よりも厳しい状況下に置かれている人が身近にいると、全ての状況や世の中の人たちに対し、とても深い怒りが心の底から湧いて出てくる。

きっとあの翔という少年も特別悪いことをしたわけでは無く、他の子となんら変わらない生活を送ってきたのだと思う。それなのになぜ、彼が自由に学校へ行き好きなことを同年代の友達と同じ時間を過ごすことなく、いつ現れるか分からない臓器提供者を待ち続けなければならないのか。

僕だってそうだ。同じ社内には仕事をしっかりこなすこと無く、会社や上司に対しての愚痴や文句を言っている奴らの方が多いのに。

頭の中でそのようなことを考えながら、病院から出された夕飯の六割を食べ終えていた。

「全部食べていないですが、どこか体調悪いですか?」と守の目の前に置かれた机の上にトレイを看護師が片付けながら尋ねてきた。「特に変わったところはないです…」と暗いトーンで返事をし、今の気持ちを目の前の看護師に話し聞いてもらうことで少しは楽になるのかと守は考えた。

と同時に、彼の良い所でもある相手に対し気を遣い過ぎて、僕なんかに時間を取らせると他の人たちに迷惑がかかる、という思いが守の心の中でぶつかり合った結果、自分の思いを抑えるという選択肢をとった。

その理由はわからないが自分の思いを聞いてもらう相手はこの人ではなく、この前この部屋に来たあの元気のいい看護師だと直感で思った。

「何かあったら遠慮せずに言ってください」と今の傷ついた心を持った守にとっては、とても暖かくて優しくどこか胸に痛いほど響いていた。

「僕の病気のことで先生とお話がしたいです」自分でも気づかないうちに感情が言葉へと変わっていて看護師に尋ねていた。

明日以降でこちらに来るように先生へは伝えます、とだけ言い残して守が先ほどまで食べていた食事のトレイを持っていき大部屋から出て行った。

守は、膝の上に本を置き先程まで読んでいたページを開き少しずつ文字を目で追っては、自分の身体のことや翔のことをぼんやりと考えていた。

「そろそろお部屋の電気を消させてもらいますね」と声が聞こえ、守がいる部屋の入院患者は、はぁい。と返事があった。

足元がうっすらと明るく照らされるくらいの照明だけ残して、天井の蛍光灯は消され、各自のベッドサイドに設置されたライトを点けている人や、寝息を立てて既に寝ている人がいる中、守は既に夢の中にいた。

目が覚めると、汗で濡れてしまったパジャマを交換してもらうために、枕元にあるナースコールを押して、パジャマを替えたいという旨を伝え看護師が来るのを待っていた。

時計を見ると二十二時半を指していて、消灯時間からまだ一時間半しか経過していなかった。が守の体感では五時間ほど経過しているように感じた。

その後、看護師が替のパジャマと身体を拭くために使うタオルを持ち守のところへやって来た。

守が寝ているベッドをカーテンで囲み看護師から渡された新しいパジャマに着替えて、「どこか痛いところでもありますか?」という看護師からの問いに対し、「こんなことを聞くのもおかしいのですが、小田さんという看護師は今度いつ出勤されますか?」と守は尋ねた。

彼女に話を聞いてほしい、彼女なら今の僕の気持ちや考えを真正面から受け止めてくれるはず。それだけで十分だから、話をただ聞いてほしいといった願いに近い思いが守の心の底に存在していた。

「たぶん明後日の夜に出勤すると思います」と新しいパジャマを持ってきてくれた看護師から守は聞かされた。それと時間を作って綾瀬さんのところへ顔を出すように伝えますと約束してくれた。

それまで曇っていた空が徐々に晴れていき、雲の間から少しだがとても輝いて、希望と期待が込められているような一本の光が雲の隙間から差し込んでいるようだった。

とはいってもまだ何も今の状況からは変わってはおらず、自分の病気がどういったものなのか、完治するものなのか否か、以前のように会社や外へ自分の足で歩けることができるのか。自分の身体で何が起こっているのかは分からないままだ。

もしかしたら最悪の場合、死がもうすぐそこに忍びよっているのかもしれない。

主治医は検査をしないと病状が分からないと言うが、本当は判明していてそこにある真実をどのタイミング、どういった形で僕や家族に伝えていいのか分からないから隠しているのかと、考えても答えが出ないことを頭の中で迷路の中を歩くようにグルグルと守は考えていた。

気がつくと午前七時を回っていた。

とっくに朝食の時間は過ぎていて、守のベッドの前を通った看護師から「綾瀬さん、起きましたか?朝食、一応とってありますが食べますか?」と聞かれ、小さな声で頷きながら「はい、すみません」と答えた。

トレイに置かれた食器の上にラップが掛かり、埃などがつかないようにされている朝食が守のところへ運ばれてきた。

守はトレイの上に置かれたパンと小さな牛乳だけ食べて、残りの副菜と半分に切られたバナナを残してトレイを下げてもらえるように看護師に声を掛けた。

トレイを下げる際に「お昼になる前には先生がこちらへ来て、綾瀬さんのお身体に関する説明をするとのことです」と言い残し部屋を出て行った。

守の身体の中で起こっていることが少しでも分かれば、希望の光が差し込みそれに対する治療方法や今後の生活の見立てを考えることができると思った。一方でもし完治しない病で既に手遅れの状態だったらと、二つの思いが波のように押しては引いての繰り返しだった。

きっと何もない…。これまで通りの生活を送るようになる…。人間は誰かの支えなしでは生きられない、とても弱い存在である。

守は心の中で願うように、また自分に言い聞かせるように何度も繰り返していた。守は特に、神様的な存在を意識して生活してはいないのだが、人間という生物は何か自分が不安や恐怖を感じた時に、気を紛らわすために自分の中に恋人や両親といった大切な存在をイメージしたり、見たことも会ったことも無い神様的なものを想像したりする。そうする事で、自分の中にある不安や恐怖心がその存在のお陰で、まるで無かったかのように安定した気持ちを保つことができる、とても不思議な生物だ。

「守、体調どうだい?」という聞き慣れた声がしそちらの方を向くとそこに母親が右手に紙袋を持って守の方へ近づいてきた。

いつものように守は無愛想な言い方で「あぁ、別に変わりはないよ」と母親の顔を見ずに言葉だけ返し、黙々と本を読み続けながら、昼前に守の身体に関する現状の経過とこれからのことについて主治医が説明に来ることを母親へ伝え、一緒に聞くように促した。

母親からすれば幾つになろうとも息子であることは変わらず、何か欲しいものはあるか、食べたいものがあったら言ってくれれば買ってくるといった、愛情がこもった言葉が次から次へと矢継ぎ早に守へ対し質問の嵐が続いた。

椅子に座りながらもそわそわと落ち着かない様子の母親は、自分のカバンからスケジュール手帳を取り出し、白紙のページを開きながらもう片方の手でボールペンを持って、主治医からの息子の身体に関わる経過や病状のことを一言一句メモに取るつもりでいた。主治医が守の所へ来るにはまだ時間があるのにも関わらず。

守は喉が渇いたので消灯台に置かれた透明なプラスチックの容器に入ったお茶とコップを取ろうと姿勢を変えた。

母親へ対し、何かの話題で話さなければと思いながらも、守はどんな話題で話したら良いのかが、全く頭の中に出てこなかった。

「あのさ〜、多分大丈夫だから」と自分でも何が大丈夫なのか、どういった根拠があって自分の口から大丈夫と言ったのかは守にもはっきりとしてはいなかった。

「あんた、子供の頃から大人しくて何かあっても、お母さんから聞かないと言わないことが多くて、お母さんもそこに甘えてしまっていたから、ごめんね」と、ハンカチを口元に当てながら目には涙を浮かべ俯いていた。

そんな母親の姿を見て、守は胸がキュッと誰かの手によって握られているような感覚になった。そんなつもりで言ったのではないのにベッドの上に寝ている人から、大丈夫だと言われても何の説得力も持たない。返って不安や心配する気持ちを煽ることへ繋がってしまうことは、当然のことながら守も理解していた。

守と母親との間で交わされた会話を知らない人からすれば、息子が母親に対し八つ当たりをして泣かされているかのように、受けとられたとしてもおかしくない状況だった。

“この状況をどうにかしたい”

この何ともいえない雰囲気をなんとかして変えたい。そうしないと、いてもたっても居られないと守は思い、「ちょっと売店で甘いものでも買ってきてくれる?」とポツリと言い、消灯台の引き出しの中にしまっている財布を取り出そうとすると、「お金、お母さんが払うから。甘いものってチョコ?」と母親から聞かれ、うんと守は頷いた。

守の返事を聞くか聞かないかのうちに母親は椅子から立ち上がり、自分のカバンから財布だけ取り出し病室を後にした。

残された守は、やっと一人になれたという解放感と疲労感が入り混じり、ただベッドの上で母親の相手をしているだけなのに、一人でいられることの幸せを心から感じていた。

ふと時計を見ると十一時を過ぎていて主治医が、守の身体の経過報告と今後のことに関しての説明を行いに来る時間まで一時間を切っていた。

母親がいない間に先ほどまで読んでいた本を膝の上に置き、母親が戻ってくる間までまた本の中の世界へ入り込んでいた。

ビニール袋を片手に「アーモンドのチョコでよかった?」と言いながら母親が守の元へ戻ってきた。「ありがとう」と言いながらビニール袋を受け取ると、「あと二十分くらいだから」と独り言のように守は呟いた。

「綾瀬さん、遅くなりました。お身体の具合はどうですか?お母様も来ていらっしゃったんですね」と主治医が言いながらその横に看護師が一緒に守のベッドサイドに立ったままこちらを見ている。

それまで椅子に座っていた母親がその場から立ち、お世話になっていますと言いながら主治医に向かいお辞儀をした。

「ここでお話するのも集中できないと思いますので、別室でゆっくり守さんの病状や今後のことについてご説明させてください」という主治医の言葉を聞き、守は頷きながら、「はい」とだけ返事をした。

車椅子へ乗り移った守は、看護師に車椅子を押されながら、ベッドがある部屋から同じフロアのホワイトボードや長机があり、いつもは会議などで使われているであろう、部屋に守と母親は看護師に誘導されながら入っていった。

ホワイトボードの前に主治医とその横に看護師が座り、長机を挟んだ反対側に守と母親が座り、看護師からA4サイズの紙が二枚で一セットになったものを守と母親の手元へ渡された。

その用紙には、“綾瀬守様の病状と治療計画”という文字が紙の中央上部分に大きく書かれていた。

守の隣から、えっ!という声が聞こえそれは母親からのもので、守は想定していたことがいよいよ現実となって自分の前に現れ、さほど驚かず動揺も見せなかった。

それより主治医からの見解を早く聞きたいといった思いでいっぱいだった。

「それでは、今お渡しした紙に書かれている内容に沿って、綾瀬さんのお身体の状況とこれからの治療方法などについてご説明させていただければと思います」と主治医の口から発せられ、その後、守と母親からの質問を含めて約一時間でその場の話は終わった。

虚血性心疾患。

主治医の口から聞き慣れない、というか初めて聞く単語が出て重い病なのかそうでない病なのかすら、判断する知識が守と母親の中に存在せず、よくわからないという表情をしていると虚血性心疾患について次のように主治医から説明された。

心臓を動かすための筋肉(心筋)に血液を送る役目を持っている冠動脈という血管が、狭くなったり、硬くなったりして、心筋へ十分に血液を送れなくなることで発症する疾患の総称とのことであった。

パソコンを使ってスクリーンに映る虚血性心疾患に関する情報を見せられながら説明を受けていたが、主治医の説明が頭の中に入ってこず守の頭の中では、治るものなのか・治らないものなのかのどちらかはっきりとした答えを教えて欲しいという考えでいっぱいだった。

横に座っていた母親の口から、「元の生活に戻れるのでしょうか?」と主治医に対し尋ねていた。

虚血性心疾患に対する治療方法は次の三つであった。

薬物療法、冠動脈形成術(カテーテルを用いた手術)、冠動脈バイパス手術、であった。

また主治医からは次のような説明があった。

心筋梗塞の場合は、時間経過とともに心不全を合併する危険性が高まるため、一刻も早い治療が必要となる。

主治医からの虚血性心疾患に関する説明を聞くにつれて、最初は軽い病のものだろうと思っていたが、徐々にこれは思ったより大きくて厄介なモノがついてしまったと、守の気持ちがだんだんと重く苦しいものへと変わっていった。

「きっと治療すれば大丈夫だから」守の隣に座って、とても悲しそうで切なそうな表情の母親を安心させるためにふいに出た。

が、心の中は雷がゴーゴーと鳴り響く夏の空のように不安定な状態だった。

守のこれからの入院生活や虚血性心疾患に関する治療方法などの説明を、主治医から聞き終え、自分のベッドがある大部屋へ看護師に車椅子を押され戻っていった。

車椅子から看護師の手を借りてベッドへ移ると、先ほどまで主治医の説明を一緒に聞いていた母親がか細い声で、「また来週あたりに来るから。何かあったら看護師さんや先生に言うんだよ」と言い残し部屋を出ていった。

母親と入れ替わるように看護師が手に麦茶と体温計を持ち守のところへ近づいて来た。

部屋の一番窓際に守が寝ているベッドは置かれ、就寝時以外は白いレースのカーテンが閉められていた。そこから外の様子が伺えるようになっていた。

視線を本へ向けている守の視界に何か光るものが一瞬見えたと思った次の瞬間に、ゴゴッと腹のそこまで響くような低い音が鳴り響いた。

本の方から窓へ顔と視線を向けると、さっきまで曇っていた空が嘘かのように、バケツをひっくり返したかのように大雨が降っていた。

それはまるで、空が子供のように泣いているかのように守の目には映っていた。





スマホの中のカレンダーに書かれている出勤表に目を通し、翌日の予定を確認した後に友達から送られてきたLINEに目を通しては返事を返したり、ファッションサイトを見ては自分が気に入った洋服を、お気に入りに追加したりと仕事から帰って来た結衣は、自分の部屋でゆっくりと時間を過ごしていた。

看護師という仕事柄、同年代の友達と遊ぶ時間をなかなか上手く合わせることができなく、仕事から帰って来ては母親が料理を作ってくれるので、それに甘えて自分の部屋で時間を過ごしたり、リビングでテレビを観たりする時間が多い。

友達の中には、既に結婚して子育てをしている人もいて、たまに時間を作っては友達の子供の顔を見に行くことがあったりするが、それ以外の時間はスマホで連絡を取り合うくらいの関係性である。

「結衣!ご飯できたから降りてー」と下の階にいる母親の声が聞こえ、スマホを短パンのポケットに入れながら、はぁいと言いながら自分の部屋を出て階段を降りていった。

階段を降りている時に一瞬ふらっと目眩がして、咄嗟に階段横の壁に手をつき何とか倒れないように身体のバランスを咄嗟にとった。

ここのところ、仕事が続いていて何でも引き受けてしまいがちの結衣は同僚や先輩たちから頼まれたことは極力断らずに引き受けていたこと、翔とのやり取りで普段よりも体力を消費していたこともあり、疲れが溜まっているのだろうと思っていた。

結衣は冷蔵庫から麦茶を取りシンクの横に乾かしてあるコップを手に取り、リビングの椅子に座り、いただきまぁす!と言い母親が作ってくれた料理を食べ始めた。

だいたい食事の時間は、母親とのコミュニケーションの時間を兼ねていて、職場であったことや悩み事や他愛もない話を母親と交わす時間でもあった。

この日は、翔のことが会話の中心になりその日起きたことを伝えると、「きっと、その子もいろいろな思いを抑え込んでいたんだろうね」と母親が言い、結衣がその場でとった翔に対しての対応を褒めてくれた。

「私、あの子のことを助けようとしていたけど、もしかしたら傷つけちゃったかな」普段あまり暗い顔をしない結衣だが、自分の足元に目線を落とし、あの時のことが頭の中で鮮明に映し出されていた。

「たまには、有給使ってあんたが好きな温泉にでも行ってリラックスしてくれば?」テーブルに温泉情報の雑誌を置きながら結衣に向かって母親が言葉をかけてくれた。

振り返ってみるとここ半年、大きな休みを取って家族や友達と泊まりがけで旅行へ行ったことは無かった。病院での仕事を終えたまに同僚と近くのカフェでコーヒーを飲んでから帰宅するといったことがほとんどで、それ以外は病院と自宅との往復というすごく単調な日々を過ごしている。

母親が「仕事を毎日休まないで行くのと、自分が担当している患者さんのためになるのはすごいと思うけれど、あんたが身体を壊したらどうするの?」と結衣に向かって言い、結衣もその言葉に対しては同じような思いでいた。

「今度、先輩に相談してみる」と母親へ返事をしてスマホで自分が好きなアーティスト情報をチェックし始めて、自分が食べていた食器を台所まで持っていく。椅子から立ち上がろうとした瞬間に、先ほどと同じような目眩が再度生じた。

身体のバランスを崩して辛うじて倒れずに済んだが、椅子から上手く立ち上がることができず右側に体重が傾いてテーブルに置いてあったコップを倒してしまった。

「何やってるの?大丈夫?」と母親が少し驚いた様子で結衣に対し聞くと、「何か、さっきも階段を降りてくる時に目眩がして、倒れそうになったんだ」と「疲れが溜まっているだけだと思うから、シャワーを浴びようと思ったけどこのまま寝る」と母親へ対し伝えゆっくりと階段を上り自分の部屋へと戻っていった。

部屋に戻り、念のため熱を測ったがいつもと変わらず、ベッドの上でスマホを触りゴロゴロとしていて気がつくと、そのまま寝てしまっていた。

約一時間程が経過して、トントンと結衣の部屋の扉をノックする音が聞こえ、「なぁに?」と扉の方へ声を出すと、母親が心配そうな声で「さっきの目眩のことだけど、母さん、心配だからどこかで時間作って調べてもらってよ」と言ってきたので、「今度の木曜日になりそうだけど」と応えながらスマホのカレンダーに書かれている予定を見ると、次の休みは三日後の夜勤明けだ。

「ちゃんと行ってね」と言い残した母親は階段を降り下の階へ戻っていった。

自分が好きで就いた職業なので、精一杯自分なりに努力して担当している患者に寄り添いケアしていき、この先五年先や十年先に自分の後輩へしっかり伝えられるように常に医療知識はアップデートしていきたいと結衣は強く思っていた。休みの日でも必ずこのように少しずつでも復習と予習を繰り返していた。

ふとスマホの時刻を見ると、既に夜の九時を過ぎていた。結衣はそろそろ寝なきゃと思いながら、寝る前にシャワーを浴びてからと思い、一階の浴室へと自分の着替えを持ちながら階段を降りていった。

シャワーを浴び終わりキッチンへ行き冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを持ち、「おかあさん、私もう寝るね。おやすみなさい。明日、午後からだから十一時くらいに起こして」と甘えた言葉で言うと階段を上がって自分の部屋へと戻っていった。

階段を上る時に目眩が起きるかと不安だったが、幸いにも何も起きずに安心感と昼間のことが疑問に残った。

翌日は午後からの出勤なので、遅くても日付を跨ぐ前に寝る事ができれば、十分な睡眠を保て健康に悪影響が出ないと考え、もう少し予習を兼ねた勉強をしていた。

勉強の合間にもツイッターやらLINEを見たり、友達へ返事を返したりして、自分に合った時間の使い方をしていた。

そうしていると時刻は午後十一時を過ぎたので、歯を磨きに一階の洗面所へ行こうとベッドから自分の部屋を出て階段を降りていった。

一歩、二歩ゆっくりと降りていた。

あっ!右側の膝に力が入らなくなり、そのまま階段から左前に倒れてしまい、咄嗟に左手を壁につこうとしたのだが、身体のバランスが崩れたこともあり、そのまま左前面に身体が倒れてしまい、階段を八段くらいの高さからキャーという悲鳴を出しながらゴロゴロと音を立てながら一気に下まで落ちてしまった。

幸いなことに気を失うことはなかったが、その場から立ち上がろうと自分の足に力を入れた結衣だったが、どんなに力を入れて立ち上がろうとしても、その度に左足から腹部にかけて痛みが走った。

一人では立ち上がれないと思い、寝室で寝ている母親に向かって、「お母さーん!ちょっと助けてぇ!!」と大声で叫びその場から、一歩も動くことができない結衣は母親が自分の声に気がついてくれるまで声を出し続けるしかなかった。

「お母さーん!!!」とお腹の底からリビングに向かって喉が裂けるくらいに叫んだ。パタパタと最初の頃はゆっくりした足音だったが、結衣の声が届いたのかその音は速度を上げて結衣の方へ近づいてきた。

「何?あんた何してんの?!」と階段の下で倒れている結衣に向かって母親が聞くと、自分では立ち上がれなく、おそらくどこかの骨が折れているか、身体のどこかの箇所に異常が起きて、日中の目眩と今の階段から落ちてしまったことが繋がっていると、激痛が身体の中を襲っている中で想像していた。

母親が結衣の身体を支えながら起こそうと試みたが、結衣も自分で立ち上がろうとしてみたものの全く力が入らず痛みが増すばかりだった。

母親は、救急車を呼ぼうと結衣に提案して結衣もそれを受け入れた。自分が働いている病院へ連れて行ってもらえるように一一九番に連絡をして救急車が自宅へ来るのを待った。

体温を測ると三七度四分と自分の平熱が三六度台の結衣にしてみれば、少し高い熱であることが体温計に示された数字から分かることができた。

その間にも、左側の足から腹部にかけて痛みが続いており、母親が懸命に氷で冷やしてはくれていた。だが、その痛みが引く事はなく時間が経つに連れて大きくなっていった。

一一九番で連絡をしてから、約十分経過したころピーポーという音が結衣の自宅に近づいてきて、玄関のチャイムが鳴り三人ほどの救急隊員が自宅に入って階段下で倒れている結衣のところへ駆け寄ってきた。

自分の口で今までの状況や体から起きた時のことを救急隊員へ伝えると、ストレッチャーが準備され救急隊員が結衣の身体をゆっくりと抱えストレッチャーの上に乗せた。

ストレッチャーの上に移動する間も結衣の身体に激痛が走り、ストレッチャーのまま救急車へ運ばれていき後から母親も一緒に乗り込んだ。

結衣は自分が看護師であること、勤めている病院へ運んで欲しいという旨を救急隊員へ伝え、車内に設置された電話を使い「小田結衣さんという患者を今からそちらへ運びます。受け入れ可能ですか?」という救急隊の問いに対して電話口からはおそらく「可能です」という返事があったのか、「今からその病院へ向かいますね」と救急車を運転する救急隊員が言うと、救急車は病院へ向かい走り出した。

自宅から十五分くらい走り、結衣が勤めている病院へ到着し、緊急車両用の出入り口に救急車が止まり、連絡を受けた看護師や医者たちがすぐに対応してくれた。

血圧を測ったり、レントゲンを撮るための準備をしたり、いつもは結衣が行っていることを今回は受ける側となって準備している状況と痛みを抱えながら見ていた。

一緒に救急車で病院まで来た母親は待合室に看護師によって案内された。結衣のレントゲン・採血検査などの結果が出るまで待つこととなった。

レントゲン撮影や採血検査を終えて、待合室で待たされていた母親も看護師によって結衣の元へ呼び戻された。

救急患者の対応する医者によって結衣の身体に関する検査結果が告げられ、原発性硬化性胆管炎という聞き慣れない言葉が医者の口から発せられた。

結衣も横で説明を聞いている母親も何の病気でどういった症状が出て、簡単に治るものなのかといろいろな疑問が頭の中に出てきた。

だんだんと結衣の手が震えて心の中は恐怖で蓋をされたかのように、目の前で病気について説明しているはずの医者の声が一切耳から入ってこず、結衣は気を失ってしまい座っていた椅子から倒れてしまった。

気がつき目が覚めるとベッドの上に横になっていて、隣に母親が結衣の右手を両手で包み込むように握って目から涙を流していた。

あの時と同じだ…。

小学生の時に入院した時も、今と同じように母親がベッドサイドで結衣の手を包み込むように握って、「大丈夫…、大丈夫だから」となんども何度も優しい言葉を結衣にかけてくれていて心の中で、これが愛情なんだ。と結衣はそれが正解なのかはわからなかったが、感覚としてははっきりと感じたことができた。

「今日だけ入院してください」と医者から言われ、病院から用意された服に着替えて「あとは一人で大丈夫だから」と心配そうな母親に伝えた。

言葉とは裏腹に結衣の心の中は、一人になることに対してすごく不安と恐怖でいっぱいで、出来る事であれば今夜くらい母親に傍にいて欲しいという思いはあったのだが、母親の身体のことを考えるとそんなわがままは言ってはいけないという気持ちの方が強くあった。

「本当に大丈夫?」と言ってくる母親に対し、「本当に大丈夫だから。気をつけて帰ってね」と結衣は返し、母親は自分の荷物をまとめ、結衣がいる病室から出て行き、看護師にお辞儀をして結衣の視界から徐々に消えていった。

食事は今日だけ点滴にしましょうという医者の指示のもと、部屋に設置されているテレビを流すこと無く、ただ天井を眺めたり、窓から見える空にかかった雲を見たりしていた。

“ゲンパツセイコウカセイタンカンエン”…

医療に関する書籍で勉強した事があって、原発性硬化性胆管炎についての知識や情報は結衣も少なからず知っていた。

だが原発性硬化性胆管炎を抱えた患者を診た事がないので、このままこの病気とずっと共に人生を送っていかなければならないのか。などといったことを考えていたら、自分の心の中にある恐怖が大きくなっている気がした。

窓にかかっているカーテンの隙間から入る朝日の光で、いつの間にか寝ていた結衣は目覚めた。

ベッドサイドで点滴を交換している看護師の存在に気がつき結衣は挨拶をすると、ものすごく輝いている笑顔で「おはようございます。昨日は眠れましたか?今、先生を呼んでくるので、ここにあるお茶でも飲んでいてください」と言うと部屋を出ていった。

結衣は言われたように、ベッドサイドに置いてある消灯台の上に置かれたプラスチック製のコップとお茶が入ったボトルを手に取り、ボトルからコップへお茶を注ぐと一口ずつ飲み始めた。

約一日ぶりに自分の舌で味わうことができ、普段からいろいろな食べ物を好んで食べている結衣にとって、たった一杯のお茶がものすごく美味しく感じた。

自分の口から何かを味わうことって、こんなに幸せなことだったんだ。

普段からその幸せな事との距離感が近いが故に、それが当たり前となっていたことや、普段接している患者が生活の中で食事の時間を楽しみにしている理由を、心の底から理解することが改めて気がつくことができ自然と目から涙が頬を伝い落ちていた。

「はぁ」と小さく息を吐いて、自分が生きていることを改めて実感していると部屋の扉がガラガラと音を立てながら開いたかと思うと、医者と看護師が結衣の寝ているベッドまで近づいてきた。

「お身体の具合、どこか痛かったり、普段と変わったりしているところはありますか?」と、昨日は分からなかったが見るからに年齢が若い医者が結衣に対して聞いてきた。

「先ほどお茶を一杯だけ飲みましたが、特に昨晩寝ている時も痛みや違和感は無かったです。先生、今後のことなんですけど…」と結衣は恐る恐る、これからの自分の身に起こることを自分で知っておこうと思った。

正直、とても怖かったが、母親がまだこの場にいない時だからこそ聞いておく必要だと思った。

そうする事で、少しでも母親に心配や迷惑をかけたくないという気持ちでいっぱいだった。

「わかりました。今この時点で私たちが分かることを小田さんにお伝えします。そして私たちも病気に対し一緒に関わっていきます」少し感情的な言葉のその奥には、本当に小田結衣という患者が原発性硬化性胆管炎という病と闘う為に全ての力でサポートするという決意が言葉から伝わってきた。

それから一時間くらいかけて、原発性硬化性胆管炎という病について。それを克服するための治療法について。専門用語とわかりやすい言葉を織り混ぜて結衣が理解するまで説明があった。

目覚めた時には晴れていた空が、医者からの病気に対しての説明が終わる頃には、空から大粒の雨が地面を打ち抜くかのように強い勢いで降っていた。

医者と看護師が一礼をして部屋から出ていくと、ベッドの上にいる結衣は両手で顔を隠し大粒の涙を流していた。

「なんで私が!?」二六歳で今からが楽しいことも悲しいこともたくさん待っている中で、ここ数年の地球温暖化の影響のように昨日まで晴れていたのにも関わらず、急に大雪へと変わったかのように結衣の心はすごく乱れていた。

外は未だかつてないような、まるで台風かのような強い雨や風で道ゆく人は今にも飛ばされそうな悪天候だった。





日中に起きた騒動が嘘かのように、翔はベッドの上でスヤスヤと寝ていた。

部屋の照明は消され、ベッドはカーテンで閉じられていてほとんどの患者は寝ているが、中にはベッドサイドの照明を点けて読書をして眠ろうとする人もいる。

巡回する看護師は懐中電灯を持って、患者の使っている点滴や医療機器から出ている様々なコードにつまずかないようにと、足元は少しだけ明かりで照らされているなか一人ずつの様子を見て回っている。

カーテンを少し開けると、そこにできた隙間から見える翔の寝顔を見てから、彼の側に行き体温計を腋の下に挟み体温が測り終える間に、血圧を測り点滴の残りを確認してピピっという音が鳴ると腋の下に挟んであった体温計の数字を確認し、患者それぞれの様子を記しているカルテに体温と血圧の値を記入していた。

先程までスヤスヤと寝ていた翔は、誰かがいるという気配を察し看護師の方に目を向けながら、小さな声で「どこか痛いところとかありますか?」と看護師は翔に優しい口調で尋ねたが、「大丈夫です」と言いながら掛け布団を頭まで被り、“もう誰とも話したくない!どうせ僕なんか、ずっとこのベッドの上の生活を送るんだ!!”と心の中で叫び、この世界にいる人みんなが自分の敵のように感じていた。

翔の頭まで、すぽっと覆った布団の上から、ポンポンと大丈夫だよという思いを籠ったかのように、看護師の手が二回ほど触れると翔のベッドから離れ、横の患者のところへ向かった。

頭まで覆った布団の中で、泣いていることが他の人にわからないように、目からポタポタと大粒の涙がベッドに敷かれたシーツの上にこぼれ落ちていった。

ガラガラという音が聞こえ、翔は布団を肩まで下げてみると部屋の照明は明るく点いていてカーテンが全開になっていた。換気をするために部屋の窓は開いていて外からの空気が頬にあたり、泣きながらそのまま寝てしまったことに翔は気づいた。

「カケルくん、起きた?」という声の後に「朝食、もう少しだから待ってて」と、他の患者の体温や血圧を測る看護師の声が聞こえた。

おそらく看護師が置いたであろう、洗顔用のタオルがビニールに包まれた状態で消灯台に置かれていた。

まだ眠気がある中でそのタオルをビニールから取り出して、翔は自分の顔と心の中にある当てようのないイラつきを取り払うように拭いた。使う前までは真っ白だったタオルが寝ている間に付いたであろう、汚れや埃など顔から出る汗により、拭いた後は少し汚れていた。

右手の上に平らに広がっていたタオルは、掌の中でくしゃくしゃになっていた。翔はタオルが包まれていたビニールに向けて強く投げつけた。

床に落ちたタオルを見て、“自分の役目を精一杯努めていて用が済んだら弾かれる“ように見えて、それはまるで病気になったことで自分が学校に居なくても何の支障も出ていない翔のようだった。

十分位して看護師が翔の朝食を届けてくれ、そのついでに床に落ちたタオルを拾った。「遅くなってごめんなさいね。ここの紙に朝食のメニューが書いてあるから二十分位したら片付けにきます」とだけ言い残し、翔の前に朝食を置いて次の患者の元へ行った。

“食欲がない”

臓器提供者がいつ現れるのか。そもそも提供してくれる人の確率はどれくらいなのか。

自分は臓器提供者が現れるまでこの平坦な生活を繰り返さなければいけないのかと空を見ながら、怒りとも諦めとも近い気持ちに翔はなっていた。

本来であれば友達と高校受験をして、高校で新しい友達と出会い世間でいう“青春”を満喫できていたのかもしれない。“なぜ僕が…”という感情が心の底からでてきた。

コップ一杯だけ麦茶を飲み終えて窓の外の空を見ながら、いや、空よりもっと遠くの方を見つめるように翔の身体中から力が抜け心も空っぽのようになっていた。

翔がいる病室は地上から四階にあり、もしここから飛び降りれば、助かる確率はどれくらいだろうか。

窓には手すりが付いていて、翔の身体の大きさであれば簡単に飛び降りることもできる。病室に看護師の姿は無く“死ぬ”には絶好のタイミングであった。

環境は整っている。後は翔がそれを選択する度胸があるかどうかだけだった。

いつ開けるかわからないこの暗闇の中にいるような生活を、ここから飛び降りることによって変えることができるのは少なくとも確かなことだった。

母親の顔が翔の頭の中に出てきて、同時にそれが親からもらった大切な命と身体を自分の身勝手な考えや思いだけで決めて良いことではないと、翔は理解していた。

“もう、こんな生活は嫌だ!どうせ、お母さんも僕のことなんて本当にわかってくれているはずがない!!”

翔はベッドから降りて、ゆっくりと一歩ずつ窓の方へと自分の足で歩みを進めていた。

「ちょっと、お兄ちゃんなにしてるの?」翔と同じ病室にいる男性の声が後ろの方から聞こえ、小さな声で「もうほっといてくれ」と翔は呟きながら自分の足を一歩ずつ窓の方へ進めていった。

窓の前にある銀色の手摺りを、右手で掴み左手でもう一本の手摺りを掴もうとした瞬間に、「看護師さ〜ん!早く来てくれ!!」とさっき翔へ声をかけていた男性が大声で、病室の外に向かって叫んだ。

その声を聞きつけ、近くにいた看護師が病室に入ってくると今にも窓から飛び降りそうな翔の姿をみるや否や、そちらへ走っていき翔の身体を窓から引き離そうとした。

その様子を病室の前を通った男性職員の視界に入り、すぐさま女性看護師の元へサポートをしに駆けつけて、なんとか大人二人の力によって翔の“命を断つ”という行動は絶たれてしまった。

二人による迅速な行動によって、翔の命は守られたという表現の方が正しい。

翔が自分の命を断とうとしたのは今回を含め二回目である。翔の元へ集まった看護師と担当である主治医と看護師の間で、「これ以上、彼をこのままにしておくと次は本当に危ない」と言った会話が交わされていた。

翔は入院した時と比べると体重が約一〇キロも落ちてしまい、元々サッカーの練習や試合などで身体に付いていた筋肉も今では見る影がないほど痩せ細ってしまっていた。

生きるために食べるのか、食べているから生きているのか。どちらにせよ、“死”が訪れるまでにそれは繰り返されることであることは間違いない。

翔は目を閉じたまま、“自分で死ぬことすら出来ないのかよ”と悔しさと悲しさが入り混じった気持ちで心がいっぱいになった。

自分の力で身体を動かそうとしても、全く動かないことに違和感を感じ少しずつ目蓋を開けて、部屋の蛍光灯が眩しくて視界がチカチカしていたのが徐々に無くなり自分の手足に目を向けた。

ベッドサイドには母親の姿があり、ハンカチで顔を覆いこちらを見ている。

“泣きたいのは、こっちだよ”

翔のことを自分のことのように本当に心配し、できることであれば代わりたいという想いを持ってくれていることも十分理解していた。

が、目の前にいる母親に対しなんと言葉をかけていいのか翔は分からず、涙を流している母親の姿をただ見つめることしか出来なかった。

二人の間には言葉は無く、まるで“この世界から全ての音や言葉が無くなった”かのように静かでどこか冷徹な空気が流れていた。

このような場合、どちらかが先に言葉を発さないと時間が経過すれば、その分だけ緊張感や気まずい空気で覆われてしまう。

それを遮るかのように、ドアの方からコツコツと二人ぐらいの足音が聞こえ、「松田さん、少しお話しする時間ありますか?」と主治医から母親へ訊ねてきた。

小さな声で返事をした母親と主治医は翔の元を離れてどこか別室へと行ってしまった。

自分がいない所で一体何を話しているのだろう。不安と恐怖と緊張感が分厚い雨雲のように翔の心の奥底まで充満していた。

主治医が考えていることは分からないが、臓器提供を待っているのは母親では無くて翔なのだから、本人の目の前で話すことが医者としての役割を果たすという観点からすれば、今の言動はおかしいとも翔は感じた。

それから二十分くらい経過し、翔の元へ母親と主治医は戻ってきた。母親の表情はすごく険しくて、そこに先ほどまであった涙は消え、まるで何かを“決心”したかのように見えた。

それがなんなのか。翔にとって“光”なのかそれとも“闇”なのか。

母親と主治医との間で交わされた会話の内容や、そこから出たであろう、何かしらの道がどういったものなのかを知りたい気持ちと、そうでない気持ちが翔の心に存在していた。

その二つの感情が、お互いがお互いを食い潰すように翔の中で蠢いていた。光・闇のどちらにせよ、今の翔がいる場所から動くことは確かなことだった。

「何を話したの?」と声を震わせながら、視線は掛け布団の上にある自分の両腕に向けて言葉を発した。

母親と主治医が翔の寝ているベッドを挟むように、ベッドの両サイドに立った。

「今から説明することは、かなりの危険を背負うと同時に翔くんの病気を直せる可能性があることなので、最終的な判断は翔くんに任せます」と真剣な顔つきで主治医が言うと、「あなたが選んだことであれば、お母さんは精一杯サポートするから」といつも優しい口調の母親が、言葉に信念というか、決意がこもったかのように力強い口調であった。

どんな方法であるか、どれだけ険しい道を歩くことになるのかは、きっと翔が想像している以上の困難や茨の道になることだけは、どこかで理解していた。

「どんな方法なんですか?」と主治医をまっすぐ見つめ訊ねた。

「ありがとう。じゃあ、これから説明する準備をするのでまた一時間位したらこちらに戻ってきて、お母さまと翔くんが理解してくれるまで説明させていただきます」と深々とお辞儀をして主治医は部屋から出て行った。

その後ろ姿が見えなくなった後も、同じように深々とお辞儀をしたままの母親の姿があった。

「ありがとう」

翔の口から出た言葉。母親に対しての言葉であると同時に、現在地から動くことになる“変化できる環境”に向けて出た言葉なのだろう。

その“変化できる環境”が良くも悪くも、翔にとってはどちらでもよく毎日同じような生活を送ることと比較すれば、希望や光に満ち溢れた世界が待っているように感じた。

母親の顔を見ると、またもやハンカチで顔を覆い涙を流していた。

が、さっきとは違う想いがこもった涙であることはすぐに翔にも理解できた。

空から地面へ降る雨のように、降り注いでそこにいる人たちが喜んだり、悲しんだりと同じように涙を流すことでも、周りにいる人にとって気持ちが明るくなったり、暗くなったりと、本当に“人の感情”と“空の表情”は似ている。

翔が窓の外を見ると、空は雲ひとつなく青空でいっぱいで吹いている風により、気に生えている葉が揺れ太陽の光で色鮮やかな緑がキラキラと輝いていた。





虚血性心疾患という言葉が守の頭の中で、漢字や平仮名やカタカナといった様々な表記で映っては消えてを繰り返していた。

自分が完治して以前のように毎日出勤して、住み慣れたあの小さなアパートの一室に戻れる日がくるのかと考えていた。

もしこのままあの小さなアパートの一室に戻れないとしたら、自分はどうなってしまうのかと考えると、まるで宇宙空間に投げ出されたかのような感覚になり、恐怖と不安と当てようのない憤りが守の心の中を支配した。

今まで病気にかかったり、怪我をしたりということは無く、病院との距離感は守にとって遠い距離感で生活をしていた。ちょっとした風邪であれば市販の薬を飲みさえすれば一日程で、回復して次の日からは学校や職場へ行けることが多かった。

何か、健康を維持する方法や普段からの生活の中で気をつけているということは無く、生まれ持った守の身体が強いことも大きく関係していたに違いない。

だからこそ、虚血性心疾患という“ワケノワカラナイもの”に自分の身体が徐々に蝕まれていくことを考えると、いっそのこと今ここで医療技術の力を借りて楽に死んだ方が、痛い思いや辛い思いをせずに済むのでは無いかと本気で守は考えていた。

そんな日々が一週間ほど続いたある日のことだった。

それまで寝ていた守の身体にものすごい吐き気が襲いかかり、目覚めると同時に口から血を吐いてしまった。

自分の口から出た血が白い布団に赤く染まっていくのを見ながら、なんとか手を伸ばしナースコールのボタンを押した。

確実に病気が進行しているのを感じながら、看護師の手によって、真っ赤な血で染まったシーツ交換と守の身体の状況を診るために、医師が後からやってきて「まだ気分は悪いですか?」などと守に尋ねながら、看護師に血圧を測るようにと指示を出していた。

「もう!殺してくれ!!」

病室に響き渡るような大声で守は叫んだ。ベッドから降りようと身体を動かそうとしたが、看護師や医師らによって阻止されていた。自分でもコントロール出来ないほどの力で、周りにいた人を追い払って自分の手が届くものを手当たり次第に、床にぶちまけたり、看護師や医師の方へ投げつけたりと大暴れしていた。

「綾瀬さん!ひとまず落ち着いて下さい!!」と看護師が言葉をかけたが、「どうせ!僕の身体なんかどうなったって、あんたらには関係ないんだ!!」と喉が裂けるくらいの大声を出した。

守は手当たり次第に物を投げてベッドから降りようとして、自分の右手に繋がれた点滴のチューブを左手で抜いた。

病院が貸し出している洋服姿の守は、裸足のままベッドを降りた。そして消灯台に置かれていたボールペンを握り締めたまま、少しずつ看護師や医師の方へ近づいていった。

「ここで死んだ方が、僕よりも重い病気を持った人の治療の時間を作ることができるんだから!僕は社会に対して何も役に立っていないんだ!!」

目の前にいる看護師や医師に言ったとしても、守が置かれている状況や自分の気持ちが変わるわけでもないことは理解していた。

が、頭では分かっていても気持ちを抑えることが出来ず、どうしようもなくなっていた。

だんだんと看護師の人数は守の部屋に増えていき、右手にボールペンを持った守はこの状況になったことを、少しずつ冷静になっていったが引くに引けない状況であることも間違いなかった。

三十分くらい守と看護師や医師たちの攻防は続いた。時間が経つにつれ守は冷静になっていき徐々に気分の悪さが増していき、血を吐いたこともあり頭がクラクラとしていき、守はその場にしゃがみ込むように座った。

守が座った瞬間に看護師たちが覆いかぶさるように集まってきて、一人の看護師の手によって、守が右手に持っていたボールペンを手から離して別の看護師達の力で、病室に持ち込まれた新しいベッドに守の身体を四人がかりで抱え上げた。

意識が朦朧としている守は、なすがままの状態でだんだんと意識を失う中で、“このまま意識を失った状態でいられるなら”と感じていた。

近年の医療技術は日を追うごとに、光の速度のようにものすごく速いスピードで発達して、三年くらい前まで諦めなければいけなかった病気も早い段階で発見できれば、治すことが出来るくらいに進化しているのである。

そのため、本人の意思とは関係なく生命が延ばされるケースも例外ではない。

守の体感では約三時間しか寝ていないと思っていたが、眠りから目が覚めてふと消灯台に置いてある時計に視線をやると、既に夕方の五時を過ぎていた。

自分の手を動かそうとしても、ガシャっと、柵が揺れる音がして手が上がらなく、自分の視線を何とか手の方に向けるとベッドの柵から白いロープが手まで伸びていて、もう片方の手を見ると同じようにロープで結ばれていた。

その白いロープを見た瞬間に守は、“やってはいけないことをやってしまった”という強い後悔の思いで一気に心が染まっていくような感覚を覚えた。

看護師や医者からは、厄介者として思われているのだろうと守は自分が取った行動を何度も責めるように後悔していた。

両手足をロープで縛られているので、当然のことながら自力で体制を変えたり、上半身を起き上がらせたりすることはできず、耳から入ってくる音や左右に動かすことで見える景色から入ってくる情報だけで自分が置かれている状況を把握するしか、他に手段がなかった。

それもこれも守が自分で起こした行動が全ての引き金で、自分に責任があること。看護師や医者を始め他の患者に大きな迷惑をかけ、それまでの信頼と信用を一気に失ってしまったと考えた時に、自然と目から涙がこぼれ落ち耳の横を伝い、ベドのシーツに染み込んでいった。

「綾瀬さん、目覚めましたか?」と守の顔を覗き、手にカルテのようなものを持った看護師が訪ねてきて、「すいません、僕いつまでこの状態なんですか?」と小さく申し訳なさそうな声で看護師に恐る恐る訊ねた。

守の顔に目を向けず持っているカルテを見たまま「綾瀬さん、こんなこと言うのは失礼だと思うのですが、ご自分がなさったことに対してどう考えていらっしゃるんですか。確かに病気で辛い思いをしているのは理解しているつもりですけど、あのようなことをされては、私たち看護師や他の患者さんが怖い思いをするので」と言い残して守の元を離れていった。

とても鋭く尖った刃物のようなもので、心を刺されたかのような強い痛みを感じ、高い崖から突き落とされたかのような感覚になった。

看護師から言われた言葉に対し守は何も言い返すことがなく、そこまではっきりと言葉にしなくてもいいのではないかと心の奥底で感じていた。

朝昼晩の食事となる点滴の交換時以外は、守のところへは誰も訪れること無く、唯一の楽しみの食事も点滴へと変わってしまい、つまらなく退屈な入院生活を紛らわせるための読書も出来ず、ただただベッドに身体を縛られたままの生活が約一週間続いた。

生きているのか、生かされているのか。

今の自分はどちらに分類されるのか…。

この先、虚血性心疾患の進行でどのような治療が行われていき、それに伴いどのくらいの苦しみと共に生活を奥手いかなければならないのかと考えた。以前のようにアパートで生活をして会社へ出勤し仕事をして、帰り道に一人でコンビニへ行き酒とつまみを買ってアパートの部屋で読書を楽しむことが、もう一度手にすることが出来るのか等を考えれば考えるほど、今の自分の状況を振り返った時に決して、“生きている”と自分では思えなかった。

そもそも、“生きる”とはなんなのか。

ただ、健康な身体を保つことを目的に食事をして、毎日のように仕事へ行き自分に課せられたノルマをこなしつつ、上司や同僚などとそれなりにうまいコミュニケーションを交わすことで、職場においての周囲からの信頼や信用を勝ち取る。

また、学生の頃は卒業した後に環境や働くことによって貰える給料の額が良い職場を選ぶために、自分が得意とする分野を学業などを通して発見して磨くことや、いろいろな地方から上京している、どこのどいつかも分からない人たちから外れないように、本来の自分を押し殺してまで周囲と合わせなきゃいけない。

大抵の人はそこに対して、何の疑問や違和感を感じず、なるべく波風を立てずに生活をしているのである。

仮に、疑問や違和感を抱いていたとしても、職場や学校において大人数のグループから外れることの恐怖の方が、疑問や違和感よりも心の中に強く現れてくる。

もちろん働きたかったり、学びたかったりという思いがあっても、重度の障害があって、あの翔という少年のように重い病気を持っていたりする人のように、いくら強く願っていても叶えることが難しい人もこの世界の“空の下”にいるのだ。

その姿と、ベッドにロープで縛られている自分の姿を比較した時に、ものすごい悔しさと今までやってきたことを全否定されたかのような絶望感の波のようなものが、守の心を覆うように溢れていた。

“今の自分は、生きているようで生きていない”

出口が見えない道をただひたすら歩いているかの様に、同じことを考えては同じ思いに心がいっぱいになった。

その日の夜の点滴交換を行いに来た看護師に、勇気を振り絞り結衣のことを守は聞いてみることにした。

「すいません。この前の病室にいた時にいた看護師さんは?」と看護師へ聞くと、「小田さんのことですか?なんか体調を壊して検査をしたら、原発性硬化性胆管炎という病気が見つかって今は入院しているみたいです」と話しながら点滴を片付けていた。

原発性硬化性胆管炎?今まで様々な本を読んできたが、守もそんな言葉は初めて耳にしてどういった病気なのか見当すらつかず、ただきっと大変な思いをしていることは想像して理解できた。

臓器提供者を待っているという話を結衣から聞いていて、直接翔と話したことは無いが、守の中で翔という存在が何故だか無関係とは思えなくなっていた。

だからといって、翔に何か自分ができるかといったら、自分の病気と向き合うことすら十分ではないのに、他人のことより自分の病気と向き合っていき、治療やそれまでの日常生活に戻るために必要な身体のトレーニングや、刃物で切り付けられたかのように傷の心をゆっくりと癒すことで、バランスを保つことをしていく必要が守にはあった。

そこから数日のこと。守が寝ているベッドがある部屋の扉が開き、主治医と看護師二人を含めた三人が守の所へ近づいてきて、主治医から看護師へ守に繋がれているロープを外すように指示の下によって、ベッドから守の両手足に繋がれていたロープが外された。

主治医の口から「綾瀬さん、もう一度ご自身の病気のことについて、私たちとお話させていただけないでしょうか?出来れば、ご家族の方も同席していただいて」とすごく優しい口調で守のことを想っていることが言葉から守に伝わってきた。

「あんな事をしてしまい、すごくご迷惑をかけてしまって、本当に看護師さんをはじめ、あの場にいた他の患者さんに何と謝っていいのか分からないくらい、自分が起こしたことに反省しています」と目に涙を浮かべさせながら守は、目の前にいる主治医と看護師へ向けて深々と頭を下げた。

「突然のことなので、綾瀬さんの反応は他の人と比べても、特に変わっている方では無いですから、そんなに気にしないでください」と主治医が守へ向けて話している横では、その言葉に対し納得がいっていない様子の看護師の顔が守には見えていたので、看護師の方に向け再度深々と頭を下げた。

看護師の手によって、ロープによりベッドと繋がれていた守は主治医から「少し車椅子に乗って院内を散歩しても良いですよ。病気に関しての話は綾瀬さんとお母様の日程が良い日を看護師に伝えていただければ、私もその日程に合わせるようにします」と守へ伝え、看護師たちに後のことを任せると部屋から出ていった。

「車椅子を準備してくるので少し待っていて下さい」と、一人の看護師が守へ伝えると、残りの看護師二人は守の腕に付いていた点滴のチューブを外したり、血圧と体温などを計測したりしてカルテへ記入し終えた。

一人の看護師が守の方へ軽く一礼をしてから部屋を出ていき、部屋には守と看護師一人が残された。

守は「ありがとうございます。本当に」と自分の腕に血圧を測る機械を外す看護師に向けて小さな声にすると、すごく恥ずかしく、秋に咲く紅葉のような赤色みたく、自分でも顔が真っ赤になっていることがわかった。

守の言葉を聞いた看護師は、「苦しかったり、辛かったりする気持ちはわかりますが、もうこれからは暴れたりしないでくださいね」と少し笑いながら交換した点滴の入れ物を片付けながら、守へ言葉を返した。

その言葉が優しく守の心を包み込むように感じ、幼い頃に母親から褒められた時のように暖かい気持ちになり、ものすごく恥ずかしく、守は黙って静かに頷くと窓の外に目を向けた。

外は風も吹いていなく、とても穏やかで静かで空は少し雲があった。

その合間から太陽の光がとても綺麗に大地へ向かって射していた。

その光によって、街にある高層ビルや様々な形や高さの家が、まるで一枚の水彩画のようにとても鮮やかに見えた。





自分の好きなことが出来なくなることは、体験した人にしかその辛さや苦しさは分からなく、結衣はそのことを身を以て感じていた。

原発性硬化性胆管炎の症状に多く見られる、疲労感や発熱などが日を追うごとに結衣にも徐々に見られ出していた。

幼い頃から食欲旺盛で美味しいものを食べることが大好きな結衣だったが、今までと変わらず一日三食必ず食事を摂っても、一週間で約三キロも体重が落ちてしまった。

それに加えて、ストレスも病状と重なり母親が作ってくれる食事に対して、心の中では感謝し、美味しく食べたいという気持ちがあるのだが、病気の症状からくる疲れが食べるという動作をひとつとっても、以前に比べすごく困難になっていた。

病院で、原発性硬化性胆管炎と診断されてから職場に休暇届を出して、毎日自宅での生活が始まっていた。

結衣は、実家暮らしなので食事や洗濯は全て母親が代わりに行ってくれていたので、食事の時間の時以外は自分の部屋でスマホを触ったり、ベッドの上でボーッとしたり、自分の病気についてのことを調べたりしていた。

けれども、原発性硬化性胆管炎からくる疲労感が結衣を襲い、スマホを操作しているだけでも以前と比べて、すごく体力を消耗して一時間程度でヘトヘトになってしまう。

スマホで映画を観たり、自分が興味のあるファッションブランドのtweetを見たりして時間を潰していたが、だんだんとやることがなくなってきたり、自分の病気について考える時間が増えてきたりしていた。

病気のことを考えていると、これから私の身体はどうなっていくのか、以前のように仕事へ戻ることが出来て患者さんや同じ職場の人のために役立てるのか等と考えると、すごく不安と恐怖ですぐに心がいっぱいになった。

元気に仕事をしていた時は休みの日になると、自分が気に入っている服を着て、職場の同僚や先輩たちから聞いた美味しいものがあるカフェへ行ったり、可愛い洋服があるという情報をSNSでチェックして、自分へのご褒美としてケーキを食べたり、チェックしていた洋服を見に行ったりして過ごすことがすごく楽しみだった。

だが、今は二階にある自分の部屋から一階のリビングまで歩いていくのも日を追うごとに困難になっていった。

妹の部屋も結衣と同じ二階にあるので、朝起きて妹がいる時は結衣が一階へ降りていく時には階段から落ちないように、サポートしてもらい一緒に階段を降りるようになっていた。

姉妹の仲は良くて、幼い頃から一緒に遊んだり学生の頃は洋服を交換したり、とあまり喧嘩をしたことが無く、お互いの悩みや恋バナなどを聞きあったりしていた。

だから、結衣が原発性硬化性胆管炎と診断されてからも、妹は出来る限り姉の力になろうといろいろなことを協力してくれていた。

結衣はその気持ちに対し心から感謝していて、何かやってもらったら「ありがとう」と笑顔で返すことは忘れないように心がけていた。

結衣が原発性硬化性胆管炎になったことを知っている人は家族以外では、職場の上司や仲の良い同僚ぐらいにしか伝えておらず、“私のことで心配もかけたくない”といった気持ちが結衣の中でとても強くあった。

学生時代から連絡を取り合っている友達には、少し疲れたから今は仕事を休んでいるよとしか伝えていなかった。

原発性硬化性胆管炎と診断され病院へ受診する日以外の、ほとんどの時間を家で過ごしていた。天気の良い日は家の前を三十分くらい散歩したり、好きな映画やドラマやファッションに関する情報などをチェックしたりとあまり刺激が無い中で時間がすぎていった。

病気にかかってからは、なるべく母親の前では明るく振る舞うことにしている結衣だった。が、日を追うごとに自分の体力が落ちていき以前は人の手を借りなくとも、自分で出来ていたことが出来なくなって、さらに精神的負荷が大きく結衣にのしかかっていた。

家にいるからといって生活リズムを乱すこと無く、なるべく決まった時間に起きて母親と妹と一緒に朝ごはんを食べ、その後は自分の部屋で過ごすという、病気の有無問わず健康的な生活を心がけていた。

一階のリビングのテレビから、「誰にも相談することが出来ず、こういった最期を迎えてしまった様子です」といったおそらく誰かが自分で命を絶ったことに関するニュースが流れてくるのを、とても小さい音が二階にいる結衣の耳に入ってきた。

職場で様々な病気と闘っている患者に対し「きっと、大丈夫ですから」「前のように元気になって好きなことをしましょう!」と笑顔で言っている結衣だが、いざ自分が大きな病気になって家で過ごすことになり、好きなことが出来なかったり、いきたい場所へ行けなかったりと、それまでの状況から大きく変化していく時に、自分が良かれと思って患者に対しかけていた言葉が、本当に正しいものだったのかと疑問とともにすごく怖い気持ちが結衣の中に生まれてきた。

“医療は完全なものではない”

看護師を目指した頃からそのことは理解していて、常に頭のどこかに置いて忘れずに患者や仕事と向き合っていた。

が、原発性硬化性胆管炎というものを抱え生活する中で様々なことにおいて制限が出来て、やはり以前のように毎日職場へ行き仕事をしたり、休みの日は自分が好きなファッションでカフェへ行ったり、友達と話ができる生活へと戻りたいと結衣は強く思っていた。

そんな強い思いを持ちながら翌日のお昼から月一回の受診だった。なので、お風呂を早く済ませて二十一時前には寝て朝を迎えた。

一階からはまな板に包丁が当たる音や、何かをフライパンで痛めている音が聞こえてきて結衣は目覚めた。

妹の部屋からは人の気配を感じられず何回か名前を読んだが返事が無かったため、自分の枕元に置いていたスマホで一階にいる母親へ、今起きたとLINEを送り二階から一階へ降りる時に、転ばないように母親へサポートしてもらう必要があった。

母親へLINEを送った後に友達から届いていたLINEに返事を返そうと思い、届いたメッセージを読んでいると結衣の部屋の扉をトントンとノックする音がし、「はぁい」とスマホを見ながら返事をすると母親がエプロン姿で来てくれた。

「ちゃんと、火止めてきた?」と少しでも明るい雰囲気を作るようにとなんとか言葉を出した結衣。

前日の朝よりもほんのわずか階段を下りるのが遅くなっていることを、結衣も母親も感じながらも一歩ずつゆっくりと、リビングにある食卓の結衣がいつも座る椅子まで一緒に歩いて行った。

「今日の通院で何か新しいこと、わかるかな?」と結衣はコップに入ったオレンジジュースを口元に近づけながら、母親へ言葉を発した。

キッチンでフライパンの上に置かれた卵とベーコンの焼き具合を見ながら、結衣に背中を向けたまま「そうだね。少しでも病気のことがわかって、あんたが楽に過ごせればね」と母親は背中越しに言い、お皿に卵とベーコンを乗せてオーブンで焼いていたパンを一緒に結衣の目の前に置いた。

「いただきまぁす」と胸の前で掌を合わせた後に目の前に置かれた朝食を少しずつゆっくりと結衣は食べ始めた。

その様子を結衣の目の前に座った母親は、優しく笑いながら眺めているのを結衣は「なに?食べているところを見られるの恥ずかしいんだけど!」と母親に向かって言いながら、スマホで友達に書いたLINEの返事の続きを打ちながら朝食を食べていた。

病気を抱えるまであれば、朝食を食べ終わるのに約二十分で済んでいたのが、今では完食すら出来ずお腹いっぱいになるのと、自分で食べることの体力の消耗が勝ってしまい、約四十分もかかって完食できずに終わる。

結衣が食べきれず残したものを、自分の目の前にお皿ごと引き寄せて、美味しいのにぃと母親が笑顔で言いながら新しいフォークで食べ始めた。

「十一時前には家を出て車で病院まで向かうから、それまでに準備を済ませよう」とスマホの画面をずっと見ている結衣に向かって母親が言うと、「わかった。じゃあ、そろそろ着替えたいから部屋に戻る」と結衣が言うと二階から一階まで降りたのと同じように、今度は一階から二階の部屋へ戻るためにまた母親に手伝ってもらい階段を上がって行った。

結衣は自分の部屋へ戻り、簡単に着られて尚且つオシャレな洋服を選び時間をかけて少しずつ自分の力だけで着替えを済ませた。

下の階から母親の声で、「車にエンジンかけてから手伝いにくるから、絶対に一人で降りないでね」と聞こえ、既に着替え終えた結衣はベッドの上でスマホに映る原発性硬化性胆管炎に関する情報を眺めていた。

二階にある結衣の部屋から階段を降り一階の部屋をすぎて、玄関を出て駐車場に止まっている車に乗り込んだ。

母親が運転する車は自宅を出て病院までの片道約二十分を走り出して、車の中では、結衣が今一番欲しい洋服や母親と結衣が共通の好きなアーティストの話で盛り上がっていた。

病院へ着き、受付に置いてある名前を書く用紙に“小田結衣”となんとか自分の力で記入し、待合室に置かれたベンチに母親と並んで自分の名前が呼ばれるまで座って待つことにした。

その間も車の中でしていた話の続きを母親とキャッキャキャッキャと楽しく会話を交わしていて、周囲からすれば結衣と母親の姿がまるで姉妹かのように仲が良く見え、さらに結衣が原発性硬化性胆管炎であるとは分からないぐらい幸せそうな光景だった。

「小田さん、小田結衣さーん」と看護師の声が聞こえ、先ほどまで楽しく母親と話していた結衣は「はーい」と返事をしながら座っていたベンチから立ち上がり、自分の名前が聞こえた看護師の声の元へとゆっくりと母親の手を借りながら歩いて行った。

医師が待つ部屋に入ると、笑顔の結衣の顔を見て「すごく元気そうで。お身体の具合はどうですか?」と主治医が結衣に尋ねると、目の前に用意された椅子に座りながら「だんだんと自分一人で出来ることが減って、少し動くだけですぐに疲れてしまいます。それが日を追うごとに増している気がして」と結衣は正直に生活で感じたことを主治医に話した。

けれども、生活する中で感じている辛いとか苦しいとか怖いとかと、本当に結衣が心の中で感じていて、一番身近な存在である母親にもまだ打ち明けていないことまでは、目の前にいる主治医に対しても伝えることが出来なかった。

「先生、この子の病気は治るものなのでしょうか?」と母親がいきなり主治医に対し真剣な面持ちで言葉を発した。

それは結衣が一番聞きたかったことである。

「ちょっと席を外してくれる?」主治医の側にいた看護師にそう言うと、部屋には結衣と母親と主治医の三人だけが残り、糸が張り詰めたかのような緊張感で一変した。

「結衣さんも医療の現場で働いているので、あまり回りくどくせず結果だけお話します」主治医のその言葉を聞いて結衣の鼓動が早くなった。

「今の医療技術では、結衣さんの原発性硬化性胆管炎という病を治すことは残念ながら不可能です」

結衣と母親の顔から一気に血の気が引いていき、結衣の隣で丸い椅子に座っていた母親が身体のバランスを崩し目眩のように一瞬ふらついたのが結衣にもわかった。

“治すことができない”

すなわちその先にあるのは死である。死という文字が結衣の頭の中を駆け巡った。

ショックを超え自分のことだとはまだ受け入れられず、目からは涙がこぼれ落ち自分の手の甲へと落ちていた。

テレビドラマで死を告知されその場で泣きじゃくるシーンをよく目にするが、実際そういった状況になったときに感情を外へ出す力すら出てこないことを結衣は身を以て体験した。

その日はこれからのことについて具体的な話はせずに、主治医からは「おうちで結衣さんとご家族でゆっくり話をしてほしい」と最後に言われた。

家から病院へ向かう明るい車内の雰囲気とは真逆で、結衣は黙ったまま窓の外の風景を見て、母親は車の運転に集中していて車内はとても暗く重い雰囲気でいっぱいだった。

自宅に到着し母親のサポートしてもらい、結衣は自分の部屋へ戻り着替えもせずにベッドの上に寝転び天井をただただ見つめて、主治医からの言葉を何度も思い出していた。

幼い頃に医療によって命が助かり、自分と同じように医療を必要とする人へサポートする職に就き、そして自分が医療を必要とする身体になったことを俯瞰的に考えていた。

部屋の窓から差す夕日が徐々に小さくなって、部屋の中も暗くなってきていたが照明を点けることをせずに、結衣はベッドの上の布団の中に入り一人泣いていた。

“わたしが、死んじゃう?”

ベッドのシーツが涙で濡れ、シーツの下にある敷布団の模様がわかるくらい大粒の涙が次から次へと溢れ出て、何とか一階にいる母親に泣き声が届かないように、口に力強くかけ布団を結衣は押し当てた。

気がつくと結衣はベッドの上で寝てしまい夢の中へ入っていった。

そこには白衣を着た結衣が病院で働いていた。周りを見ると他の看護師たちや医師がせっせと忙しそうに自分たちが抱えた業務に当たっていた。

結衣はいつものように、翔の元へ行き笑顔で話しかけようとしたが「そんなに無理しないで、もっと自分を大切にしたらいいんじゃないの?何で他の人に頼ったり、お願いしたりしないで、一人で頑張ろうとするの?」という言葉が翔から出てきた。

結衣はハッとさせられ「そっか。やっぱりそう周りからは見えているんだね。元気付けようとしている人が落ちこんでいたらダメだよね」と返事をした。

「そうだよ!いつも笑顔でいてくれるのは嬉しいけれど、もっとありのままの姿で僕をはじめとする患者たちに関わってくれれば、もっと嬉しいよ」守はそう言うとスッと姿が消えてしまった。

“人に頼る”

夢から目覚めて手元のスマホに表示される時刻を見ると、既に深夜一時を回っていた。

夢の中に出てきた翔が言っていった言葉が、すごく結衣の心に刺さりベッドの上から天井を見つめながら、今までの仕事においての考え方や、休日の過ごし方や将来に対しての考え方などを、もう少し向き合い直していこうと思った。

それでも心の中には、迫りくる死と向き合いながら、これからの生活をどのように送っていくことが、自分にとっても家族にとっても良いのかを考えていた。

自分がこの世界からいなくなった後も母親や妹などにとって、出来るだけ悲観的な状況を作らないことが自分の役目であり、最後の役割だと考えた。

家族には、なるべく悲しい思いをさせないためには、原発性硬化性胆管炎のことをさらに知っていき自分と同じ状況にいる人などに対して、結衣が持っている力や知識で出来ることがなんであるかを考えていき、そこに向かって力を注ぐことが結衣の生きた証になると考えていた。

“そうだ!私が生きていたという証を残そう!!”

具体的にどういった形で、どのような方法で“生きた証”を作って残していくことについては結衣の頭の中にはまだ無かった。ただ結衣にとって、徐々に体力が落ちていく中で、自分で出来ることが減っていくことによって無力感や絶望感を味わうことは確実だとわかっていた。

そのような状況でも看護師として、一人の女性として以前のように直接医療には関わることが出来なくても、様々な病気と闘っている人たちの希望や光になることが、原発性硬化性胆管炎という病を抱えているからこそ行えることの一つでは無いかと、結衣は考えていた。

不安や絶望という黒い雲に覆われていた結衣の心に光が差してきて、徐々に青空が顔を出していくかのように結衣の心も少しずつ、以前のような明るく前向きなものへと変わっていった。が、心とは裏腹に相変わらず結衣の身体には倦怠感があり、以前のようにスムーズに動かすことは日を追うごとに難しくなっていた。

翌日から結衣は朝食を済ませた後は、自分の部屋のベッドの上でタブレットとスマホを使って自分の病気に関する情報や、その日の自分の健康状態を主に気になったことや変化したことなどを文章やイラストなどで記録として残すようになっていった。

ネットに流れている情報だけでは不確かなことが多いため、原発性硬化性胆管炎に関する書籍を買ったり、自分と同じような思いで生活している人のオンラインサロンに入って積極的にコンタクトを取って、自分の家から距離が近い人であれば直接会ったりして、時には日付が変わる遅い時間まで原発性硬化性胆管炎を抱えて生活する中での苦労や工夫していることなどの情報交換などに対して積極的に力や時間を割いていった。

といっても、原発性硬化性胆管炎の症状のひとつである倦怠感が強くでてしまうこともあるため、自分の身体に無理はしていないかと問いかけながら、一日ボーッと映画やドラマを観たり、好きな漫画をずっと読んだりと過ごすことで、身体的にも精神的にも負荷が大きくかからない状態を自分で作っていた。

結衣はそうやって自分に合った生活スタイルを作っていった。自分でその日一日を後悔せず充実した送り方をすることにより、少しずつ迫ってきている死に対しての恐怖や不安をあまり感じなくなっていた。

それでも、海の波のように時には恐怖や不安が一気に埋め尽くすくらいの勢いで、結衣の心や身体を支配する時もあったが、母親や妹に頼ることを以前に比べて積極的になっていた。

“一人で頑張り過ぎず、人に頼ること”

少しずつこの考えが結衣の中で大きくなっていき、自分の力だけで行えないことは以前よりも自ら母親や妹に対し声をかけ手助けしてもらい、自分の体力がある時はなるべく自分の力で行っていきながら、バランス良く身体や精神にとって無理なく生活が送れるように心がけていた。

少しの変化もスマホの中に日記として記しておくことを、毎日のように継続していた。

それは、自分と同じ原発性硬化性胆管炎を抱えた人や家族のため、そして何よりも結衣が“生きた証”として残るように。

毎日必ず朝の八時までには着替えを済ませて、リビングのテーブルで母親が作った朝ごはんを妹と食べるようにしているのだが、この日はなかなか七時にセットしたアラームが鳴っても倦怠感が強く出ていて自分で身体を浮かすことが難しい状況だった。

なんとかアラームをストップさせるまでは身体を動かすことができたが、一階にいる母親に“起きたよ”というLINEを送ることが出来ず、ベッドの上でどうしようと考えながらウトウトしていた。

一階のキッチンで朝食の準備をしていた母親は、リビングの壁に掛かっている時計を確認してエプロンに入れてあるスマホに手をやり、結衣からのLINEがまだ来ていないことを確認すると少し不安になり、お皿に盛り付けたものをリビングのテーブルに置いてから二階の結衣の部屋の扉をノックし「結衣?大丈夫?もう起きているの?」と扉越しに声をかけ「起き上がれないから手伝って」といかにも眠そうな結衣の声で返事がした。

扉の向こうから聞こえてくる、結衣の声から母親は疲れ切っている様子を感じ取った。部屋の扉を開けベッドに横たわる結衣の身体を優しく起き上げさせて「たまには母さんと遊びに行かない?」と結衣に聞くと「うん」とだけ返事を返し、ゆっくりと階段を降りて一階のリビングのテーブルの椅子に結衣を座らせた。

母親は先ほどお皿に盛り付けた朝食を「食べられる分だけでいいから」と言いながら結衣の前へ置いた。いつもであれば、ありがとうといったように自分の気持ちを言葉にするのだが、小さな声でスマホに姿勢に置いたまま「うん」とだけ返事をした。

「ねぇ、どこか行きたい所ある?お母さん今日は結衣の行きたいところとか、やりたいことに付き合うから」と明るく尋ねた。

結衣は右手にフォークを持ちお皿に盛り付けてあるソーセージと卵を刺しながら、「そうだね。行きたいところかぁ。お母さんとならどこでもいいよ」と俯いたままフォークに刺さったソーセージ卵を口元へ運びながら、小さな声で母親へ返事を返した。

「分かった!結衣が好きな美味しい甘いケーキを食べて可愛い洋服をお母さんからプレゼントするね」と、まるで結衣と同じ年齢かのように明るく元気よく、結衣に向かって言うと手に持っていたカップを持ち、キッチンに向かった。

母親はキッチンで皿やフォークなどを洗いながら「コレ洗い終わったら、二階まで上がるのを手伝うから着替えてきてね」というのに対し、「ねぇ、面白そうな映画があったんだけど」と結衣の声が聞こえ、エプロンに入れてあるスマホが振動し結衣からのLINEを開いた。

“えんとつ町のプペル”という文字と、帽子を被った男の子のキャラクターの画像が写っていた。

「どこの映画館で何時からやっているの?」と母親が結衣に尋ねると、「今調べたからLINEする」と返事があったと同時にまたもやスマホが振動し、上映スケジュールという文字が映り結衣の家から近い映画館の場所や、上映スケジュールの情報が文字として並んでいた。

買い物をして昼食を済ませて、と頭の中で予定を立てていた母親は十四時の回を観るというものだった。

「じゃあ、十四時の回にしない?それまでに美味しいもの食べたり、可愛い洋服を見たりしてから映画は?」と結衣へ言うと、「それでいい」とだけスマホを操作しながら、結衣は返事をした。

病気に罹る前であれば、着替えに要する時間は五分もあれば十分だったが、今は手足の痺れがあったり、倦怠感があったりすることで三十分から四十分くらい時間がかかってしまう。

更に、普段からあまり自分の部屋以外で動くことが少ないため、着替えをするだけでもすごく体力を消費する。

身支度をして出掛けるころには、ヘトヘトになってしまうことが日に日に増えてきている。

家族に対しては、なるべくそういったマイナスの感情を見せないようにして、出来る限り明るく振舞うように心がけていたが、それでも心が折れそうになった時は、ベッドの中で涙を流したり、枕に顔を押し当てたりして声を出して発散していた。

この日も、約三十分掛けて着替えとメイクを済ませて、スマホと財布などを首から下げる小さなポーチのようなものに入れて出かけられる準備が整った。

一階にいる母親へ“準備終わった”とLINEを送って母親が結衣の部屋まで来るまでの間、何度も鏡を見てメイクの出来や髪の毛がしっかりとセットされているかを入念に確認していた。

自宅から約四十分離れたところにある映画館が隣接してある大型ショッピングモールへ向かった。

ショッピングモールへ到着して、お目当ての洋服やアクセサリーを見ていると母親が結衣に向かって、「あと二時間で映画が始まるから、お昼でも食べない?」「そうだね。お腹すいたし早めに食べよう」と返事をした。

結衣も母親もイタリアンが好きなので、たまたま通りかかったピザ専門店で昼食をとることにした。

店内に入り、メニューを見てオーダーして料理が届くまでの間、このあと観る“えんとつ町のプペル”についてのことを母親から結衣に対し、「芸人さんが描いた絵本が原作になっているんだよね?なんでこの映画を選んだの?」など結衣に対し笑顔で聞いてきた。

「なんか、一人で作っているんじゃなくていろいろな人が得意なものを描いて絵本にしたらしいよ。Twitterとか見ていたら、“力をもらった”とか“何かに挑戦してみようと思った”とか書いてあったから、今、観たら何か変わるのかなと思って」とコップに入った水と氷をストローで無造作に混ぜながら言葉を発した。

“なにかに対し挑戦したい”

その一歩目を踏み出すために映画で無くても、誰かに「大丈夫だよ。きっとできるよ」と一言後押ししてもらえたら、結衣はこの先も原発性硬化性胆管炎を抱えながら“生きた証”を、死を迎える直前まで残せると考えていた。

イタリア料理を食べ終えると、映画上映時間まであと三十分と迫っていた。結衣と母親は少しずつ映画館の建物の方へ歩いていった。

病気の影響で、何も無ければ歩いて二十分で到着するところも結衣と母親はゆっくりと歩いていき、四十分くらいで映画館に到着した。

結衣と母親が館内に着くとすでにシアターでは、これから公開される映画の予告の映像が流れていたので、指定された席へとなるべく他の人の邪魔にならないように背を低くしてゆっくりと席へ進んでいった。

結衣はTwitterに書かれている情報や友達との会話で、作品のあらすじについてはある程度知っていたので、ほかの作品を見る時とのドキドキ感は低かった。

作品が始まり気付くと結衣は大粒の涙を流していた。

“誰も見てないのだろう!だったら、まだわからないじゃないか!?”

劇中に出てくるキャラクターのセリフが、結衣の心を貫き隣に座っている母親やその横にいる客まで聞こえるくらいの嗚咽を出しながら大泣きした。

毎日の生活に希望が持てず、これまでの人生の中で結衣にとって初めて絶望というものを経験してきた中で、毎日のように日記を書くことで自分が“生きた証”を残し原発性硬化性胆管炎や様々な病気を抱えて生きている人のために、少しでも自分の姿が希望となって他の人の“生きる力”へ変わることを想いながら続けてきた。

そのことが観ている“えんとつ町のプペル”によって、私が考えていたことは間違いでは無かったと結衣の中で、ガッシャンと音を立てながら確信へと変わった。

映画の上映が終わり結衣をはじめ作品を鑑賞していた観客の拍手でスクリーン内は包み込まれ、徐々に拍手が鳴り止んでいっても結衣は自分が座っている席を立つことができなかった。

家へ向かう車中で結衣は、自分が看護師を目指したきっかけとなった幼少期のあの優しい看護師のことを思い出し、そして原発性硬化性胆管炎となって、あとどれ位の時間を生きられるかわからない中で、改めて自分が出来ることに対してしっかり取り組んでいこうと考えていた。

母親が運転する車は無事に自宅へ到着した。

母親に支えられて二階の自分の部屋へと結衣は戻り、着替えを済ませてからスマホに今日感じたことや考えたことなどを、文字として丁寧に綴っていった。

カーテンが開きっぱなしになっている窓からは、まん丸の月と輝く星が夜空に見えていて結衣は窓を開けた。

外からは冷たくもなく暖かくもない風が部屋の中に入ってきて、結衣はスーッと深呼吸をして夜空を見ているとキラリと光る星が見えたと思ったら消えていった。





なぜあんなに感情を乱しあらゆる人に迷惑をかけ、その結果ベッドにロープで拘束されるということが起きたのか理解するのが困難だった。

あれからベッドと守の身体をつなげていたロープは外されて、以前のようにベッドの上で読書をしたり、再放送のように同じような情報を流しているテレビ番組を観たりして、大人しく入院生活を送っていた。

二週間に一回のペースで守が勤めている会社の同僚が様子を見に来る度に、毎回のように「戻ってこられそうか?」と守の身体を蝕んでいる、虚血性心疾患の存在のことなど知る由も無かった。

また以前のように職場へ復帰して一緒に働けることに何の疑いも抱いていない様子の同僚へ、「ううん、その事についてなんだけど」と守は恐る恐る言葉を放った。

いつか自分が抱えている病気のことを職場へ伝えて、もう以前のように働くことは出来ないことを、しっかり伝えなければいけないと守は考えていた。

職場からすれば守一人がいなくなったとしても、会社全体としては大きなダメージにはならず、あっという間に守の代わりとなる人材を新たに確保か育成して、守の存在など無かったこととして時間が経過していくのである。

だからこそ、早い段階で自分が抱えている病気のことや退職という道を選択せざるを得ないことを伝える必要があった。

ベッドで上半身だけ起き上がり、椅子に座った同僚の方を見ながら自分が抱えている病気のことをイチから伝えて始めた。

少し休暇を取れば、また一緒に働くことになると思っていたであろう同僚は守の話を聞くにつれ、それを現実にしていくことは難しいことであると同時に、守が虚血性心疾患と一生懸命向き合って残りの人生を全うしていることが、言葉の一つひとつから伝わってきた。

「お前や会社のみんなには心から感謝しているし、こんな形で辞めることになったのは本当に申し訳ないと思っている」とベッドサイドの椅子に座っている同僚に対し、守は頭を下げた。

「話してくれてありがとう。会社の上司には俺の方から伝えておくから」と同僚の気持ちと言葉に対し、ものすごく胸が熱くなり嬉しさとどこか照れ臭い気持ちになった。

「じゃあ、そろそろ会社に戻って溜まっている仕事とお前が残していったお荷物たちを片付けに戻るわ」と冗談を交えて守へ言い残すと、ポケットから缶コーヒーを消灯台の上に置き部屋をあとにした。

守は「ありがとう」と部屋を出ていく同僚の後ろ姿に向かって守は呟いた。

それまで守の胸の中に引っかかっていたものが、すっと消えたかのように胸や肩をはじめ身体が軽くなったような感覚になった。

一日の大半はベッドの上で読書をしたり、テレビを観たりして過ごすことがある中で、ずっと同じ姿勢でいることで、血流が悪くなってしまうのを防ぐために車椅子へ移り院内にある売店へ行ったり、中庭へ出て外の空気や太陽の光に当たったりしていた。

守にとって車椅子を使い少しでも、院内と限られた場所であっても自分の意思で移動できることはすごく幸せなことであった。

病院の中庭にある大きな木の下で病室から持ってきた本を読むことが、無機質で何の刺激のない入院生活の中で、守にとって唯一の娯楽であった。

読書をしながら見舞いに来た家族と楽しそうに過ごしている患者や、守と同じように一人で缶コーヒーを飲みながら、空を眺めている人などを観察することも守にとって楽しさのひとつであった。

守は中庭に来る途中に売店で買った缶コーヒーのフタを開け一口、二口と飲みはじめ、病室にいるときは病院から出される麦茶か水しか飲めないので、こうやって自力で車椅子を使い中庭に来て缶コーヒーを飲みながら空を眺めることが、入院してから気づいた幸せの一つであった。

二十分という短い時間だったが、それまでずっとベッドの上での生活が続いていた守にとっては、その二十分という時間の中でいろいろなことを考え、目に映るものや耳に入ってくる人の会話など全てのものが、新鮮に感じられた。

病院の中庭からゆっくりと自分で車椅子を漕ぎ院内へ戻り、入院患者の病棟があるフロアへとエレベーターを使い向かっている途中に、入院したての頃に車椅子に乗って俯き姿の翔のことを思い出した。

会話はおろか挨拶すらしたことがないにも関わらず彼の存在が気になりベッドの上でも、どこかで会ったことがあるのかと考えたり、記憶を何度も辿ったりしてみたが、会社とアパートの部屋の往復以外であまり外出することが少ない守には、中学生くらいの年齢の人との関わりや接点が全くない。

守が翔に関して知っていることは、臓器提供者が現れるのを待っていて学校へ通えずにずっと病院で生活をしているということを、結衣という看護師から聞いたくらいだった。

そのことを知ったからといって、今の守に出来ることはないのだが、彼の今の状況やこれから臓器提供者が現れて助かるかどうか等といったことが気になって仕方なかった。

そんなことを考えながら自分のベッドがある部屋に到着し、ナースコールを押して車椅子からベッドへ移るために看護師が来るのを待っていた。

看護師の手を借りてベッドへ移り消灯台に置いてある麦茶を飲んでから、夕食が届くまでの退屈な時間を有意義に使おうと黙々と読書をし始めた。

守にとって読書は様々な知識を取り入れるものでは無く、普段考えていることや人に対して抱いている感情などを整理できるものでもあった。そして、その時間がとても心地よく感じていた。

入院する前であれば、仕事が終わりアパートへ帰ると、そこには誰一人いなく存分に読書を楽しむことができていたが、入院生活が始まってからは守と同じ部屋に他の患者がいたり、決まった時間になると食事が出てきたり、夜になると否が応でも部屋の電気が消され寝る以外のことができない。

人とのコミュニケーションといえば、一日三回の食事を守のベッドまで配膳してくれる看護師に対して、「ありがとうございます」

と伝えたり、毎朝行われる健康チェックの時に「体調いかがですか?」と看護師に聞かれたことに対し「大丈夫です」と返事をしたりするだけだった。

例えるのであれば、空に流れる雲のようで風が吹かなければ動きもせず、形を変えることすらない。

季節によって気温や湿度が変化して、それにより雨が降ったり、強い日光が降り注いだりして、空の下にいる人や動物などの生活に変化をもたらすのである。

そういったことと似たように、毎日が同じように流れていく中で大きな出来事が起きることが少なく、守にとっては入院当初から比べると徐々に快適で過ごしやすい空間になりつつあった。

それは守が虚血性心疾患と真正面から向き合うことを心に決め、毎日を暗い気持ちで過ごすことよりも以前のように会社で働いていた時と比べ時間の余裕があったからだ。

余裕ができた事で自分が好きな読書をすることや、これから先のことについてゆっくりと考える時間があると、考え方が前向きに変わっていった。

虚血性心疾患が完治したとしても、以前のように職場復帰が必ずしもできるというわけではない。ましてや自分の意思で退職届を出した以上は、病院から退院したとしても生活をイチから作り直す考えが既に守の中に出来上がっていたので、退院したら実家へ戻るという気持ちを母親へ伝えたところ、「分かった。解約手続きに必要な書類があったらここへ持ってくるから」と守へ返事をした。

いつもは母親のことを煩わしいと思ったり、あまり関わりたくないといった気持ちが強かったりするが、今回のように自分が動けない状況で、何かと気にかけてくれて自分の代わりにいろいろなことを無条件に行ってくれる存在に対して、改めて感謝しなければと守は心から感じていた。

“ありがとう”この言葉だけでは守の心にある気持ちを全て母親に伝えることは難しいと理解していた。が、今の気持ちを伝えるのに適切で当てはまっている言葉が、いろいろな本を読んで様々な言葉を知っている守でも見つけるのが難しかった。

母親がいなくなりベッドの上で読書をしながら、時折窓から見える空を見ては翔や結衣のことを考えていた。

翔に関しては守と同じ病院内に入院していることは確かであるが、この一ヶ月の間で「病気になって休職しているみたい」と看護師から聞いたこと以外で結衣に関することは何も分からない。

異性として意識しているというわけでは無く、数多くいる看護師の中でも何か特別なものを彼女は持っていて、それが患者や同じ看護師の同僚など様々な人との関わりを見ていると伝わってくるのであった。

“今どこで何をしているのか”

まだ休職していて彼女の身に何が起こっているのかと気になっている一方で、他の看護師に対し「まだ仕事復帰していないですか?」等と守の方から聞く勇気は無く、きっといつかまた会えるのだろうと考えていた。

そのいつかが必ず来るという保証はどこにも無く、確率もかなり低いもので根拠などどこにも存在しないことだということは守も理解していた。

夕方の十七時五十分くらいに近づくと、部屋の一番奥のベッドにいる守は、最後に食事が配られて看護師から食事のメニューについての説明と食後に飲む薬を手渡されるのが、食事の時においてのルーティーンとなっていた。

守は必ず食事を残すことなくしっかりと食べて、入院する前より食事に対してのありがたみや毎日が同じように繰り返していく中で、食事がもたらす楽しさとありがたさを身を以て感じていた。

食事の時は、テレビを観たり新聞を読んだり本を読みながら食べる患者がいる中で、守はそういったことを一切せずに食べることに集中し味をしっかりと噛み締めて、大体三十分ほどの時間をかけて食べていた。

よく、人は大きな病気にかかったり、死を目前にするとそれまでの価値観や物事の考え方が変わるという話を聞いたり、本などで読んだりしたが、虚血性心疾患と診断を受けてから様々な出来事がありその中で徐々に守の考え方が少しずつ変わっていった。

また、以前は自分以外の会社の同僚や上司などの他人に対して関心や興味をあまり持つ方では無かったのだが、翔という少年と結衣という看護師のことだけは守の中で徐々に存在が大きくなっていた。

もし彼や彼女と会話をたくさん交わしてお互いのことを知っている間柄であれば、見かける回数が減ったり、会話をすることが無くなったりしたことはすごく大きなことになるが、口数が少ない守が積極的な性格で自分から話そうという姿勢があればもっと違ったのであろう。

もっと、翔や結衣のことが知りたい。今まで味わった事がない人に対してのそんな感情が守の中で徐々に大きくなっていった。

けれども、守の方から翔や結衣にコンタクトを取る手段がないことはおろか“話をするきっかけ”が無いことをクリアしていくことが、守が二人を知るためにとても大切で大きな一歩となっていた。

翔はまだ守と同じ病院で生活していることは間違い無く確かなことであるならば、看護師に守のベッドがある部屋から翔がいる部屋に行くために外出許可を貰わないといけない。が、同じ病院内とはいえ他の病棟へ行くことは簡単なことでは無く、様々な感染対策やセキュリティなどの問題があるため、看護師や医師以外は自由に病棟を行き来することは不可能に近かった。

もし、守と翔が親戚か家族という繋がりを持っていたのであれば少しは変わっていたかもしれないが、一度しか会っていないことが翔と直接会って話をする理由として看護師に友好的に使えるものではないと、守は頭の中で考えていた。

以前の守であれば、仕方がないと割り切って諦めていたのだが、虚血性心疾患とともに生きている今は諦めようとはしなかった。

自分でも、何故こんなに必死になって翔や結衣と会おうとしているのかが不思議だったが、直接会って話をする事が決して間違いでは無いことは守の中で揺らぎないものであった。

“やってみる前から失敗した時のことを考えても何も意味がない!!“

守はもう自分が後悔しない道を選んだり生き方を送ったりする事や、自分が妥協するような事はもうやめようと心に決めていた。

守が寝ているベッドサイドにある窓ガラスに、カシャカシャという音を立てて外からの強い風が吹いていた。

ふと守は窓の方を見ると、空は雲ひとつなく太陽と綺麗な青空で、ここから何かが動き出すような想いを表しているかのように目に映っていた。

守は読んでいた本にしおりを挟み、枕元にあるナースコールを押した。





主治医が、治療法についての説明に必要な情報が書かれた資料を準備するまでの間、翔と母親はベッドがある部屋へと戻っていった。

翔も母親もお互い言葉を発すること無く、翔はベッドに戻らず車椅子に座って自分の膝下の辺りに目を傾け、母親は部屋の片隅においてあった椅子を翔の側へと座った。

時計の針がチクタクと音を立てて刻々と時間が進んでいる中で、翔と母親の間にはゆっくりとまるで時が止まっているかのようにそれぞれが別の空間にいるようだった。

思春期だということもあって、普段からあまり母親とは会話をする方ではなく、主治医が戻ってくるまでの間の期待と不安が入り混じっている気持ちを抱えながら母親とどう時間を過ごして良いのかが分からなかった。

主治医が、翔の病気に関する治療法の情報が書かれた資料の準備に準備に向かってから、三十分くらいが経過してもまだ部屋に訪れる雰囲気は無く、母親は徐々に焦りと不安が大きくなっていき看護師を呼んで「あとどれくらい時間がかかりますか?」と尋ねようかと考えた。が、一番不安にかられているのは翔であることをふと思い出して、じっと耐えて待つことにした。

少し部屋を離れても大丈夫であろうという思いと、このまま同じ部屋に翔と二人とも黙ったままいても、ますます暗い気持ちにさせてしまうと母親は気を遣い、「下の売店でお菓子を買ってくるけれど、何か欲しいものある?」と翔に尋ねた。

特に欲しいものは翔には無かったのだが、母親の優しさを無駄にしたくないと思い、そんなに欲しくもなかったが「ポテトチップスかチョコレート」と答えた。

病室に一人になった車椅子に乗ったままの翔は、自分の力だけで車椅子からベッドへ移動して疲れた身体を少しでも休ませようと思い、ベッドの上で横になり少しだけ眠りについた。

目を開けると翔の周りには同級生がいて、学校の教室で翔のことを囲んでワイワイと笑顔でいろいろなことについて話したり、戯れあったりしている光景が写っていた。

「学校終わったら、翔の家でゲームでもしようぜ!」という声に他の男子も「四時くらいに翔の家にいくようにするわ」と今すぐにでもみんなで遊びたいかのようなテンションで翔に話しかけてくる。

これは夢であると分かっていながらも翔は「わかった!あんまり大勢は無理だから!!」と返事をして学校のチャイムが鳴ると同時に自分たちの席へと戻り授業が始まった。

さっきまで病院のベッドの上にいたのに関わらず、中学生になってから一度も行ったことがない学校にいることや、他のみんなと同じ教室で授業を受けていることが、夢だと理解しつつもとても嬉しく感じていた。

三時くらいには全ての授業が終わり、翔を含む生徒が帰宅の準備をし始めていて、仲の良い友達と一緒に学校を後にするものや一人で帰宅する生徒がいる中で、翔は先ほどゲームをしようぜ!と言った同級生を含む四人と共に学校を後にした。

夢にしてはあまりにもリアルで、翔はもしかしたら今までの入院生活が夢であって、本来は見ているものや友達と共にしている時間が現実のものではないかと思ってきた。

「じゃあ、荷物をおいたら翔の家に集合!」と学校からの帰宅道を一緒にしてきた友達が自分の家に荷物を置くために、一人二人と次々にバラバラへと散っていった。

先ほどまで賑やかだった雰囲気から気づくと翔一人だけになって、とぼとぼと自分の家に向かって歩いていく中で、家で待っている母親はどんな顔をしているのだろうか。

本当にさっきまで一緒だった友達と、このまま時間を共にすることが出来るのかと現実的な考えと共に、早く友達と会って遊びながら楽しい時間を過ごしたいという思いが守の心に入り混じっていた。

家に帰り玄関のドアを開けながら、翔は恐る恐る「ただいま」と言うとキッチンのあたりから「おかえり!今日は寄り道せずに帰ってきたんだ」と聞き馴染みがある母親の声が聞こえ、いよいよこれが現実なのか夢なのか、翔は分からなくなってきた。

壁かけ時計を見ると、友達との約束の四時まであと十分しか無く、急いで制服から私服へと着替え一階に降りて冷蔵庫にあるジュースをコップ一杯飲み干した。

「あとで、ジュースとお菓子を持っていくから」とリビングでテレビを観ながら左側の掃除をしている、母親の声が聞こえた。

階段を登りながら「ありがとう」と翔は母親に向かって小さな声で言い、友達が待っている自分の部屋へと向かっていった。

あの入院生活はきっと夢だったんだ!と、翔の中で確信へと変わっていった。

これから毎日のよう友達と学校生活を共にし、楽しいことも悲しいことも一緒に過ごせることを考えた時に、気持ちを明るく切り替えて自分の部屋の扉を開けたと同時に、一瞬にして目の前が真っ暗になり、意識と身体の感覚が徐々に薄れていった。

翔が目を開くと、そこにはいつも見慣れている病室の天井があった。

両手で目を覆いながら、“やっぱりさっき見ていたのは全て夢だったのか”と理解していたことだった。

けれども、改めてその現実を目の当たりにすると、希望という光り輝いたところから、絶望という深く暗い闇の中へと一気に叩き落とされたような感覚になった。

主治医から提示された治療などが、翔や母親にとって、それまで分厚い雲のかかっていたところに視界眩しく輝いた光が差し込んだかのような状況が、先ほどの夢によってそのこと自体も信じられなくなっていた。

入院してから約五年で一度も臓器提供者が現れたり、今回のように治療法が見つかったりと、翔にとって明るい話が無かった。その中で、何の前触れもなくいきなり「治療法が見つかった」と言われてもそれを信じる事の方が、難しく恐怖が心の中に存在していた。

治療法についての説明が、という言葉が出た時に翔の母親の表情は、当事者の翔よりも明るいものになっているのを横から見ていた。

ガラガラと音を立てながら扉が開くと、ビニール袋を手に持った母親が下の階にある売店から戻ってきた。

ビニール袋からチョコレートを取り出して翔へ渡すと、翔はそれを受け取ることをしなかったので消灯台の上に置いた。

ベッドサイドに置いてある椅子に座りながら、ソワソワと落ち着かない様子の母親は売店で買ってきた飲み物を飲んだり、壁掛け時計を何度も見たりしていた。

母親は自分のバッグから、臓器提供に関する本を取り出して右手には気になった箇所に印をつけるために緑色のペンを持ちながら本を読み進めていた。

母親の目の下には疲れを表しているかのようにはっきりとしたクマが出ていて、きっと家でも寝る直前まで翔のためにといろいろな書籍を読んだり、臓器提供に関することを調べたりしているのが母親の姿から翔は感じ取っていた。

きっと、こういった時は「いつもありがとう」と自分の想いをしっかり伝えることが正解なのだろう。

頭では理解していても、自分の言葉として伝えるとなると恥ずかしさや素直になれない気持ちが勝ってしまい、翔は消灯台に置かれたチョコレートを見ていた。

主治医が翔の治療法に関する書類を準備すると言ってから一時間くらい経過した。

母親と翔の間にあった沈黙を切り裂くように、ガラガラと音を立てて病室の扉が開くと、クリアファイルが五枚ほど重なったものを持っている看護師とその横には主治医が「お待たせしました。別室に行くのも大変だと思うので、こちらで説明します」という横で、翔が食事の時に使っているキャスターが付いた机を看護師がベッドの足元に移動させて、持っていたファイルを置いた。

母親は椅子から立ち上がり「よろしくお願いします」と深々とお辞儀をすると、主治医に椅子へ座るように促された。椅子に座ると、バックからノートを取り出して先程まで読んでいた本と持ち替えて、これから説明されることを忘れないように書き残そうとしていた。

翔は羽織っていた布団を足元へずらし、上半身を起こしてしっかりと主治医からの説明を受けるために、話を聞く姿勢に体勢と共に気持ちを切り替えた。

「結論から申し上げますと…」と、そこから三十分くらい主治医から翔が抱えている臓器提供に関しての話や治療方法についての説明が行われた。

翔と母親は安堵と不安が入り混じったかのような感情が、表情として顔に出ているのが自分でも分かっていた。

ほんの少しだが、翔にとって大きな前進となる結果であると共に、翔も母親もまだ心の底から喜ぶことはできずにいた。

それは、臓器提供者になるのかもしれない人が見つかったということであると共に、その人が必ず地震の臓器を翔へ提供されることが約束されたわけではない。

そのドナーやその家族の考えや気持ちが変わった時には、当然のことながら翔の元へ臓器が提供されることが、また後になっていくのである。

その期待が形となるのが明日なのか、五年先、はたまた十年以上先になるのかという可能性はいくらでもあった。

それ以上に、この病院に入院してからずっと待ち望んできたことなので、臓器提供者が居なくならない限りは、翔が以前のように元気な身体で学校へ行ったり、大好きなサッカーを友達とプレーしたりすることが出来る可能性の方が、現時点では遥かに高かった。

それを翔が一番望んでいた事は確かなことであると共に、それと同じ位かそれ以上に普通の生活を送ることに対し、期待していたのは母親であった。

そんな二人の気持ちを表しているかのように、病室の窓から見える空はオレンジ色に染まり、所々にまだ青さと白い雲が鮮やかに残っていた。





原発性硬化性胆管炎と診断されて仕事を休み、自宅で過ごす時間がかなり経過した。

原発性硬化性胆管炎の進行からなのか、食事を食べる時に以前はスムーズに飲み込めていたが、一口サイズよりも小さく切った物で無いとと飲み込むことが難しくなってきていた。

たまに、気管の方へ食べ物が入ってむせてしまったりして、結衣の背中を母親が叩いたりして、なんとか飲み込むことが出来たりといったことが増えていった。

洋服を着替えることやシャワーを浴びる時も母親や妹の手を借りないと結衣一人の力では出来なくなっていた。

病院で勤務していた時には、今の自分のように以前は自分一人の力で出来ていたことが徐々に人の手を借りなければ出来なくなっていた。

患者をサポートする側で、何人もの人に関わっていて慣れていたはずだったが、自分がサポートされる側になって初めて、自分に対しての悔しさやもどかしさがあると共にサポートしてくれている母親と妹へ申し訳ないという気持ちが日に日に強くなっていた。

「ありがとう」その言葉だけは必ず口に出して、どんなに些細なことをしてもらった時でも母親と妹へ伝えようと結衣は心がけて伝えていた。

それは結衣も職場で患者から「ありがとう」等といった気持ちを言葉にしてもらうことで、よし!次も頑張ろう!!と思え、何より言葉があるおかげで患者のことを気にかけることに繋がっていた。

どんなに疲れていて体力が無くなっていってもしっかりと感謝の気持ちを言葉にしていた。

一日のほとんどは自分の部屋で過ごして、スマホを使って原発性硬化性胆管炎と闘っている人が綴ったブログを読んだり、原発性硬化性胆管炎を専門に診ている医者が少しでも痛みを和らげたり、病気と共にどうやって生活をしていくか等について話している動画を観たりしていた。

それでもずっとベッドや椅子に座っていては、体力が落ちるスピードが速くなってしまうのと、気分も落ち込んでしまうので自宅の前を散歩したり、体力に余裕があれば自宅から十分くらいの距離にあるコンビニまで行って雑誌や甘い物を買いに行ったりしていた。

結衣が外へ出ていく度に「大丈夫?何かあったら困るからスマホを必ず持っていってね」とまるで娘がどこか遠くへ行って帰ってこないかのように毎回心配そうにしていた。

「すぐそこのコンビニだし、回りに人もいるから大丈夫だよ」と心配そうにする母親を安心させるように結衣は笑顔を見せて自宅を後にした。

親からしてみれば、幾つ年齢を重ねても子供のことが心配であり、ましてや原発性硬化性胆管炎と診断されてからは、その心配な気持ちが大きな雲のように何倍にも膨れ上がっていた。

結衣の病気に関する情報はあまり多くなく、スマホの画面から見えてくる情報だけでは結衣は足りないと思った。

自宅を後にした結衣は、原発性硬化性胆管炎の言葉や治療法に関する本を探して購入したり、図書館でそのページだけをコピーして自宅へ持ち帰り、またスマホを使って調べたものを忘れないようにメモ帳アプリへ書き留めたりしていた。

ずっと病気のことを考えたり、自分の身体がこれからどうなっていくのかを想像したりしていても気分が暗くなってしまう。

そういった時は、漫画を読んだりNetflixでラブストーリーの映画やアニメを観たりして、意識的にメリハリをつけていた。

子供の頃から明るい性格で何事にもポジティブに捉え、どんなことがあっても笑顔を絶やすことがない結衣だが、病気が徐々に進行し始め身体を以前のようにスムーズに動かすことが少しずつ出来なくなっていった。

徐々に持ち前の明るさを保つことが少しずつ出来なくなっていき、母親の前では絶対に弱音を吐いたり、辛い表情が出たりしないようにしていたが、自分の部屋で一人になると恐怖と不安が一気に押し寄せ枕に顔を埋めて一階の母親に声が届かないようにしながら涙を流していた。

看護学校に通っていた時の同級生とたまにLINEを使ってお互いの近況報告や、仕事や職場の上司などの人間関係における愚痴を言い合ってはお互いを励ましあっていた。

母親は、昼間の十時から夕方の十六時まで週三日ほど自宅の近くにあるスーパーマーケットでパートとして働いていて結衣が原発性硬化性胆管炎と診断されてからは、パートで働いている時間が過ぎるとなるべく早く自宅へ帰るようにして、可能な限り結衣との時間を多く過ごし、夕飯を一緒に食べながら会話をするようにしていた。

病気の進行で手に力が入りづらく、自分の力で箸や茶碗を持ち上げることが難しくなっていき、向かいの席に座っている母親のサポートしてもらうことが増えていった。その度に「ありがとう」「そこの魚とって」等と数ヶ月前であれば、自分の力だけで何不自由なく出来ていたことが、原発性硬化性胆管炎などという、やっかいなヤツのせいで自分の思い通りにいかない時に、自分がしたい事を言葉にして伝えなければいけない事に対して、面倒臭く感じたり、苛立ちへと変わったりしていた。

結衣の中にある、そういった思いが自分ではなるべく表に出さないようにしていたつもりだったが、無意識の中で言葉の端端や少しの顔の表情としてしっかりと母親には届いていたが、母親は結衣が抱えている辛さだとか苦しみだとか苛立ちだとか、そういった様々な感情を空から強く降り注ぐ雨を吸収する大地の様に感情の全てを優しく、そしてキラキラと輝く太陽のように見守っていた。

夕食を終えてテーブルの上に置かれたスマホの画面をスクロールしながら、テレビから流れてくるお笑い芸人の楽しそうな声に耳を傾けて母親が入れてくれたコーヒーを飲んでいた。

夕食の食器を洗い終えた母親が、自分が飲む用のコーヒーが入ったマグカップを持ちながら結衣の問面に座り、「ねぇ、何か欲しいものとかあるの?」と結衣に尋ねた。

「うーん、外に出かける回数も減ったし、人ともそんなに会わないし。むしろ、お母さんは欲しいものとか無いの?休業手当で何か買ってあげるよ」と視線をスマホと目の前にいる母親との間を行ききしながら母親へ聞き返した。

両手で持ったマグカップを口に運びコーヒーを一口飲んだ後、「じゃあ!結衣とお揃いのものを買ってよ」と想像もしていなかった答えが母親の口から返ってきた。

そのことに結衣は驚き、持っていたスマホがパタっと音と共に掌から机に落ちて「お揃いのもの!?なんでまた一緒のもの?」とすごく嬉しい気持ちでいっぱいだったのを隠そうと必死になって、気がついたら言葉が口から出ていた。

翌日は母親の仕事が休みだったこともあり、新宿で買い物と散歩に結衣と二人だけでいく予定を立てて結衣がお風呂に入る時に手伝いながら寝るまでの歯磨きをしたり、ドライヤーで髪を乾かしたり、と結衣一人では時間がかかってしまうことを母親がサポートをして、ゆっくりと上がっていき部屋のベッドに結衣を座らせた。

ふーっと小さく息を吐いて「あまり遅くまで起きてないで早く寝なさい。何かあったらLINEをしていいから」と部屋の扉を閉めながら「おやすみ」とニコリとした笑顔で静かに扉を閉めた。

部屋に一人になった結衣は、リビングで母親が「お揃いのものを買おうよ」と言ってくれたことをベッドの上で横になりながら頭の中で何度も思い出すと、春の心地よい風と優しく降り注ぐ太陽の光に包まれているかの様に、すごく心が暖かくなった。

自然と頬の筋肉が緩み笑顔になっているのが自分でもわかった。

真っ暗な布団の中でもニカニカと自分の笑顔が輝いていて、まるで小学生の遠足前夜のワクワクした気持ちと似ている様だった。

このまま寝てしまうことが、結衣は何処かもったいないと思いながらも、母親と楽しい時間を過ごすためには、早く寝て少しでも体力を回復させておくことが大切だとわかっていた。

まるで額縁に入っている画の様に、真丸の月と雲一つ無い夜空を見ながら眠りに就いた。

スマホがブーブーと一定のリズムを刻み、起床時間七時にセットしたことをアピールするかの様に本体が揺れ、その振動が寝ていた結衣に届いていたが、まだ眠気があるのに振動を止めるために目を開けてスマホの画面をタップした。

そこからぐいーっと背伸びをしてゆっくりと布団を足で身体から剥がして、ベッドの上に置かれたままのスマホにきているLINEやらショッピングアプリやらの通知を一つずつ確認しては消していった。「今、起きた」と母親へLINEをして使っていた枕や布団を定位置に戻し、出来る限り綺麗な状態に直していた。

母親が扉をノックした後に、部屋の中に入ってきて「おはよう」と言いながら結衣の着替えを出して、今日どこの店に行くかやあそこの店の料理が美味しいらしいよといった会話をしながら、結衣の身支度の手伝いをし始めた。

母親にサポートしてもらいながら、着替えと外出するためには欠かせないメイクを済ませた。階段をゆっくりと降りていきリビングのテーブルの椅子に座ると、母親はキッチンへいき結衣と自分の分のコーヒーをマグカップに入れて冷蔵庫からバナナを取り出して細かく切ったものを皿に乗せて、結衣が待つテーブルの上に置いた。

バナナを取ろうと椅子から少し前屈みになった結衣は、重心を崩して椅子がそのまま後ろに下がり、お尻から床へ椅子がバタンと音を立てながら倒れてしまった。

その音を聞き、心配する母親が結衣のもとへ駆け寄って来て上半身を起こしながら、アザや赤くなっているところがないかを確認しながら結衣の背中をゆっくりとさすって「心配だったら病院行く?買い物ならまた別の日でもいけるから」と結衣へ聞くと、ものすごく小さく「うぅん」となんとか絞り出したかのように返事をして顔の表情は痛さから辛いものになっていた。

母親に身体を支えられながら車で病院まで行き、受付で椅子から転倒した時のことや身体の皮膚が赤くなったり、青くなったりしていることは無いが、念のためレントゲンとCT検査をしてほしいという旨を伝えた。

受付を済ませ名前が呼ばれるのを待つ間も、結衣の背中を母親が優しくさすったり「どこか痛いところがでてきたり、気分が悪くなったりしてない?」と聞いたり、してくることに対し、結衣は頷いたり、小さな声を出したりして、背中とおしりに走る痛みを我慢していた。

その痛みよりも母親の一緒にショッピングができなかったことで胸が締め付けられる痛みの方が何千倍も結衣にとっては辛かった。

看護師から「小田結衣さん」と優しさの中にどこかテンプレート化を感じるような声が聞こえる方へ、母親に支えられながら向かっていった。

診察室に入ってから先ほどの状況を再度説明すると「今から一名、レントゲン・CTを撮りたいから、どっちから行けばいいか確認して」とおそらくベテランであろう人が若い看護師たちに指示を出していた。

採血の準備をしている姿を結衣は見ながら、自分が働いていた時のことを思い出して、それまで表に出さない様にしていた悔しさとか怒りとか、原発性硬化性胆管炎に対しての無力感だとかが、一気に津波の様に溢れ出してきた。

大きな声を出して「もう!生きていても仕方がない!!人の手助けをしようと思って看護師になったのに!!!」と診察室中に響き渡りながら、叫び座っていた椅子から床へと座り込んでしまった。

母親がそっと結衣の肩へ手で触れようとしたのを「触らないで!!」と大きな声で母親の手を振り払うようにして、持っていたバッグを母親へ向けて投げつけた。

今まで我慢していた弱音を吐いたり、だとか自分の気持ちを誰かに聞いてもらいたいだとか、結衣の中にあるそういった感情が、雪のように少しずつ積もっていったものを今までは自分でコントロールして雪崩が起きない様にしていたが生業不能になり、雪崩のように結衣の心を覆い尽くしていった。

最終的にレントンゲンとCT検査の結果から結衣は入院することになった。

楽しみにしていた母親とのショッピングは叶うことなく結衣は病室のベッドを用意されてその上に横になっていた。

母親は一度自宅へ戻り、入院生活に必要な結衣の洋服などを準備しに車で向かい結衣がいる病室へ駆け足で向かった。

“娘の代わりにできることならなんでもしますから!”と心の中で強く願いながら持っていた紙袋を強く握りしめていた。

結衣が待つ病室の前にたどり着くと、今抱いている気持ちが結衣に伝わらないように呼吸を整えてすーっと深呼吸をしてから病室の扉に手をかけ少しずつ開けた。

ベッドに横たわっている結衣の姿が目に入り「着替えを持ってきたよ!」と少し大げさなくらいの声のトーンで結衣に向かい声をかけると、とても小さな声で「うん」とだけ返事があり、自宅から持ってきた着替えをベッドサイドの消灯台の扉の中へしまっていった。その横では先ほど大きな声で叫んだ反動により後悔と身体中に力が入らなくなった結衣が布団の中で蹲りシクシクと涙を流していた。

レントゲンとCT検査、さらには血液検査の結果から原発性硬化性胆管炎の当初の診断よりも早く進行していることが分かり結衣は自分で身体を動かすことができなくなっていた。

結衣が病院に運ばれてからすぐに主治医にも連絡がいった。検査結果を見た上で原発性硬化性胆管炎の進行が想像したよりも早いことを、ベッドに横たわって酸素マスクを付けている結衣に対し説明したうえで「残念ながらこれ以上の治療方法は無く、残されているのは延命処置しかありません」と重い口調で伝えた。

ベッドの上にいる結衣の目から頬にかけて涙がこぼれ落ち、「もうこれ以上は良いです。母親にも負担を掛けたく無いので延命はしなくて大丈夫です」と弱々しい声で伝えると、ズボンのポケットから財布を取り出すとそこに入っていた、臓器提供カードを主治医に手渡した。

「私が看護師として最後に出来る事はこれしかないので」と苦しさと痛さを我慢しながら主治医に、「母には伝えていないので先生から伝えてください」とか細い声で伝えた。

夏の夕日が輝いていたと思っていたら、突然バケツをひっくり返したかのような大雨が大地に降り注いでいた。

数ヶ月前まで確実にあった”希望という光”は結衣の中からは跡形も無くなっていて、太陽のように輝いていた笑顔はもうそこには無く、氷のように冷たくなった結衣の手を母親はそっと優しく包み込んでいた。

この空の下で何千回・何億回、いや、それ以上たくさんの回数繰り返されてきた紛れも無い事実であり“小田結衣”という生命の肉体がこの世界から消えていったことは世界規模でみれば何も無いものと同じことである。

この日も空は何も無かったかのように、白い雲が青い空の上を流れて人の心を包み込むような優しい風が吹き、その風によって木々の葉がそっと揺れていて、その下にはたくさんの人の笑顔が花のように綺麗に並んでいた。





翔と会って話をしたいという気持ちを強く持ちながらも、虚血性心疾患で少し動いただけでも心臓の鼓動が速くなることがあった。また痛みが守の体身体を襲うことにより、徐々に一日の中における動作が翔の身体にとってすごく大きな負担へと変わっていった。

と同時に虚血性心疾患を少しでも緩和するための薬物治療が始まっていき、薬を体内に入れ込むことによりさらに負担は大きいものへと変わっていき、一日の生活のほとんどをベッドの上で過ごすことが以前より多くなっていった。

“後悔したくない”と強く心で思いながらも日を追うごとに、身体の自由が少しずつ奪われていった。

さらには、胸の痛みが強く守を苦しめていく中で“この先一体どうなってしまうのだろうか”とベッドの上で天井を見つめながら考える時間が増えていった。

月に一回、守が働いていた職場の元同僚が今でも訪ね約三十分滞在して、ほとんどは職場に対する愚痴だったが、その何気ない会話を交わしてくれることが入院生活をしている守にとって、唯一の社会との繋がりといえるものになっていた。何よりも楽しく嬉しい時間となっていて心の底から感謝していた。

日を追うごとに、病気が進行するにつれて母親がいる前でも胸の痛みを訴えたり、苦しんだりしてしまうのを守は隠すことができず、目の前にいる我が子が苦しんでいる様子を母親は、とても胸を痛くしてどうすることもできず「大丈夫?」と声をかけることしかできなかった。

「用が済んだらさっさと帰れよ!」と守は心では思っても無いことを母親へ言い放ち「また何かあったらすぐ来るから、看護師さんとお医者さんに挨拶だけしてから帰るね」滞在時間が五分も無いくらいで母親は守の病室を後にした。

“なんであんなに酷い言葉を言ってしまったのだろう”と母親に対しての申し訳なさと、人からもらった優しさを素直に受け止めることができない自分に対しての憤りだとか怒りといった感情が、沸騰するかのように沸沸と心の中で大きくなっていった。

守はまたベッドの上でただ天井を見上げて、廊下から聞こえる看護師や患者のやりとりやピーピーっと一定のリズムを刻みながら鳴っている音が耳に入ってきて、何度も身体に力を入れてベッドから起き上がろうとしたが、上手く身体に力が入らず確実に日を追うごとに身体が自由に動かなくなっていくのを感じ、守は”本当に自分の身体なのか”と思い、“十分でも五分でも良いから翔と話をしたい“話をしないでこのまま死んでいくことは、後悔だとかやりきれなさだとか、そういった全ての感情がきっと守の中に残ったまま終わってしまうと、ますます翔と会いたいという感情が大きくなった。

食事も固形物を口から食べることがだんだんと難しくなって、固形物半分と点滴半分といった形で医者の指示の元で口から食べることを止めることは出来る限り避けていき、守の健康状態が悪化しないように食事を始めとして夜間の体位転換などを、以前よりも看護師が携わるようになった。

少し前までは、自分の力だけで出来ていたことが、自分の口で食事を食べることも自分の力で身体の向きを変えることでさえ、自分一人の力では出来ず人の手を借りなければならないことに対し、悔しさと無力感と虚血性心疾患が大きな足枷となっているものに苛立ちを感じていた。

つい半年前までは、上司から頼まれた資料作りや会議を行うための部屋を抑えたりしていた時がだいぶ昔のように感じた。

あの時抱いていた仕事に対しての想いだとかモチベーションの低さを今ではもっと高く持ち、自分から積極的にいろいろな人に話しかけたり、仕事の後に飲みに連れていってもらったりしていればと、後悔しても遅いと理解しながら、守の心の中には厚い雲がかかったようにどんよりとした気持ちになっていた。

暗いことや嫌なことばかり考えていても、気分が落ち込むだけだと理解しながらも、そこから抜け出せず、蟻地獄のようにだんだんと深く暗い所へ落ちていくかのように、目線も下がり消灯台の上にある鏡をぱっと見ると、そこに映る自分の顔色が白く血が通っていないかのように見えた。

守は自分の手で頬をパチンと二回叩き、“しっかりしろ!”と喝を入れ翔と話をするという思いを果たすためには、自分がどういったことをしていけばいいのかを頭の中で考えながら、この先徐々に身体は自由に動かせずとも、頭の中で考えることは出来るので、それを存分に活かしていくことで守の思いを目標として終わらせず、一つの形として残していくことに繋がっていければと考えていた。

季節は移り変わり、守が寝ているベッドがある部屋の窓から見える木の葉の色が緑から徐々にオレンジ色に変わっていき、たくさん生えていた歯が少しずつ少なくなっていった。

“このまま死んでいってしまうのか”と心の中で守はぼんやりと考えていて、翔に会って話しをしたいという気持ちも以前に比べ、小さく弱いものへ変わっていってしまい、生きる目的がほぼ無くなっていき、ただ“心臓が動いて存在している生命体”化してそこに悲しみだとか喜びだとかと、そういった人間が持つ感情が少しずつ消えていくのを守も感じていた。

週に一回、母親が守のところへ来てそれまで使った洋服と自宅で洗濯してきたものを交換しながら「お母さんの声聞こえる?気をしっかり持つんだよ!」と言いながら守の動かなくなった手を包み込むように優しく摩ったり、握ったりして声をかけて、ナースステーションで仕事をしている看護師に挨拶をしてから守の元を後にした。

母親の暖かくて洗い物を毎日行っていることから、少し肌荒れしている手の感触を守は感じながら、これまで母親に対して優しくしてこなかったことやもっと「ありがとう」とたくさん伝えてくればよかったといった様々な想いで心がいっぱいになった。

悔しさや苛立ちを外へ向けて発散することを少し前であれば、ベッドの布団を手で叩いたり、消灯台の上に置かれたものを床や壁に向かって投げつけたりしていた。

今はその力すら出せずに、分厚い雲のようなものが大きく広がっていて、守の心に射していた光が薄れていき闇が大きくなっていた。

窓の外を見ると木の葉が雨によって濡れていて、葉に溜まった雨水が伝って雫となって一定の速度で地面へ落下していくのを見ていた。守は“あの雫も木の葉の上に留まる力を持っていれば、下へ落ちることも無いのに”と思いながら、自分を木の葉から落ちる雫に置き換え、このままベッドの上で死を迎えることしか無いのではと、今の状況から逃れることは不可能ではと、どこかで覚悟するしか無いと考えていた。

ある日、守の主治医から「ご家族の方を呼んで、虚血性心疾患に関してのこれからの守さんの身体のことについてお話があります」とすごく重い表情をして、横にいる看護師にも守の母親に連絡を入れるようにと指示を出しながら、ベッドに寝ている守に向かって丁寧な口調で話した。

病気の進行により、守は自分で呼吸をするのも難しくなっていたため、鼻と口を覆うように酸素マスクをしているので声を出すことが難しく、なんとか顔を縦にゆっくりと動かし主治医に対し“理解した”という意思を頭の動きで静かに伝えた。

守はこれから主治医から伝えられることは想像でき、それと同時にいつかは決めなければいけない覚悟を心の中で強く固いものへと変化させていった。

もう彼の中には、怖さだとか悔しさだとか、そういった感情すら湧いてこないほど虚血性心疾患で徐々に身体の自由を奪われている現状を受け入れることを超え、どこか諦めに近く、そうではない様々な感情が心の中で渦巻いていて目の前にある“死”を受け入れる他は無かった。

ベッドから車椅子へ移ることが難しい守は、以前のように別室へ移動することもなく病院からの電話で駆けつけた、母親が同席のもとで主治医から現在の守の身体と虚血性心疾患の進行状況の説明が始まると、だんだんと母親の表情は暗く重いものへ変わっていった。

右手でハンカチを目元に当て涙を時折拭きながら、左手でベッドに横たわる守の手をそっと握った。母親の手が小刻みに震え、そこから不安だとか恐怖だとか、何よりも自分にとって大切な我が子をなんとかして、自分が代わってあげたいという想いが強く守へ確実に届いていた。

今の守が抱えている病気の進行や痛みを和らげる治療法や薬に関すること、その先に待っている“最期”に向け、これからどのように生活をしていくのかを母親を含めて主治医や日々の生活をサポートする看護師など全員で、守にとって悔いが残らないように成し遂げたいことは、出来る限り行わせていき“最期”が来た時に少しでも笑顔で旅立ってもらいたいと考えで、主治医や看護師そして母親の中で一致していた。

あまり好奇心が強く無い守にとって、やり残したことは何かと聞かれても、海外旅行へ行ったり、美味しいものを食べたりだとか、本以外のもので欲しいものがあったりするわけでも無く、ただ大好きな読書を時間が許す限り存分に楽しみたいというのが彼が成し遂げたいことである。

残された時間がたくさんあれば、またいろいろなことに触れていく中で、守が読書以外のことに関心や興味を持つこともあってそこから様々な人との関わりを多く持つ可能性もきっとあったのだろう。

守は自分で働いて買った本を、できる限りたくさんの本を読みたいということしか頭の中になく、しかし今は自分で身体を動かせず、ずっとマスクをつけて酸素を送ってもらうことでなんとか生きられている状態だった。そのため本を読むことは、かなりハードルが高いものであった。

守の右手に入っている管の先にある点滴のパックを看護師が交換しながら「綾瀬さん、だんだん陽が落ちるのが遅くなってきてもう夏ですね」と独り言のように発したのに対し守は軽く頷きながら”来年の今頃はまだこの世界に存在しているのか”と考え、それまで晴れていた青空を覆うように厚くて灰色の雲がかかったように守の中に三度不安と恐怖が襲いかかってきた。

毎晩のように、今日のように自然と目が覚めて生きることが無事に明日が訪れるのかという思いが、重くのしかかってきて日を追うごとに睡眠時間や質がだんだんと短く低いものへ変わっていき、それが守の体力低下の要因となって虚血性心疾患がもたらす痛みや症状を進めていった。

「もし夜、眠れないのであれば軽い睡眠剤を使ってみることも」と主治医から言われたが、もうこれ以上いろいろな薬などを使って自分の身体を傷つけたり、無理やり眠らなければいけない状態になったりすることは嫌であった。

仮に眠れなく、身体に痛みがさらに大きくなったとしても、薬を使うことはしたくないと主治医へ伝えた。

主治医も母親も守も分かっていたことではあったが、日中はものすごい大きな痛みに襲われ、その痛みが収まらずに夜が来ても以前のようにぐっすりと寝られず、守の身体には疲労と痛みが蓄積されていった。

また精神的にも大きな負荷が掛かっていて人と話すことが難しいことも重なって、”死”に対しての思いが日に日に増していき、ただただ天井を見つめ一日が過ぎて行くことに身を任せていた。

一時間に一回ほどの頻度で看護師が来て、コップに入った水をストローを使って守が自分の口で飲むくらいで、その他は腕に刺さった点滴の管から水分や栄養が身体に入ってきていた。

最低限の健康は保たれていて点滴が入ってくることによって、少しだけ満腹感があるが以前のようにコーヒーだとかチョコレートや何より大好きな酒を口にすることは無く、食に対して興味が低い守であっても“もっと味が濃いものを食べたい”という思いがあった。

“生きることは、食べられること”と以前読んだ本の中に出てきたが、その時は何も感じずにただ読み進めていたが、今ではその言葉が指す本当の意味や重さが理解できて、食べたいものを食べたり、飲みたいものを飲むことができないことを目の当たりにして、苦しさや辛さを痛いほど感じることができて、ある意味で虚血性心疾患を患ったことで見えた”生きる”上での大切で欠かせないことの一つである。

点滴からの栄養だけでは、守の身体は痩せていった。

それと比例するようにもともと口数が少ない守であったが、さらに輪をかけたように看護師や主治医に対しての挨拶をすることが減っていき、一日中声を出さないことが日を追うごとに増えた。

”身体は生きているが、心は死んでいる”かのような状態で母親が着替えを持って守の様子を見にきて話しかけても、返事をせず瞼を閉じて母親が話すことに対して守は相槌を打ったり、頷いたりすることなく天井を見つめたり、目を閉じたりしていることが増えていった。

母親は、週に一回は必ず新しい着替えと小さな花を持って主治医に守の病状を聞き、この一週間で起きたことを一方的に守へ話して病院を後にしていった。

守は“ありがとう”と感謝の気持ちが常に母親に対して持っていたが、酸素マスクを付けていることと、病気の進行によって声を出すことや自分の手をあげることが難しくなり、自分の思いや考えを表すことがほぼ出来なくなっていった。

元々自分の感情を表すことが不得意な守の性格を知る人からすると、あまり変化は感じられないのだが、守の中では母親を含め関わってくれる人に対して、感謝を伝えられないことがすごく虚しく、そしてどこか怒りにも似た感情が溢れてきた。

夜になると、看護師二人と医師一名が顔色を変えて一定のリズムを刻みながら鳴っている音の方へと入っていった。

それはまるで地球外生命体から身を守るように、その病室にあるベッドの周りをカーテンで囲むと中から「バイタルが下がっていて酸素も落ちています!」「電気マッサージの準備を!!」等の声が廊下まで聞こえてきた。

さらに「誰か、ご家族の方に連絡して!急いで来てもらえるように伝えて!!」と男性の声で聞こえ「はい!」と廊下を走りながら女性の声が、まるで“台風が直撃して街にあるビルや家が全部吹き飛ぶ”かのように、それまで静かだった病棟が慌ただしい空気へと変わっていった。

カーテンで囲まれたベッドの上にはシャツのボタンが開き、胸には様々な医療機器が繋がれている守が横たわっていた。

その周囲では入れ替わり立ち替わり、看護師が出入りして医師からの指示で、必要な器具を持っては病室を出ていった。それはまるで、嵐の中にいるように慌ただしく動いているかのようであった。

守は意識がはっきりとしない中でも“何か大変なことが起きている”と理解していたが、まさか自分の身に起きているとは状況を把握することが出来ずにいた。また意識が薄れていき眠るような感覚であった。

「今、先生が処置していますのでもうしばらくこちらでお待ちください。何か少しでも変化があったらお呼びします!」と守がいる病室に勢いよく入って行こうとする母親の姿を看護師が止めながら背中をさすり、廊下に置いてある椅子へと一緒に付き添いながら安心させようと優しい言葉をかけていた。

けれども、我が子がもう目の前にいるのに会えない事へのもどかしさと、胸が締め付けられるような切なさに似た悔しさのような感情が母親の中に溢れてきた。

空から地面に向かってまるで、ピストルの弾丸のような強さの雨粒が降り注いでいた。さらに台風の時のような強い風が病院の窓にバンバン!とライフル銃が鳴り響くかのように、大きな音を立てて強く当たって窓から見える外の景色が、別世界かのように一変して雲間からは少し明るく光が差していた。

空の様子とは打って変わって、守が寝ている病室では先ほどの台風が直撃したかのような忙しさは収まり静寂なものへと変化していた。

そこにいる主治医をはじめ看護師たちはその場に立ち尽くして、部屋にあるベッドサイドでは子供のようにわんわんと声を出しながら泣いている女性の姿があった。その横では、今まで必死に命を繋ぐために動いていた酸素マスクなどの医療機器が完全に外されていった。ベッドの上には目を閉じて安らかでいて、そしてどこか悔いがあるような表情をして寝ている男性の姿がそこにはあった。





入院生活が始まってからのほとんどは ベッドの上にいたり、病院が用意した車椅子に座ったりして生活していると使っていない筋肉が驚いていき、体力が落ちていってしまう。最低でも約八時間以上はかかる臓器提供の手術に備えて、少しずつ体力をつけていき翔が持っている筋力を取り戻していく必要があった。

そのため一日一回はベッドから降りて母親または看護師のサポートを受けながら、自分の病室の中をゆっくりと歩き、ベッドから両足をおろして上下に動かして少しでも長い距離を自分の力だけで歩くことが出来るようになっていた。

身の回りのことを人の手を借りずに、自力で行えるように翔が積極的に取り組んでいて、“もう一度友達とサッカーがしたい!”その気持ちが以前より大きく、そして熱いものへと変わって、毎日のトレーニングへの原動力へとなっていた。

身体を動かし、体力を少しずつ元に戻していくことと、学校に行けなくずっと入院生活を送っている翔は、同級生と比べた時に勉強が遅れていることを自覚していた。

今までは避けてきた勉強に積極的に取り組む姿勢を示していき、入院生活が始まってからずっと自宅に置きっぱなしにしていた教科書を母親に持ってきてもらい勉強をしていた。

勉強とトレーニングを始めてからは、夜になると眠気が襲ってきて以前であれば不安と恐怖で眠れない日々が続いていたが、消灯時間の九時にはもうベッドの中で目を瞑りバランスの良い睡眠をとる生活サイクルが翔の中の習慣へと変わっていった。

看護師と交わされる会話も以前より増えていき、勉強していて分からない箇所を看護師に聞いたり、将来の夢であるサッカー選手にはどんなことが必要になのかを聞いたりしていた。

「えー、そんなこと勉強したかなー?」と笑いながらもわかる範囲で教えてくれ、年配で自分に子供がいる看護師は「この問題を解くには、この計算方法を使った方が早く答えが出せるよ」と丁寧に仕事の合間を縫って翔に勉強を教えてくれる人も出てきた。

入院してからずっと暗い表情ばかりだった我が子が、それまで大雨が降り続いていたのが燦々と光り輝く晴れに変わったかのように、徐々に明るく変わっていく様子を間近で見ている母親は自分のことのように嬉しく感じていた。

入院してから今までの日々で苦しい思いをさせたり、辛い思いをさせたりしたことやそれらを代わってあげられることが出来ないことへ、母親が抱いているもどかしさとか胸を締め付けられるかのような苦しさだとか、いろいろなことから解放されたかのように晴れ晴れとしてほんの少しだけ気持ちが楽に変わっていった。

中学生になり思春期に入ったということもあり、あまり母親と会話を交わす回数も以前よりは減っていく中で、さらに臓器提供を受けなければ生きていくことができない状況も重なって、精神的ストレスが大きく翔に襲いかかって少しのことで怒りの矛先が、母親へと向けられてしまうことがあった。入院生活が続く中で看護師など周囲の人への気遣いがあることで外へ向けて発散することが難しかったりすると一番身近な存在である母親に対して強く当たってしまうことが時たまあった。

そういった翔が抱いている自分の身体に対しての怒りだとか、やり場のない苛つきだとか不安だとかを母親に向けてくることに対しそれらを一切否定したり、彼からのシグナルを受け取ることをしなかったりしてしまっては、孤独にさせてしまっては母親としての責任だとか、今まで愛情を注いで育ててきた中で手にした“何か”が一度に崩れていってしまうかのような感覚だった。

母親は、友達や先生などをはじめ会った人には必ず挨拶をすることと、ありがとうといった感謝の言葉は絶対に言葉にして伝えることだけは何度も翔に対して言い聞かせていた。

その他のことに関しては強く注意はせずになるべく翔が“やりたいことをやらせる”と同時にそこで起きたことに関しての責任も翔にも理解してもらう為に、友達と喧嘩して怪我をさせた時は、その子の家まで翔を連れて行き自分の言葉で謝ることをさせたり、やっておいてとお願いしたことを翔が行っていなかった場合には、自分の口で説明させた上でなぜ叱られているのかを考えさせたりして、彼の中にある“自立心”を早い段階で伸ばしていた。それらは翔が大人になって社会で生きていく時に困らないように、親の立場から教育として伝えておきたいという想いが強くあった。

なぜそういった想いが母親の中に強くあったかというと、翔が社会で生きていく中で強くいて人に対して優しくいて欲しいという事と、両親が先に亡くなった後に残された翔が周囲の人へ迷惑をかけずに上手くサポートをし合える力を付けて、どのような環境のもとであっても楽しく笑顔でいられるようにという願いがあった。

小学校卒業をあと半年後に控えた二学期の終わりのある日。

いつものように学校のチャイムが鳴って自分の机の横に掛かっているランドセルを手にして「かける〜、今日もお前のウチでゲームしに行っていい?」と声がし、ランドセルを片方の肩に背負いながら「わかった!三十分後に!!」と元気よく返事をした時に、急に目眩が翔を襲いそのまま意識を失ってしまった。

自宅で洗濯物を干していた母親の元へ学校から電話が鳴った。洗濯物を干すことを途中で投げ出し、すぐさま車に乗り学校から教えてもらった病院へ車を走らせた。

急いで翔が運ばれた病院へ駆けつけた時のことを思い出していると、臓器提供者が見つかった今まで心から望んでいたことが身近になったことで、あの日に学校から連絡があり絶望へと変わった時からすれば、今は希望の光が翔を照らしていることが母親としてすごく嬉しく感じていた。

ベッドの上で移動式の机の上に学校の教科書とノートを広げ黙々と勉強をしている翔の姿を、改めて目の当たりにした母親の目からは涙がこぼれ落ちていた。それは悲しさの涙ではなく、これまで翔なりに頑張って様々な痛みやそれらを和らげる為に使った薬の副作用から来る、いろいろな症状などを乗り越えてきたことへの嬉しさが表れていた。

「どうしたの?」とハンカチで涙を拭く母親に向かって翔は尋ねると、「う、うん。なんでもない」と声を絞り出すようにして母親が答えると、翔はまた目の前の教科書と向き合い続けた。

進む時間を無駄にしたく無いかのように勉強を再開し始めたので、母親はその様子から「少し下の階の売店に行ってから、お腹が空いたからお昼ご飯を食べて来るね」と勉強に夢中になっている翔を一人にしてあげようと気を使い病室を後にした。

そんな母親の優しさを翔は感じ取り、それを邪険にせず無駄にしたくないという想いが翔の中にある優しさも揺れ動いた。

と同時に母親へ対する感謝の気持ちが強く大きくなっていた。この想いを絶対に何かしらの形へ変えて母親を含めて今まで関わって支えてくれた人に対して、時間がかかったとしても返していく事が、自分が果たしていくことだと考えていた。

その方法としては、自分の夢でもあるプロサッカー選手になって“世界でプレーをして自分と同じように臓器提供を必要としている人や、病気を抱えて生活している人が少しでも夢に向かって明るい気持ちで生活していける”きっかけ“に翔という存在を表していく事。さらに臓器提供を待っている人の気持ちを一人でも多くの人に知ってもらう事で、助かる命が今よりも増えていき、そこで悩み考えている人や支えている家族や医者などの存在を伝えていきたいと翔は考えていた。

身体が今より、もっと自由に動くようになったら誰よりもサッカーの練習や、多くの人を助ける為に必要ないろいろなことについて勉強する時間と力を注いだりする事で、そういった夢が具体的になっていくと翔は考えていた。

毎朝、起床時間の六時半になると眠気と戦いながらも目を覚まし、病院から出された朝食を以前は全く食べなかった。

今では少しでも口へ運び完食をせずともヨーグルトや果物などはなるべく食べるようになっていき、朝食を済ませた後はゆっくりとした中でも自分で考えて作り上げたカリキュラムをこなすため、ほとんどの時間を教科書やノートと向き合っていた。

それでもずっとベッドの上での生活を送っている中で、翔の体力はどんどんと落ちていて、どんなに長くても勉強に費やせる時間は二時間ぐらいが限界だった。

またそのことに対して、もっと勉強に取り組みたいと強い想いを持っていた翔にとっては、自分の身体なのに思い通りにならないことへ悔しさだとか憎さだとか、怒りやもどがしさといった様々な思いに抗ったとしても、それらは無力であることは理解していた。

臓器提供を受けて、健康な身体を取り戻したとしても小学六年から約三年間、ずっとベッドの上での生活が続き、翔と同年代の子たちが経験したことや、いろいろな出来事を彼は通ってこなかった。

無事に退院し、友達と同じ時間を過ごす事が出来るようになったとしても、友達と楽しい時間を過ごす事や大好きなサッカーを思う存分プレーできるのかという不安があった。

そんな翔の気持ちを、一ミリたりともこの世界は気にかけることはなかった。翔以外の生きている人皆に等しく時間は刻々と進み、それはどこかまるで差別をしているのかのように似ていた。誰かにとっては心をピストルの弾で撃ち抜かれたかのように痛さを超えて脱力したように感じた。

新しい臓器を翔の身体に入れる手術をいつ行うかはまだ決まっておらず、半年後になるかはたまた一年後になのかといった状況だった。

主治医からは「おそらく長時間の手術になると思いますので、翔さんの身体に負担がかからないようにこちらも努力しますが、少しずつ体力をつけておいてください」と言われ、以前であればベッドの上でずっと窓から見える外の景色を眺めたり、自分の状況に対して悲観的になったりして、一言も発することなくただ時間が過ぎていくのに身を任せていた。

が、臓器提供が決まるかもしれないという話が翔の耳に入ってからは人が変わったように、今の自分が出来ることや将来の夢を叶えるためには、どういったことを吸収していくことが良いのかと考え方がポジティブに変化していった。

そんなことを考えながら、勉強と身体のトレーニングに全ての力を注いでいくことが、翔にとってすごく充実していた。これまで全く触れてこなかった知識や物事が全て新鮮で、それと向き合っている時間がとても楽しくて自分が成長していることを実感していた。

勉強していて分からない箇所があれば、調べるといったすごく当たり前なことでさえも、入院生活の中で経験する場面がほとんど無かった。自分からもそのような機会を積極的に作ることをして来なかったこともあって、勉強していて頭に入ってくること全てに対し興味と魅力を感じられた。

さらにトレーニングをしている時も、初めのうちは少し身体を動かしただけで、ものすごい量の汗が落ちて、今まで味わったことがない疲労で夕飯を食べ終えると死んだかのように寝られ、本来学校に行っていれば授業や部活を通して経験することを入院生活が長く続くと何も刺激がない状況が多く続く。そういったほんの少しのことでも翔にとってはすごく楽しく、今まで過ごしてきた一日でも全く違った日を経験しているかのように感じられた。

まだ十四歳で、身体的にも精神的にも大人ではない翔にとって、きっと同世代の人であれば経験することや感じることができないことを、この入院生活が始まってから約三年の間でたくさん積み重ねていた。それらはきっと、翔のこれからの人生において大きな財産となり、人の痛みや苦しみを理解できる人間へと成長させてくれるものに違いなかった。

あまり読書をしたり、テレビのドキュメンタリー番組を観たりする方ではなかった。

毎日のように友達とサッカーボールを追いかけ、人の痛みやしてはいけないことや喜ぶことなどを自然と感じ取っていくことが翔にとっては、読書やドキュメンタリー番組を観ることよりも遥かに向いていた。

何よりも、そういった一つひとつの経験が彼の中では大きな財産になっていた。

小学三年のあるの日、翔が最も仲が良い友達三人といつものように家から近くの公園でサッカーをしていた。

友達が蹴ったボールが空高く舞い上がり翔の目ではボールを追うことが出来ずに、その間にも地面へ落ちてくるのを別の友達が落下地点へと移動して構えていたところにボールが頭へと直撃し、バタリとその場に倒れてしまった。

翔を含めた他の二人が急いで駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけたが地面に倒れた友達からは返事が返ってこなかった。

翔たちはだんだんと何をして良いのか分からないといった気持ちと、大人を連れてきた方が良いと思い始め「誰か呼んでくる!!」と翔の横にいた友達がその場を離れ走りながら近くに大人がいないか探しに行った。

大人を呼びに行ってから十五分ぐらい経過してから、友達が「こっちだよ!」とその後には四十代くらいの男性が早歩きで翔たちの元へ駆け寄ってきた。地面に横たわる友達の様子を見るなり、スマホで電話をかけ、目の前で起こっている状況を伝えると翔たちがサッカーをしていた公園の名前を伝えた。

その後、救急車が到着し翔たちがサッカーをしていた公園の入り口に停まり、担架を運んで翔たちの元へ来て、すぐに地面に横たわっている友達を担架の上に寝かせて救急車の中に運んだ。救急隊の一人が倒れた時の状況を翔たちへ優しく尋ねていくことに対し、しっかりと答えなきゃと思いながらも声が出ないぐらい泣き、そんな翔たちの背中を優しくさすりながら「ゆっくりで良いから、君たちのことを絶対怒ったりしないから教えてくれる?」と、まだ身長が小さい翔たちと同じ目線になるように、救急隊は目線を合わせた。

その瞬間に、翔は自分の親以外の大人に対して、とても温いものを感じ救急隊の姿がとても輝いて見えた。いつかは優しくて輝いて見える大人になろうと子供ながらに思った。

今はベッドの上で勉強したり、トレーニングを行ったりと手術が無事に終わった後にまた友達と遊んだり学んだりいろいろなことを出来るために、辛い時は楽しいことを思い出していた。これから待っているはずの輝いていた日を、また過ごせるように目の前のことをただひたすら取り組んでいた。

翔がふと、病室の窓に視線を向けて入院してから部屋の窓から見える空は、雨が降ったり燦々と光が差し込んだりしていた。翔が気にせずとも、この世界は様々なものへと移り変わっていることに気が付かなかった。

そんな時でさえも、空は様々な模様へと変化していた。そしてその下には翔よりも生きることに対し、絶望や不安などを抱えている人がいたり、大金を持ち高級な食材を毎日のように食べたりしている人が存在したりしている世界があった。地球が誕生してから、この空はずっと見続けていると考えると、翔は今まで抱えていた不安や恐怖などがすごく惨めで小さいものだと感じた。

この日の夜空は星が輝いていて、翔の胸の中にある希望に満ちているのを表しているかのようだった。

手術が成功すれば、以前のように友達と勉強やサッカーが出来る生活を遅れるようになることが確実ではあるが、手術をしたからすぐに病院へ通わずに済むわけではなかった。

術後の経過観察や、翔の身体に異常があった場合には、すぐに病院へ入院することが手術を受ける上での条件となっていた。

自分の身体に変化があったらすぐに入院することに対し、翔は素直に理解していてそこには、もうこれ以上母親に対し迷惑をかけたくないといった思いと、早く友達と時間を一緒に過ごしたいと強い思いがあった。

そういえば、前まで僕の様子を毎日のように見に来ていた、少しおせっかいな看護師の姿を最近になって全く見かけないことに翔は気づいた。

その日の夕飯を翔の元へ持ってきた看護師へ「あのぉ〜、ユイさんという看護師さんがいたと思うのですけど…」といつもより小さな声で尋ねた。

「あぁ、なんかずっと働いていたみたいだから休みをとっているみたいだよ」と翔へ答えたが、その言葉にはどこか真実味を感じられず翔は不思議に感じた。それ以上のことを看護師へ聞くことが、どこか少し怖くなり目の前に置かれた夕食に手をつけ始めた。

夕食を食べながら翔は、どこか胸の奥の方でざわざわとした違和感を抱いた。

家族や友達に対して抱く心配する気持ちとはまた違った思いで、それがなんであるかと、自分でも説明ができないほどのものが心を充ていった。

口の中に入った物の味を感じることなく、頭の中は結衣が一体何をしているのかと考えたり、最近になって姿を見なくなったのは何であるのかと考えたりしていた。だんだんと心配する気持ちが不安に似たものへと変わっていった。

翔はあの時、フォークを自分の喉に向けて刺そうとしていたのを、自分の家族のように止めてくれた結衣の優しさが他の看護師とは違った。なぜあんなに自分と向き合ってくれたのか、毎日のように翔の部屋に来て優しく話しかけてくれていた姿は、看護師の仕事として行っているわけではなく、結衣が幼い頃に経験したことを翔は少し聞かされていたことを思い出していた。

きっとあの時、“患者としてではなく一人の人として向き合ってくれていた”のではないかと、結衣以外の看護師と関わる時間が多くなる中で徐々に理解しつつあった。

翔は、夕食を終えて就寝時間になるまでの間で少しでも勉強をしようと思い、消灯台に置いた教科書とノートをテーブルの上に置き勉強を少しでも進めようと眠気が襲ってくる中でも手術を終えて学校へ戻った時に友達と同じことを勉強できるように、出来ることに対して後悔せずに取り組んでいた。

翔は、テーブルの上に置かれた教科書とノートの上に両手を置き気がつくとそのまま寝てしまった。

翌日になり、カーテンの隙間から入る太陽の光が翔の顔に当たり、その眩しさで目が覚めてせっかく勉強していたのに寝てしまったことに気がついた。

もう少し勉強したかったと思いながら寝てしまった自分を少し責めながら、看護師が持ってきた朝食を翔は少しずつ食べ始めた。

「勉強するのはいいことだけど、夜は決まった時間で寝て昼間に勉強した方が学校へ行くことを考えたら、そっちの方がいいと思うよ」と翔のベッドサイドでカルテに記入している看護師が、翔へ言葉を残しながら去っていった。

そんなことは翔も分かっていたのだが、手術が成功して早く学校へ行き、みんなと勉強をすることや、今まで経験できなかった数々のことに触れたいという思いの方が強かった。

あまり勉強に時間を割くことで身体に大きな負担をかけることにより、手術を受けることができない身体のコンディションになっては、せっかくの今の良い状況や環境を全て無駄にしてしまう。

それによって、これからの明るく楽しいであろう未来を迎えること、手術の成功を願っている母親を悲しまることは絶対にしてはいけないと考えていた。

手術の日程は、提供される臓器が翔のもとへいつ届くのかと届いた後に翔の身体に使えるかをチェックがあった。主治医からは「はっきりとした日程をお伝えすることはできません。さらに、もし提供された臓器が翔さんの身体と合わなかった場合のことも考えておいてください」と翔と母親に対し告げられていた。

せっかく提供された臓器が目の前にあったとしても、翔の身体に合わなかった場合はまた別の臓器が提供されてくるのを待つことになる。そその可能性がある以上は、この入院生活が伸びることも多いにあった。

そのことを考えた時に、翔はすごく大きな恐怖と不安に襲われたが、可能性としては低いものだと主治医からも告げられていた。翔はなるべくマイナスのことは考えずに、手術が成功することだけを考えるようにしていた。

入院生活が始まって四度目の夏が始まろうとしていた。

病院内は少しずつ冷房が効きはじめ、窓から見える太陽が顔を出している時間が長くなっていった。

優しい光が日に日に強いものへと変わっていくのを感じ、朝と夕方の三十分の短い時間で部屋の窓を開け、そこから入ってくる風が心地よいものから少し生暖かいものへと変わっていき、季節が移り変わっていくのを翔は感じていた。

この狭い空間に居ても外の世界は大きく動き、目まぐるしいほどの速度でさまざまな物事が移り変わっているのだと、窓の外の景色を見ながら考えていた。





ジリジリという蝉が鳴く声とともに窓の半分を占めているクリーム色のレース越しからも、強くギラギラと病室の床を照らしている夏の太陽が翔の元へも射している中で、いつものように机の上に教科書とノートを並べて、耳には周りの音が入ってこないようにと耳栓をして勉強に集中している翔の姿があった。

翔が臓器提供を行う可能性が高いという話を母親が学校へ連絡したことにより、翔の担任の先生がこの三ヶ月の間に何度か病室へ来るようになった。

同級生が、学校で行っている授業の話や翔が取り組んでいる勉強の様子を見て、アドバイスをしていた。また小学校からの仲の良い友達も、何回か短時間ではあったが病室で楽しい時間を過ごすことが増えいった。

それまで、同年齢の人との会話がほとんど翔には無かったので、そういった時間がすごく楽しくもあり、そこから得られる知識や情報に対しても刺激をたくさんもらえていた。

看護師や主治医のように自分より年齢が上の人と話す楽しさとは違い、自分と同じ年齢で翔が経験していないことを、毎日のようにたくさん経験していた。その中で、良いことも悪いことも、覚えてきている人と話す楽しさがあっていろいろなことを感じ取ることができた。

一日でも早く退院して、学校や自分のおうちでいろいろな遊びや勉強する時間を共に過ごしたいといった想いが、翔の中で強いものへと大きくなった。

翔の体調は、手術をする可能性が高くなってからは、以前よりは悪くなることが減って安定して生活を送れていた。母親を含めた周囲の人にとっては、それだけでもすごく嬉しいことであり、あとは提供されてきた臓器が、翔の身体に合うかどうかを事細かく調べることを主治医を含めて二、三人ほどの医師の元で様々なシミュレーションが何度も行われていた。

その結果は必ず翔と母親にも共有されていて、不測の事態に備えたケースもいくつかのパターンに分けられ説明された。

どんなに腕の良い医師が手術に執刀したからといって、絶対に成功することは翔も母親も理解していた。

この病院へ運ばれてきた時と比較すると、現在の方が明るい光に大きく照らされていて、手術をすることのリスクをあまり考えることが以前よりも減っていた。入院してから三年間程、翔の身体に関することや生活する中で経てきた様々なことを、一緒に乗り越えてきたことから少なからず翔は主治医に対し信頼と信用があった。

もし仮に、手術を終え大きな病を抱えとしても、手術をして前へ進むと揺るぎない決意が翔にはあった。

その後、数日間にわたってCTスキャンやMRIなどの検査が行われた。入院した頃と現在で、翔が必要としている臓器やその周辺に異常が無いかを検査し、臓器がいつ翔の元へ届くのかを主治医や病院サイドが、調整し始めここに来ていよいよ約三年間、もう駄目なのではないかと諦めかけたこともあった。

日本では、臓器提供を待っている患者は世界の他の国と比べた時に少ない。

またドナー登録している人の割合も少なく、臓器提供に対する関心が他の国より低いことが現状としてあった。臓器が提供されずに亡くなっていく患者が多いことが、現在の日本の医療における課題でもあった。

そのような厳しい現実を踏まえた時に、翔が置かれている状況は、本当に奇跡ともいえる状況だった。臓器を提供してくれた人が、どこに住んでいてどのような人なのかを知ることはできないのだ。けれど、出来ることであれば、その家族に会い直接感謝の言葉と、元気な姿を見せることが出来たらと翔は望んでいた。

手術に備えて翔が出来ることといったら、一日三食の食事をしっかり食べて少しでも筋力を取り戻すために、リハビリを兼ねたトレーニングを行うことで、始めた当初は少しずつ体力が戻っていき筋力が増えていった。そのことに対しすごく喜びを感じていたが、翔が行っているトレーニング内容はすごく地味であった。

またライバルのように、張り合う人がいれば翔も負けん気からリハビリやトレーニングに対し、さらに高い意識を持って行えるのだが、どんなにリハビリやトレーニングを頑張ったところで、誰からも褒めてもらえなく徐々にモチベーションが落ちていった。

それでも、毎日欠かさず運動をすることによって自然と食欲が湧いていった。以前であれば、朝食には手をつけず昼と夜も全体の四割程度しか食べずに残していた。

トレーニングをすることで、昼と夜も全部食べ切ることが増えていった。

机が縦に向かい合わせに並び、椅子が二脚ずつ机の横に置かれ、白い壁にはホワイトボードがあって、部屋には、翔の主治医と看護師が並んでいた。その迎えには翔の母親が座り、ものすごく深刻な雰囲気の中で話しをしていた。

机の上には、これまでの翔の身体に関することや、これから行われる手術に関しての様々な情報などが書かれていた。その中には“今回の手術に関しての医療的情報や術後の経過においての全てのことを当病院および執刀医や主治医に預けること”

と書かれた項目があった。

翔には知らせていないことだが、今回の手術は日本国内の医療業界からも注目されていた。

中学二年という年齢で自分の臓器を二つ取り出し、臓器提供者からの新たな臓器と交換することは、今までの国内において行われてきた臓器提供手術の歴史の中で初の試みだった。手術が成功するかどうかはもちろんおイントながら、術後の経過に関することの方が、注目度が現時点で高かった。

翔に、伝えてしまうと精神的負担がかかってしまうのと、万が一のことを考えた時に伝えておかない方が良いという判断が主治医と翔の母親の間の話し合いで下された。翔には、一切そういった情報が伝わらないように母親を含め病院側として、しっかりと対応されていた。

全国から翔が受ける手術に対して注目が高まっていることは、世間でも話題になっていきニュースでも取り上げられていたが、テレビを全く観ない翔の元へは届くことは無かった。

同じ病院に入院している他の患者との接点もほとんど無いので、母親が心配しているような精神的負担は、全く翔には無い状態であった。

自分が受ける手術が、全国から注目されていることに翔は全く知らず、毎日のように勉強やトレーニングに取り組んでいた。ただ、手術の日程がはっきりと決まらないことが大きな精神的負荷となっていたが、主治医に聞く勇気も出ず、不安やイライラをどう解消したらよいのかと誰にも相談や話せずにいた。

ふと結衣の姿が翔の頭の中に浮かび、以前であれば結衣の方から「最近、元気がなさそうだけど大丈夫?」「私でよかったら話くらいなら聞けるよ」と他の看護師とは違う形の、優しさや気遣いが感じられた。

母親には、話せないことも何故だか話せる雰囲氣を翔は結衣から感じていた。

何故だが、結衣の姿を見ることはこの半年の間で一度も無かった。他の看護師に尋ねてもはっきりとした返事が返ってこなかった。

なにかしらの理由で、仕事を辞めたか他の病院へ移ってしまったのか等と翔はいろいろと考えていた。が、もう既に結衣がこの空の下にはいないことを知る由もなかった。

翔が気にかけている人が結衣の他にもう一人いた。

それは、結衣よりも話した回数は少なく、どういった人かすら知る関係になること無く言葉を直接交わすことが無いまま、翔の前に現れることは二度と無かった。

「他の患者さんの情報を教えることはできません」と返事をされ、翔が守の名前を知ることや、彼が今どこで何をしているのか、何故この病院で入院することになったのか等の理由や、状況を知る術すら翔には無い。けれど、どうしても結衣と同じく翔のから存在が消えることは無かった。

半年前であれば、夕方六時には既に外の光は落ちていて、病室から見える駐車場の街灯の灯りが点き始めていた。

それが、太陽が出ていて外はまだ明るく窓の近くでは少し暑く感じるほど、まだ夏の姿を感じた。

翔の手術に使う臓器は二つで、臓器のドナーはそれぞれ違う人からであった。

母親は翔に対し「どこの誰かは分からないけど、あなたの中には二人の大切な気持ちが、これから支えていってくれると思いながら翔らしい生きていければ、きっとドナーの二人も喜んでくれるはずだよ」と言うと少し沈黙があって「うん。無事に退院してからサッカーをたくさん練習してヨーロッパでプレーして世界で一番の選手になれるように努力するよ」とベッドの上から窓から見える外の景色に目を向けた。

これまで見たことがない表情に、窓から入る太陽の光に照らされ、どこか輝いているように母親の目には写っていた。

入院生活が始まってから、こんなにも希望に満ちた輝きを放っている目をしている翔を見るのは初めてだった。母親にとって見れば、我が子のことであるとことを抜きにし、心の底から喜びが溢れていた。

手術に向けて、医師や執刀医の間で共有された情報や方法や、それによる翔の身体によるリスクや負担などの説明と情報が事細かくされた。

翔や母親にも、主治医から話が直接されて手術に対しての、疑問や心配事に対しては丁寧に対応された。

手術における不安や恐怖は、翔よりも母親の方が大きく心の中にあった。手術を受ける翔はどこかで既に覚悟を決めていて“動じない心”が胸の奥の方にあって「何か聞きたいことはある?」と主治医から聞かれても「いや、特に大丈夫です。先生達に全て任せます」と主治医や驚くほどの余裕がある様子を見せていたが、そうするしか出来ないと言った方が、翔の気持ちを表すには正しいのかもしれない。

これから大きな手術を行う人の口から「特に大丈夫です」と出てくることの方が普通では考えられなく「もし失敗したら!?」「成功する確率は?」と慌てふためいて我を忘れ、感情的に問い詰めるケースの方が多い。そういった人にはカウンセラーや主治医が、少しずつ不安を取り除いていくことがほとんどであった。

翔も周りの人を心配にさせたくない、何より母親にこれ以上の不安や恐怖を味合わせるようなことはしたく無いという考えかあった。自分がある程度の我慢をして手術に臨めば良いという考えになり、また手術を行う以外の方法は無いのだから、ここで主治医やカウンセラーを困らせたりすることをする必要は無意味だとどこか達観した考えを持って、すごく不安で怖くてできることなら手術など受けたく無い気持ちもあった。

手術が失敗することを考えるよりも、この約三年の間ずっとドナーが現れることや手術を受けられることを、待ち望んでいた母親や主治医をはじめとする看護師の気持ちをここで裏切ることは出来ない気持ちが強く翔の中にあった。

日を追うごとに、臓器移植手術へ向けた準備が着々と進められた。夏の空に晴れ晴れとした太陽から、どこか少し寂しさを感じる赤く染まった紅葉の葉が翔の部屋の窓から徐々に多く見え始めていった。

窓から入ってくる風も、朝晩になると冷たいものへと変わっていき、病院食として出てくる食材も、たけのこやら椎茸など秋の食材がメニューへ変わっていった。

ドナーから提供された臓器の手術は、一日一回行うことが出来ればよい方で、日本全国を見た時に臓器移植手術のスキルがある医師の数はかなり少ない。

翔が入院している病院は、その中でも最先端の医療技術を持った医師が他の病院と比べた時には多い。そのため、それ以上に全国から臓器提供手術を望む患者の割合の方が、医師の数よりはるかに上回っていた。翔のようにドナーが現れたといって、すぐに手術へ繋がるケースは少なく順番待ちで手術まで、半年後や一年後というケースも稀ではない。

翔に手術日が伝えられてからの間、今までとは違った緊張感や不安が翔を襲っていった。毎日行っているトレーニングや勉強に対しての集中力が落ちていき、それまでのリズムが崩れていき、日に日に以前のようにベッドの上で何もせず過ごす時間が増えていった。

現在の医療技術や、翔が入院している病院が持っている医療技術であれば、今回の臓器移植手術が失敗する可能性よりも、成功する可能性の方が遥かに高いものであった。やはり心のどこかで不安と恐怖があって、それらが消えることは手術を終えるまでは無いのだと考えながら、身体は正直でドックドックと手術のことを考えれば、胸の鼓動が夏祭りの太鼓のように速くなっていた。

スーッと鼻から勢いよく息を吸い込むと、フーッと口からゆっくり息を吐いた。

病室の窓から、優しい風と共に病院の中に生えている草の匂いを感じ取ることができ、身体中を巡って翔の外へと出ていった。

「もう少しで晩ごはんですから、ちょっと待っていてくださいね」と血圧を測る機械や点滴が入ったパックを乗せた銀色の台車を押しながら、翔がいる個室の扉の向こう側から看護師の声が聞こえたと思い思ったらすぐに足音へと変わっていった。

窓からは、たくさんの雲と生い茂った葉の間から青い空が見え隠れしていた。





テーブルの上には、いつものようにノートと教科書が開かれていた。

いつもであれば、朝昼晩の食事を残さずに全て食べるのだが、スプーンを口へ運ぶ速度もゆっくりで、あまり味わうことなくどこか上の空だった。全体の半分を終えたところで、翔はスプーンをトレイの上に置き、そのまま横になってまた天井を見つめていた。

ガラガラっと音がして翔がいる病室の扉が開いた。外から主治医とカルテを持った看護師が入ってきて「あともう少しで手術する日が決まるので、それまでの間に今まで通りトレーニングをして食事を摂って体力をつけておいてください」と翔に向かって主治医が言った。「先生、もし万が一手術が失敗したり、成功した後にまた入院生活に戻ることは無いんですか?」と強めの口調で翔が主治医に尋ねると「失敗しないように向けて、私や手術を行う執刀医を含めた全スタッフといろいろなシュミレーションをしているので、失敗する確率はかなり低いもので”ほぼほぼ無いもの”だと考えていただいて結構です」と続けて「術後のことに関してはすぐに退院してもらえる訳ではなく、経過観察をしたいので最低三ヶ月は入院生活が続きます」と主治医がゆっくりと翔に対し説明をした。

それを受けて静かに翔は頷きながらも、強く手を握り締めて冷静を保とうとして、その表情はいつもと比べて強張っていて、何かに対し怯えているような様子を、主治医や看護師は受け取り「何か不安なことや些細なことでも構わないので、話がある場合は遠慮せずに、私か看護師に言ってください」と翔と同じ目線になって主治医が言うと、それに対して返事をすることなく翔はただ黙ってゆっくりと頷いた。

主治医と看護師は翔の部屋から出て行き、翔は部屋にまた一人になってベッドの上で、ただボーっと手術やその後の自分の姿を想像した。一体どうなっているのかが分からず、少し前の手術に対しての前向きでポジティブな気持ちでは無くなって、それと真逆のネガティブで後ろ向きな思考が、台風情報で表される風の向きのように頭の中をぐるぐると回っていた。

翔は、自分の額を手の平でボンボンと自分の気を紛らわせるかのようにして何度も叩いた。それによって痛みを感じることにより“生きている” ことを確かめるかのようにしていた。

部屋の壁の時計に目を向けると、既に五時を過ぎていた。部屋の窓からは少しずつ明るさが消えていき、徐々に空が暗くなっていくのを翔は眺め”これからの自分の将来も同じように暗いものになっていくのか”と、そんなことが頭の中を過っていた。手術は確実に行えるといった現実とは裏腹に、そこに対しての恐怖が益々大きくなっていった。それでも時間が止まること無く、臓器移植手術に向けて着実に日にちが迫っていった。

一日が過ぎて行くごとに、翔の中の不安と恐怖は大きくなっていったが、その思いを母親や主治医などに自分の口から伝えることはしなかった。なんとか心の中に抑え込むようにして、周りには一切心の内を見せないようにしていたが、毎日朝晩に必ず看護師が翔の体調に変化が無いかと確認を行っていた。日を追うごとに、翔が何かに対して、すごく怖がって恐怖に感じている表情を看護師は読み取っていた。

それから毎朝行われている採血の結果と加えて、MRIやCT検査が行われていった。

臓器提供手術へ向けて、翔の身体に変化があるかどうか細かく検査を行った。特に異常が見られなければ、二週間後の木曜日に手術を行うことが、主治医と執刀医を含めたスタッフの間で決められた。翔と母親にも伝えられた。

母親はこれ以上ないくらい喜び、何度も主治医や看護師に対し「ありがとうございます」と繰り返し頭を下げていた。その横で、不安と恐怖が日を追うごとに大きくなっていた翔は、素直に喜ぶこと無く「わかりました」とだけ小さく呟きながら、身体の前でゆっくりと両手を開いたり閉じたり繰り返していた。

繰り返し頭を下げている母親の姿を見ながら、自分の気持ちを言葉にしたいのを翔が寝ている、ベッドの周りにいる主治医や母親に分からないようにして、右手で自分の太ももを強く叩くことで抑えていた。

病室から主治医と看護師が去っていき、翔と母親だけが残された。

「きっと無事に成功して学校に行けるようになるから、お母さんもできることは全て手伝うから」と翔の肩に手を当てながら、片手はハンカチで涙を拭きながら母親が翔に対し言葉をかけたが、黙ったまま静かに翔は頷き「もううちに帰っていいよ」と母親に対し言うと、布団を頭まですっぽりとかぶった。

ガラガラと扉の方から音がした。部屋は一気に静かになって、頭まで被っていた布団を、少しずつ下ろしてベッドサイドを見た。

先程まで座っていた母親の姿はそこには無く、病室には翔だけになっていた。

時計の針が進むカチカチと大きく聞こえ、翔は消灯台に置かれている小さなカレンダーを見て、手術までの日数を数えながらどう抗っても逆らえない時間が進み行く中で、自分の力がどれだけ小さくて待ちに待った手術なのに、心から喜ぶことができずにいた。

諦めだとか苛立ちだとか、手術に対してどうでも良いなど様々な感情が、台風が上陸して街や森などに被害を与えているかのように、ものすごい速度で流れていき翔の心をかき乱していた。

その日の夕飯には、一切手をつけることなく「少しくらい食べないと体力がつかないですよ」と看護師から言われたが「今日は食欲がないのでいりません」と小さな声でつぶやいた。

何か少しでも、食べ物を胃の中に入れてから薬を飲むことが正しいことは、翔も十分理解していた。手術のことを考えると、食欲が全く湧かない中でも薬だけは飲まなければいけないので、仕方なく何も口にすることなく薬だけを飲み干した。

布団の中に入り込むと、またもや恐怖と不安が翔の心を襲っていた。

昼間、主治医が翔のところへ来て「失敗する確率はかなり低いもので“ほぼほぼ無いもの”」だと言っていたことを思い出していた。

“ほぼほぼ”が、一体どれくらいの確率でそれが高いものなのか低いものなのかが、翔には分からず仮に手術が失敗した際のことよりも翔が気にかけていることは、成功した後に今の入院生活がどれくらい続き、以前のように学校へ毎日通うことが出来る日はどれくらい先のことなのか。

手術が成功したからと、すぐに退院できるものでは無く、何ヶ月間かの経過観察というものが、自宅から定期的に通院して行うものなのか。今までのように、ベッドの上での生活を送る中で行われるものなのかが、全く主治医から一切説明が無いため翔には分からず不安と恐怖がその根本の一部となっていた。

翔はベッドの上でそのまま夢の中に入り込んでいた。そこでは不安や恐怖から解放され、日常生活とはかけ離れて同級生と学校へ通って勉強や遊ぶことができる世界になっていた。翔は頭のどこかで夢だとは理解しつつも、この夢が覚めないでくれと心からと願っていた。きっと目が覚めたら、いつも通りの生活に戻ってしまうことへの恐怖が心のどこかにあった。

目が覚めると、毎日のように翔の目からは涙がポタリとベッドのシーツに落ちていた。

翔は、自分の服で濡れた箇所を軽く拭き取った。看護師や他の人に対し、手術における恐怖や不安を抱えていることが察しられないようにと、母親へ心配をなるべくかけないようにしていた。

自分に対して強くあることで、少しでも不安や恐怖に打ち勝てるのではと考えていた。

毎日のように主治医が翔の元へ訪れ、身体に変化が無いかや不安なことが出てきてないかと五分程度の会話を交わしていた。

翔は、本当に心で思っていることを主治医に対し伝えられず「大丈夫です」と言って、なるべく一人で過ごしたいことから会話を短くしとうとしていた。

この日も、五分程度で終わると翔は考えていたのだが「二週間後の金曜日に手術を行うことが決まりました」と主治医の口から出た。最初、翔は他人事のように「はい」と軽く返事をし、その後に頭の中でもう一度主治医の言葉を繰り返した。

それまで、手術がいつになるのか分からない中で、二週間という明確な日数を目の当たりにした。本当に自分のことなのかと疑う気持ちが嬉しさよりも上回っていた。

手術が、二週間後に行われるという知らせは母親の元へも届いていた。看護師が電話で伝えると、電話越しから啜り泣きと共に「ありがとうございます」と何度も繰り返している母親の声が聞こえた。

翔と同じく、この約三年の間で全国からドナーが見つかるかや、翔の身体と合う臓器が手元に来るのかと蜘蛛の糸を掴むように、毎日待つことしかできない日々が続いている中でようやく嬉しさと少しの安心が、雲の隙間から光が差し込んで暗闇から明るくなっていき翔の母親の心は少しずつ晴れ渡っていった。

病院からの電話が終わると身体の力が一気に抜け、翔の母親はその場に座り込んで大粒の涙が溢れ出た。諦めずにドナーが現れることなどを含め、様々な出来事を翔の力を信じて支えて乗り越えて来たこと。なによりも、翔が途中で諦めず投げ出さずに自分が置かれていることと向き合ってきたことに対し、我が子ながら誇りに思うと同時に一人の人として、心から尊敬していた。

翔の元へも、看護師経由で手術の日程が決まったことが母親の元へも連絡が届いたことが伝えられた。

そのことを聞いた翔は、少しほっとし“ちょっとだけ母親に対し良いことができたのでは無いか”と思い、まだどこかで母親が心配して不安な気持ちでいると思うと、手術が成功して一日でも早く退院し、自宅での生活へと戻るが最大の親孝行であると考えていた。

翔は手術の日が決まってからは、毎日が過ぎていくのが楽しくてたまらないのだろうと想像していた。が、実際に現実のものとなってみると多少の嬉しさと喜びはあるものの”自分のことではない”ような思いが、心の中で徐々に大きくなっていった。

手術を受け、以前のように学校へ行き友達と勉強や遊びを共にしたいと思うと同時に、もし仮に主治医が言っていた”ほぼほぼ”に入らなかった場合は、失敗となって自分の身体が今よりも悪化する可能性を考えると、両手を上げて心から喜べなかった。

もし仮に、この世界にまだ結衣が生きていて、毎日のように翔の元へ訪れていたと思う。一人で悩みを抱えこまずに、いろいろな話を聞いてもらうことで気持ちが楽になって「そんなに悩まなくてもきっと手術は成功して、また学校で友達と勉強や遊べるようになるよ」と満面の笑顔で翔の肩をポンっと軽く叩きながら声をかけたに違い無いのだが、いくら強く翔が願ったところで結衣はもうこの世界には存在しないことを翔はまだ知らない。

手術の日程が決まってから、毎日翔の元へ母親が訪れていた。以前よりも増して「何かしてほしいことがあったら何でも言ってね」「一応学校の先生にも手術が決まったことを伝えておいたから」と喜びが母親の姿から、星の形のように翔の目に映って見えて、以前と全く母親の表情が明るくなっていた。

「特にないよ」「そんな、何回しか会った事がない人に伝える必要ないよ」と言葉では冷たく表していたが、母親が笑顔で話しかけてくれることが、ここ三年の間で翔にとってすごく嬉しかった。

そんな会話を交わしていると、ガラガラと扉が開く音がして外から主治医と看護師が翔と母親の所へやって来た。

主治医が少し嬉しそうに「お母様にもお伝えしたいことなので、ちょうどお二人が揃っていてこちらとしてはタイミングが良かったです」と翔と母親に向かって言った。

それまで、丸椅子に座っていた母親が主治医が部屋に入ってきてから、椅子から立ち上がっていることに対して座ってもらって構いませんと表し、母親に椅子へ座るように誘った。母親は一礼をして、丸椅子に座って翔の方に背にし、主治医と看護師の方に身体を向けた。

翔も少しだけ、体勢を変えてベッドの上で話を聞くつもりでいた。「もし負担でなければ車椅子に移りますか?」と看護師に聞かれたので、体調も悪くなかったので「あ、はい」と返事をすると、看護師が廊下に置いてあった車椅子を、翔が寝ているベッドの横に持ってきてくれたので翔は自力で車椅子へ座った。

「自力で動けるのは手術において体力があることに繋がってくるので、毎日のトレーニングの効果が出ていますね」と優しくニコリとした主治医の顔が、翔には何故だかとても嬉しくて眩しく感じた。

「手術に向けての説明を改めて」と主治医が翔と母親に対し説明が始まり、母親が「この場合はどういった方法をとりますか?」「息子の身体に負担が掛かると思うのですが、最大何時間まで耐えることができると想定されていますか?」等と翔の身体のことを心配する気持ちと、翔が自分で聞かないことを理解していた。なので、代わりに事細かく主治医に対し、質問を投げかけていることを翔も感じ取っていた。

主治医は翔の母親からの問いに対して、一つずつ丁寧に説明を何度も繰り返した。

翔と母親が納得するまで、紙にイラストを描いて分かりやすく伝わる工夫をしたり、看護師に頼み説明に必要なことが書いてある参考文献を持って来てもらったりしたものを翔と母親に見せるなどをして、目の前の患者や家族に対し、全ての力や知識を活用して一ミリでも不安を取り除くように努力していた。

説明を始めてから一時間半くらいが経過して「他に分からないことや不安なことがあればいつでも聞いてください。できる限りなるべく短時間でも、翔さんのところへきてお話を聞かせてもらうように私も努力します」と最後に主治医が言い残し翔と母親に一礼をすると部屋を去っていく後ろ姿に、翔も「ありがとうございます」といつもより、大きな声でしっかりと主治医の方を向いて伝えた。

翔の中には何かはっきりとしなく、とても大きく心をすっぽりと包み込んで暗闇に変えてしまうものがあった。

主治医と母親との時間でどこか遠くの方へ消え去ってしまったかのように、それまであった不安や恐怖が今の時点ではすっかりと無くなっていた。

車椅子からベッドに戻って、布団を横に座っている母親の姿に窓から入る太陽の優しい光が当たっていた。なによりもその光景が翔にとって、嬉しく感じられた。

翔は、消灯台の上に置かれたカレンダーに目を向けると手術までの日数を数えていた。

気持ちが落ち込み、それまでほったらかししておいた教科書とノートを消灯台から取り出し、ベッドの上に机を設置して黙々と勉強に向かい始めた。

“どうせ同じ一日を過ごすのであれば、自分が出来ることをしっかり取り組んでおこう”と夜になって落ちていた太陽が、朝日として明るく照らし出しているように、翔の中の気持ちが強くなっていた。少しずつ確実に自分が出来ることを取り組み、一日を無駄にしない日が続いていた。

何かに真剣に取り組んでいると、時間の流れは早く感じ過ぎ去っていくが、勉強やトレーニング等に集中せず就寝時前になると、また心の奥底から不安と恐怖が翔を毎晩のように襲ってきた。

翔が入院している病院では、これまで何度も臓器移植手術が行われていた。医療的技術も他の病院と比べた時に、遥かに高いものであった。

手術に関わる医師や看護師の間には、いつも以上に高い緊張感や絶対に成功させることが、翔にとって良いことであった。

また、全国にある病院からの臓器移植に対する技術の共有や、病院に対する信頼が落ちる可能性がある為、なんとしても成功する必要があった。

翔は毎日のように、勉強とトレーニングに取り組んでいた。主治医らは手術に向けて、何か見落としているところや手術時間を短い時間にするための工夫などが無いかと考え話し合いを繰り返していた。

気がつくと手術日の前日となっていた。

勉強している手を止めて、ふと窓の外の風景を翔は見た。

まだ夕方五時にも関わらず、天気が曇りということもあって既に外は真っ暗になっていた。翔は手術に対する不安が心の中で大きくなっていたが、翌日に控えた今となっては、手術に立ち会う主治医や執刀医の方を信じることしかできないと考えていた。





手術を翌日に控えた夜、面会時間ギリギリまで特に何をするでも無く、翔が寝ているベッドサイドに丸椅子を置いて座っている母親の姿があった。

「もう大丈夫だから、そろそろ帰った方が」と翔は小さな声で母親のことを気遣いながらと言っても「なんとかして待合室でもいいから今夜くらい病院に居させてくれないかしら?」と言い出したので、咄嗟に翔は「あとは寝るだけだから家に帰った方がゆっくり休めるから、帰ってくれよ!」と強い口調になった。

それでもまだ翔の側に居たそうな母親だったが、翔の表情がだんだん怒っているように変わっていき「じゃあ、明日の手術の時間帯よりも早めに来るから」と自宅へ帰る気になって、座っていた丸椅子を片付けてから翔が既に着た洋服を自宅で洗濯するために自分の荷物と一緒にまとめて帰る準備を終えた。「夜になにかあったら遠慮しないでナースコールを押して良いからね」と言い残して部屋を後にした。

やっと帰った、と心の中で思いながらもその反面で、明日の夜には果たして手術が終わっている。その時、今のように自分の言葉で話すことが出来ているのかと、今までとは違った不安を抱いた。

消灯台に置かれている照明のスイッチをオフにして、目を瞑りなんとか寝ようとしたが、頭の中でいろいろなことを考えてしまい、なかなか寝付けずにいた。

いつもであれば、朝まで起きていたとしてもなんの支障も無いが、翌日に手術を控えている現状を考えると、寝ないで過ごすことは身体に疲労を蓄積されてしまう。

それでは、手術を行う上で体力がもたなく大きな問題に繋がってしまうので、翔はナースコールのボタンを押して看護師に来てもらうことにした。

ナースコールのボタンを押してから、一分程で看護師が翔の部屋に来た。「どうしました?」と翔に尋ねてきたので「どうしても寝られなくて」と相談すると「ちょっと当直の先生に相談して、軽い睡眠薬でも出してもらいましょうか?」と言い残し扉を静かに閉めて後にした。

五分程して、先ほどの看護師が手に一粒の薬と水が入ったコップを持って「これ、そんなに重い睡眠薬では無く、精神安定剤みたいな効果があるもので飲んでから様子見ていただいてそれでも眠れないようでしたら、また声を掛けてください」と言いながら消灯台にコップを置き翔の手に薬を渡すと早歩きで部屋を後にした。

翔は、看護師から渡された薬を口に入れすぐさま水と一緒に飲んだ。薬の効果がゆっくり効くのを待ちながら、身体をベッドの上に横になって目を瞑り静かに、眠りへ入るのを待ち五分もせずに、夢の中に落ちていった。

薬の効果もあって、その晩は普段と見ることが多い夢を見ること無く、朝まで深い睡眠をとることができた。

「松田さん、手術当日ですよ」「しっかり朝ごはん食べて頂いて血液検査を行わなければいけないので起きてください」と翔の肩を軽く揺りながら看護師が優しく声をかけた。

就寝前に飲んだ薬の効果がまだ残っていることもあって、いつもより激しい眠気が翔を襲っている中で、深い落とし穴から這い上がるように、なんとか目覚めた。「わかりました」と看護師へ伝えるとベッドの上で上半身を起こし、時計を見ると七時前を指していた。

手術開始時刻が十一時で、あと四時間後には手術室の中で新しい臓器が自分の身体の中に入っていることを想像したが、まだ手術を行うことが現実として捉えられていなかった。

朝食の八割を食べ終えて、窓から見える空に視線を向けると、“これでもか!”というくらいキラキラと太陽が輝いて、雲一つない快晴だった。まるで、翔の手術の成功を予期しているかのようで、外を見ているとガラガラと扉が開く音がした。

まだ面会時間になっていないのにも関わらず、母親の姿があった。

「まだ時間になってないじゃん」と翔が母親に向かい言うと「先生が特別に許可をくれて手術まで翔さんの側にいて良いって言ってくれたから」と目の下にうっすらとクマがあった。

恐らく翔のことが心配で、昨夜はあまり眠れなかったことが聞かなくても表情から感じ取れた。

母親が、翔の元へ来て五分程経過して主治医と看護師が部屋の中に入って来た。

「いよいよ今日ですね 我々も全力を尽くしますので、翔さんはどうか信じてください」と言うと母親の方を向き「万が一のことが無いように、私を含めてこれまで様々なシミュレーションを繰り返してきましたので、何かあった場合は、私が全責任を背負う覚悟で行います。どうかお母様も手術が終わるまで不安だと思いますが、息子さんのことを信じて待っていてあげてください」と言うと、深々とお辞儀を翔の母親に向けて頭を下げた。

「こちらの準備が終わるまで、もう少しこちらでゆっくりして、もし体調に変化が起きたり、何か聞きたいことなどがありましたら遠慮なく、ナースコールで呼んでいただければすぐに来ますので」と優しい口調で看護師が翔と母親に言うと、主治医と共に部屋を後にした。

部屋には翔と母親の二人になり、「きっと大丈夫だから」としきりに言う母親を横にして、気を紛らわすためにいつものように教科書とノートを出して、翔は少しでも時間を無駄にしないようにと勉強に取り組み始めた。

丸椅子から立ち上がったり、座ったりを繰り返したり、自分が持って来た荷物から翔の、今までの入院生活における体調などが記されたノートを開き、何かをチェックしていた。

ぶつぶつと小さな声で、独り言を発している母親を横目にして、うるさいと思いながらも、きっと少しでも気を紛らわしているに違いないのだから、もし注意してしまうと傷付けてしまう事になると思った。

二人の間で、会話が交わされることは無く刻々と手術の時間が近づいていた。

「そろそろ手術室近くまでベッドのまま移動しますので、お母様もご移動の準備をお願いします」と看護師から促されると、先ほどまで開いていたノートを閉じ急いで荷物の中に戻した。

「はい、ありがとうございます」と看護師に向けて伝えながら、それまで座っていた椅子を部屋の角に戻した。

いつもベッドがある部屋から出て、同じ病院内の他の場所へ移動したのは、すごく久しぶりだった。

翔は、手術室に向かっていることへの不安と、目に入ってくるいろいろな物が、すごく新鮮で目新しく感じていて“早く自分の足でいろいろな場所へ行き様々な経験をしたい”という気持ちが大きくなっていき、手術に対する不安や恐怖はほんの少しであったが、心の中では小さなものへと変わっていた。

手術室がある階は、翔がいつも過ごしている部屋のある階とは違う場所にあって、大きなエレベーターを使って行く事になった。

エレベーターを待っている時に、翔は以前この場所ですれ違った、名前もわからない一人の男性のことを“今あの人は何をしているのだろうか”と思い出した。

自分でも、なぜあの時も今もその男性のことが気になっているのかは分からなかった。自分の記憶から消えているだけで、もしかしたらどこかで会ったことがある人なのか、母親の知り合いの人なのかと様々なことを考えていた。

ベッドはエレベーターから降りて、“手術室”と書かれたパネルがある前に止められた。

「今、待っていただく部屋を準備しますので」と一人の看護師が言うと、他の三人が先ほどまで翔がいた部屋よりも、一回りくらい小さな空間の照明を点けた。さらに換気をするため部屋の窓を開けると「大丈夫です」と声を上げると「じゃあ、また動きますね」とベッドの後ろにいる看護師が合図を出すように翔へ伝えた。

廊下から部屋の中へベッドが移動し固定され「あと一時間ほど掛かるのでこちらで待っていただいて、先程の部屋と同じくナースコールがありますので、何かありましたら」と母親が座る椅子を持って来ながら伝え、翔と母親がいる部屋を後にした。

扉の外では先程の看護師たちが「先生に患者さんを連れて来たことと、何か準備しておいた方が良いものを確認してきて」と言う会話が聞こえてきた。

「手術、長く掛かるって先生が言っていたけど、ずっと待ってなくてもいいから」と小さな声で翔が言うと「翔も頑張るからお母さんも、待合室か病院のどこかにいるから」と母親が返事をした。やっぱり言っても無駄で、子供のことを想う気持ちに勝ることは出来ないのだと翔は手術まで四十分前にして、親の偉大さを改めて感じさせられた。

トントンと扉を叩く音がして開いた。先程の看護師が三人部屋に入って来て「そろそろ手術室へ移動しますので、こちらの方へベッドから移っていただきます」と廊下には翔が寝ているベッドとはまた違った形をしていて、大人一人が横になれる広さの台が準備されていた。

翔は、看護師の手を借りてベッドから一度車椅子へ移動して、廊下に出てから準備されているベッドのようなものの上に横になった。

「お母様も一緒に手術室の前までどうぞ」と一人の看護師が母親に声を掛けた。「ありがとうございます」と母親が言いながら、その間に看護師の手を借りて車椅子から手術室へ向かうために使う、ベッドのようなものへ移動した翔はその横になると「それでは動きますね」と看護師の声がすると翔が横になっているベッドのようなものが、少しずつ手術室の方へ進んで行った。

その後からは、母親が自分の荷物を持って心配そうな顔で一緒についてきているのが翔の視界に入っていた。

先ほどまでいた部屋から約十メートル歩き徐々に先ほどよりも人気が少なくなり、廊下には様々な移動器具が置かれていたりする中をまるで“裁判へ向かう人”の気持ちのように翔の心は高鳴り始めていた。

廊下の照明があまり明るくないこともあって、小さかった不安が“風船が膨らむ”ように大きくなっていった。

心の中で「逃げたい!」と気持ちが声になって外へ出ないようにしながら、強く何かにしがみつくように思っていた。

どんなに強く思ったところで、今更この状況から逃げることは到底でき無く、何よりも人に“成功”することだけを強く信じて主治医や手術に関わる人たちに任せるしか他に方法はなかった。

翔が横になったベッドのようなものが止まると「それでは、ここから先はご家族の方も入ることはできませんので、そちらにある椅子もしくは後でご案内する部屋で、お待ちください」と看護師が母親に伝えた。

「綾瀬翔さん、十四歳。脈と心拍などに異常は見られず、ご本人も体調に対し特別な変化はないとのことです、よろしくお願いします」とA4のファイルを見ながら、テレビや映画などでよく見る全身緑色のオペ用の服を身に纏った人へファイルのようなものを渡すと「わかりました」と言いながら、看護師から翔が受け渡された。「それでは手術室に入りますね」と声を掛け、母親の方を向き「手術が終わりましたら、看護師に連絡をした上でお声をかけさせていただきます」と伝えると、母親が「よろしくお願いします」と返し「頑張って」と翔へ声を掛け、左手を母親の両手で優しく包み込むようにぎゅっと握った。

「わかったから」と素っ気ない態度で返したが、本当は母親の手の暖かさがすごく嬉しく手術に対する怖さを伝えたかった。

赤い背景の上に白い字で“手術中”と書かれた文字を見ながら、翔が横になっているベッドのようなものは自動ドアをくぐり手術室の中へと入っていった。

手術室の中へ入ると、十人程が同じような格好をしていた。その中には翔の主治医もいて「今から全身麻酔をして眠ってもらっている間に臓器を入れ替えるので、少し怖いかもしれませんが、また目が覚めるので安心してください」といつものように優しい口調で翔へ言葉を掛けると「お願いします」と返事をした。

ピッ、ピッと一定のリズムを刻みながら鳴っている音が微かに聞こえ始めた。“なんだろう?もしかして手術が失敗して、何かしらのアクシデントが起こっているのか”と意識が朦朧とする中で、翔はどういった状況の中にいるのかと理解しようと思った。少しずつ閉じでいた瞼が開くかどうかを確かめながら、目を開けた。始めは部屋の照明で眩しく、はっきりとものが見えなくなっていた。

徐々に目が明るさに適応して、天井の模様と眩しく光っている蛍光灯の輪郭がはっきりとしてきた。翔は身体が動くかどうかを確かめるため、右手を上げようとした。頭でイメージしていたよりも翔の右手は上がらず、まだ麻酔の効果が残っているせいか身体に力が入らなかった。おそらく手術は失敗していないことは、なんとなく翔は把握することができた。

声が出るかを確かめるために、あーっと恐る恐る声を出すように、意識をしてみるとはっきりとし大きな声が出なかったが、小さくか細い声は出た。

「かける!?」と声が聞こえ、翔の視界に母親の顔が入ってきて、心配そうな表情をしながら翔の右手をぎゅっと包み込んだ。「手術、無事に成功したよ!!よく頑張ったね!!!」と言いながら、大粒の涙が流し、その表情の奥にはどこか優しさが溢れんばかりに見えていた。

これは夢では無く現実なのではと思えてきた。徐々に嬉しさが心の奥底から大きくなっていき、気がつくと目から頬にかけて、すーっと涙がこぼれ落ちていった。

部屋の扉が開く音がすると「綾瀬さん、目が覚めましたか?気分が悪いとかはありますか?」と主治医が翔に尋ねた。声を出すことが難しかったので“大丈夫”であることを伝えるように、ゆっくりと頭を左右に動かし「新しい臓器が、翔さんの身体に悪い影響がこれから出ないかを経過観察していきます。どこかが痛かったり、少しでも違和感があったりしましたら、すぐに看護師を呼んでください」と翔に対し、優しい口調で伝えた。

手術は何時間ぐらいかかったのか。その間、母親は一度も自宅に帰らず手術が終わるまで、ずっと待っていたのかを翔は聞きたかったが、声がまだ思うように出せず母親に尋ねることは到底出来ない状態だった。さらに今まで感じたことが無いくらいの、疲労が翔を襲い気がつくと眠ってしまっていた。

「手術、無事に成功して良かったね」そこには結衣の姿があった。「え!?今までどこにいたの?」と思わず翔は目の前にいる結衣に尋ねると「実は私、原発性硬化性胆管炎という病気になって、いろいろな治療を受けたけど見つかった時には手遅れで、もうそっちの世界には居ないんだ」といつもの満面の笑顔で、目の前の翔に優しい口調で伝えた。

翔は思わず「え!?いつのこと!?」といつもであれば、冷静で何事にもあまり動じないのだが、結衣が前に翔に対し話した幼い頃に看護師を目指そうと決めたきっかけの出来事や、他の看護師とは違う関わり方など翔にとって”太陽のような存在”であった結衣。

彼女がもうこの世界にいないことの驚きと衝撃が身体中を巡っていた。

これが夢であることは翔も分かっていたが、なぜ結衣が自分に何を伝えようとして、自分の前に現れたのかを必死に理解しようと試みた。

が、夢だからか頭が思うように働かず、その間にも目の前の結衣は話を続け「実は、君の身体の中に入っている新しい臓器の持ち主は私と、前にエレベーターの前ですれ違って君が気にかけていた守さんという男性の人の臓器なんだよ」と言うと、それまで結衣しかいないはずなのに、その横には二十代半ばの男性が立っていた。

翔がその男性の姿をよく見ると、確かにあの日エレベーター前ですれ違い、翔が自分の個室から聞こえた男性の声と一緒の声だった。「やっと君に会えることが出来た」と守が翔に話をし始めた。

虚血性心疾患に罹る前の生活は、平凡で“生きる”ことに対しは関心が無かった。

毎日、あまり人から目立たぬように自分から積極的に行動を起こさずに暮らしていた中で虚血性心疾患に罹った。

入院する中で、翔の存在を知りもっと積極的にいろいろな事に取り組み、自分が置かれている状況に対し諦めていない姿や話を結衣から聞き、自分も頑張ろうと思っていたこと、守は翔に対し自分の思いや考えを素直に伝えた。

「僕は死んだけれど、君の身体の中の僕の臓器が動き続ける限り、きっと僕は死なないのだと思う。僕が出来なかったことや、やり残したことを、君がこれから歩んでいく道や夢と一緒に叶えていって欲しい」と翔の目を見つめ、守は力強く伝えた。

翔は力強く頷くと守と結衣に対し「ありがとう」と二人の手を取って涙を流しながら伝えた。

守と結衣は、優しく微笑んでいた。

「これからは自分が、やりたいと思ったことに私たちの分までやり通してね」と結衣の後に「あ、でも僕たちのことを考え過ぎて無理しないで欲しいけど、僕たちがやり残したことが、君の夢を叶えることが僕たちの願いだから」と守が翔に対して言葉をかけると、二人の姿は消えていった。

翔は目が覚め、自分の身体の中には二人の想いが、詰まった臓器が入っているのだと思うと涙がこぼれ落ちた。その涙は今までのように、恐怖や不安が篭ったものでは無く、結衣や守に対しての感謝の気持ちと自分が“生かされている”ことへの想いなどが篭っていた。

目が覚めると、やっぱり今までのは夢だったと、翔は理解して自分の身体の中に入っている臓器が、結衣と守のものであったことを、ベッドの上で二人の臓器が動いていることを、確かめるように自分の右手を腹に当てていた。

"大切にして生きていこう“と自分に対して決意表明のように翔は強く思った。

窓の外を見ると、まだ空は暗い箇所もある中で、東から少しずつ明るい日差しの面積が増えてきていた。消灯台に置かれた時計に視線を向けると針は五時を過ぎていた。

ただただ天井を見つめながら、胸の鼓動を確かめるように右手を左胸の上に当てると、ドクドクと太鼓のように一定のリズムを刻み動く心臓の鼓動が伝わってきた。

「綾瀬さん、おはようございます」と主治医の声が聞こえたので、声がする方を向くと主治医と看護師が部屋の中に居て、翔の顔を覗き込み「体調はどうですか?昨晩はゆっくり眠れましたか?」と翔に尋ねてきた。翔は「はい」と出せる限りの大きな声で返事をした。

「昨日の手術についての、ご説明をお母様と翔さんへお伝えしたいので、お母様が病院へいらっしゃったら看護師から私の方へ声をかけるように伝えておくので、一緒に話を聞いてください」と翔に発した言葉に対し、顔を縦にゆっくりと動かして主治医に対して”わかりました”と意味を込めながら意思表示として翔は態度で示した。

「それではゆっくり安静にしていて、三十分ごとに看護師が診にくるので、何かありましたら遠慮せず看護師に言ってください」と言葉を言い残し、主治医は翔がいる部屋を後にした。

主治医と翔が話をしている間に、主治医と共に部屋へ入ってきた看護師は、翔の体温測定や血圧を測って、もう中身が空の点滴のパックを新しいものに取り替えていた。

主治医と翔の話が終わるのと、同じタイミングで全ての工程を終わらせ、時間にするとほんの十分程度で何一つ無駄の無い動きで、翔は心の中で驚きと尊敬の気持ちになった。

主治医と看護師が部屋から出ていくと翔一人の時間になった。手術前は時間が許す限り、ずっと勉強に取り組んでいられたのだが、まだ自分で身体を動かすことはおろか勉強を行うほどの体力が戻っていないので、ベッドの上でただただ天井を見つめ時間が過ぎていくのを待つしかなかった。

三十分ごとに訪れる看護師からの「大丈夫ですか?」と言った問いかけに対し、頷き返事をすることで一日が過ぎていった。

手術をしてから、一週間後に翔と母親と主治医と看護師が集まった。

翔が受けた臓器提供手術に関する報告と、その後の経過観察を受けてこれからのことについての話し合いが行われた。「結論からお伝えしますと、手術は成功です。一週間の経過観察で現在の所は、翔さんの身体に異常は見当たらず、体調も良好に安定しているので我々としても安心しています。念の為、あと一ヶ月ほど入院してから退院してもらう形にしたいと考えています」と翔と母親の目を見ながら、手術がどのように行われ、その後の翔の血液検査が書かれたものを元に、主治医は丁寧に説明を行った。

母親は、主治医に対し深々とお辞儀をして「ありがとうございます」と伝え、翔が「わかりました。手術本当にありがとうございました」と主治医の目をしっかりと見つめながら、いつもより大きな声でお礼を言っている様子が、母親の目には堂々としていて、今までの子供っぽい顔から凛とした顔つきへと変わったように映っていた。

そこから徐々に、翔の身体は少しずつ自分の意思で動けるようになっていった。食事も点滴から以前と同じように自分で口から食べていた。

日中の時間のほとんどを、勉強に取り組む時間とベッドの上から足を下ろして前後に動かして、少しでも足に筋肉をつけて自分で歩けるように、退院してサッカーをするために毎日行なっていた。

勉強やトレーニングを行っている時に、翔はいつも結衣と守のことを考え意識しながら取り組んでいた。

夢の中で二人から言われた“僕たちがやり残したことが、君の夢を叶えることが僕たちの願い”という言葉を思い出して、自分の夢の、サッカー選手になって世界でプレーをすることに向かい、自分が出来る努力や学ぶべきことが何であるかを、考えながら行動していこうと強く想っていた。

“自分の夢を叶えることが、人の夢を叶えることに繋がる”今までそんな考えが一切、翔の中には無かった。それと同時に、そのような事が出来るのかと、自分でも信じられないほど衝撃的で、その可能性がある限りは、他人から譲り受けた臓器で生きていて、夢を叶えることに対して、たくさんの努力や必要な知識を付けていこうと翔は強く思っていた。

ベッドの上に敷かれた白いシーツに、窓の外から暖かく優しい太陽の光が差していた。

ベッドから、床に足を出し前後に動いている翔の足の影が翔は目で追いながら、窓から差す太陽の光が、これから先に待っている翔の明るく楽しく希望に満ちた生活を表しているかに、翔の心も太陽のようにポカポカと暖かく柔らかいものになっていた。

手術を終えてから一ヶ月が経過した。

この間、翔の身体に大きな変化が起こることは無く、点滴が外れて自分の口で食事を食べられるようになった。

それによって、体力が回復していき、経過観察をする中で主治医から「私たちが想像していたよりも大きな変化が見られないので、このままいけば一日だけ自宅へ戻ってみてもいいのかもしれません」と母親と翔にとって、まるで“神様からのプレゼント”が届いたかのようだった。

二人とも満面の笑顔になり「よかったね!」と翔の身体を抱きしめ、大粒の涙を流し母親は喜んでいた。そんなに喜んでいる姿を見たら、僕はどんな喜び方をしたら良いのかと心の中で思いながらも、翔も心の底から喜びに満ち溢れていた。

結衣と守の顔を思い出しながら二人に対し感謝の気持ちでいっぱいになった。

これからを、今まで以上に大切にして一歩ずつ夢に向かい、自分なりに努力をしていこうと改めて強く決心をした。

それから一ヶ月が経過しても、その間も翔の身体には特に悪い変化は無かった。

一ヶ月前に主治医が言っていたように、約三年過ごした部屋で翔が使っていた荷物や、大切に飾っていたサッカーボールなどを母親が持ってきた大きなスーツケースの中へ翔も一緒に詰め込んでいた。部屋の扉が開き、主治医と綺麗な花を持った看護師が「本当に退院おめでとうございます」と主治医が言うと、持っていた花を看護師が翔へ手渡した。

看護師から大きくて綺麗な花を受け取った翔は、母親と同じように深々とお辞儀をした。今まで人前では絶対流したことない大粒の涙を流し「本当にありがとうございました」と主治医と看護師、そして母親に対して心の底から自分の思いを言葉に乗せて伝えた。

約三年もの間使っていたベッドや消灯台などからは荷物は綺麗に片付けられた。

シーツに窓から差す太陽の光で白く照らされて、このベッドの上でいろいろなことを考えて、翔の頭の中でスライドショーのようなスピードで駆け巡っていった。

母親が一階の“退院手続き”と書かれた窓口で退院に必要な手続きをしていた。翔はロビーのベンチに座り、エレベーターの前で一階に降りてくるのを待っている車椅子に乗った男性と看護師の姿を横目で見ながら、あの時の自分と結衣の姿と重なり「きっと大丈夫だから」と小さく呟いた。

退院手続きを済ませた母親が、車を病院の前まで持ってくるからと翔に言い残し、早足で自動扉から外へ出て行った。その後ろ姿を翔は見て、ふと空を見上げると青空の中に一つだけ雲が浮かんでいて、四葉のクローバーのような形に翔は見えた。

それは、これからたくさんの幸せな出来事が待っているかのように見えた。

翔は空に向かって、大きく背伸びをしてふぅーと深呼吸をして「二人とも見ていて、二人の分までしっかり生きて絶対に夢を叶えてみせるから」と空の向こう側にいる結衣と守に向かい、誓うように言葉と共に一歩を踏み出した。





緑色の芝生に白いラインが引かれ、すごく大きな歓声と共に何万もの人がひとつの場所に注目して、それぞれのタイミングでジャンプして跳ねたり、椅子に座ったまま喉が潰れる程の大きな声で「KAERU!!」と叫んだりしていた。その声援の先には、赤と黒のユニフォーム姿で背中には10番が書かれ、一人二人と相手チームの選手を華麗なドリブルで、どんどんと躱しながら抜いていく翔の姿がピッチ上にあった。

あれから六年が経過し、中学を卒業した後は高校へ行き勉強よりもサッカーに専念して、その姿をJリーグのプロサッカーチームにスカウトされた。十八歳という年齢で高校を出た後、そのままJリーグでプレーをした。

プロ二年目で、翔のサッカーへの思いや技術が代表の監督やスタッフの目に留まった。

それまで止まっていた針が、一気に進み出すように二十二歳でJリーグから、子供の時から夢だったACミランでプレーが出来るまで成長していた。

翔が所属するACミランと同じ、イタリアリーグのチームであるインテルとの試合。通称“ミラノダービー”で、スタンドのサポーターの熱気は盛り上がっていた。

スタンドのVIP席には、翔の母親の姿もありピッチでプレーする息子の活躍と怪我をしないことを願い、応援する姿があった。

翔は試合開始からスタメンで出場して、チームメイトからもプレーはもちろんのこと、翔が持つ優しさや気遣いに対して信頼を大きく置かれていた。この日だけで無く、全ての試合においてゴールはKAKERUのものと意識が、チーム全体にあった。

今のACミランにおいて翔の存在は必要とされていた。

ゴール前までボールを上手く捌きながら、翔は残り時間を見た。ここでゴールを決めて一点でも多く取ることがチームのためになると同時に、ゴールを決めたいと燃えていた。

試合は残り三分で、スコアは二対二と同点でチームのどちらかがゴールすれば勝ち。そのままのスコアであれば延長線に突入する場面で、翔のチームメイトがゴール前で相手チームからファウルを貰い、フリーキックのチャンスがやってきた。

翔を含めた数名がボールの近くに集まり、誰もが自分がフリーキックを蹴ると譲らない状態で、翔も引き下がらずに片言の英語とジェスチャーで「自分が蹴る」とアピールしていると、主審から早く決めろ!とプレッシャーとインテルのサポーターの大ブーイングがスタジアム中に鳴り響いた。なんとか翔がフリーキックを蹴ることになり、主審がピーとホイッスルを鳴らす直前まで、翔はどういったコースでゴールポストを狙うかを頭の中で冷静に考えていた。

さっきまで、まるで暴動のように大きくスタジアム中に鳴り響いていたサポーターの声が翔の耳に聞こえなくなった。

フリーキックの位置から、チームメイトやインテルの選手が翔とゴールの間に立っているのにも関わらず“ここに蹴ればゴールネットを揺らすことができる”とまるで、ボールの軌道が見えているかのように目に映って、ピーと主審がフリーキックの合図のホイッスルを鳴らし、翔は先ほどまで見えていた、自分の位置からゴールまでの軌道に近いコースに向かいボールを蹴った。

いつもボールを蹴る力より、まるで翔を含めた三人分の力が翔の右足にかかった。

翔が蹴ったボールは、狙ったコースを辿ってゴールキーパーがジャンプしても、ぎりぎり届かない位置を通ってゴールネットを揺らした。

その瞬間に、風船を針で刺して破裂したかのように、ACミランのサポーターの歓声がゴーゴーとスタジアム中に鳴り響いた。

翔の鼓膜が、そのサポーターの歓声で振動していることを感じることが出来る程に客席は盛り上がり、サポーター同士が抱き合ったり、持っていた飲み物がこぼれてもジャンプしたり、翔がゴールしてACミランの勝利が確定したことに、我を忘れてサポーター同士で喜びを分かち合い歓喜の大合唱のようにスタジアムが包まれた。

誰がどう見ても、文句なしの鮮やかで力強いシュートが決まったことでチームメイトが一気に翔の元へ駆け寄り、翔の背中や頭を笑顔でポンポンと叩くと、あと数分で終わる試合にそれぞれのポジションへと戻っていった。

翔は、空を見上げると大きく絵に描いたかのようなキラキラと輝く星に向かって右人差し指を高く上げた。

これで二人が喜んでくれるのであれば、それで良いと思った。試合終了までの残り時間が、経過していくのを自分のポジションまで移動して最後まで集中を途切らさず、ずっとプレーしたかったサッカーができていることの喜びを感じていた。

どんなに苦しいことがあっても、この世界には、必ず自分を理解してくれる人がいることを確信したと同時に、試合終了のホイッスルが鳴り響いた。

翔は、力が抜けたかのように大の字でピッチ上に横たわった。

夜空を見上げながら、結衣と守の姿を思い出しピッチ上に立ち上がるとゆっくりと控え室へと戻っていった。その後ろからは「KAKERU !!」とサポーターからの声援が聞こえ、翔はすでに次の試合に意識を研ぎ澄ませていた。





空は大地や海と違ってどこまでも繋がっている。

快晴、大雨、厚い雲、季節や日によって様々な顔を持っている。それはまるで人生と同じである。

楽しい時、悲しい時、辛い時、人の心も空と同じようにいろいろな日々の中や人と関わる中で様々な気持ちを持っている。


空には終わりがないのだ。

だが人生には死という最期が訪れる。


空と人生、全く違うようでどこか似ている気がするのは気のせいだろうかと一人ホテルの部屋で食事を食べながら、窓から見える黒い空とシャンデリアの灯りのように輝きを放つイタリアの街並みを見ながら翔は考えていた。

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