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【30冊目】宗教的経験の諸相 上巻W・ジェイムズ著桝田啓三郎訳

【諸々】

・ハーバード大教授がヨーロッパの学生に向けて行った講義録。結構面白かった。細かい描写多すぎるけど。

・宗教的な特異な経験を幾つかの精神的経験に分類して記述した本。そのアプローチと記述の方法からして、宗教心理学と言えるこの分野の開拓者なのであろう。

・回心の経験談を複数記述してあり、元の心的状態と、回心によりその後の心的状態がどのようになったのかということは記述してある。それが、よくあるハッと気づいた状態であるかと推測しながら読んだが、それにしては回心の経験に対する賛美が過ぎる。結局は経験してみないと分からない、というものかもしれないが、その心的プロセスを詳細に記述するにはもう少し詳細な観察と分析が求められる。本著が書かれて100年経った今、どのような研究成果が出ているのだろうか。

・特に、各経験がどのような事象のために興っているかを分析・分類しているかについて興味がある。科学的見方の発展によってその分析は進むだろう。

【気になったところ抜粋&感想("→"以降)】

①宗教的というよりもむしろ哲学的と呼びたいほど冷静で理性的な、より平板単調な人々の経験とを比較してみると、私たちは両者をはっきりと区別する一つの特徴をそこに見いだす。この特徴こそ、私たちの目的から見て、実際的に重要な宗教の特殊性differnttiaとみなされるべきである、と私は思う。そして、その特殊性がいかなるものであるかは、キリスト教信者の心と道徳家の心とを、ともに抽象的に考えて比較してみれば、容易に明らかにされることができる。(中略)彼は心のけだかい自由人であって、めめしい奴隷ではない。けれども、彼には、すぐれてpar excellenceキリスト教的人間、たとえば神秘主義者とか禁欲的聖者が豊かにもっているものが欠けている。そして、この欠如が、彼をまったく別種類の人間としているのである。

→具体的にどのように異なるかが明確に記述されていなかったが、どのようなものだろうか。

②宗教というものは、それがもっとも高く飛翔するとき、いかに無限に情熱的なものとなりうるものか、ということを、私たちはやがて知ることになるであろう。愛と同じく、怒りと同じく、希望、野心、嫉妬と同じく、その他のあらゆる本能的な熱望や衝動と同じように、宗教は、合理的あるいは論理的に他の何ものからも演繹できない魅力を人生にそえるものである。(中略)もし宗教というものが私たちにとって何か特定の意味をもつものとするならば、それは、この付加された感情の範囲、このような婚礼の熱狂的な気分を意味するものと解釈しなければならない、と私は考える。

→宗教の与える精神的結果は個人的なものであり決して共通的なものではない。それがまた宗教に魅力を持たせるのだろう。

③宗教は、どのみち必要なものを、容易にし、よろこんで行わせるのである

→この点は宗教の素晴らしい点だろう。個人化が進む社会に生きる私たちは、生きていくための基本を身に着ける機会がどんどん減ってきている。

④多くの人々にあっては、「科学」がまぎれもなく宗教の位置を占めつつある。そのように科学が宗教にとって代わるところでは、「自然の法則」が、科学者にとって、崇拝されるべき客観的事実として扱われる。

→1900年頃に既にそのように感じられていたとのことだが、当時の慣習は今となっては考えられないものだろう。そして今後10年20年でその傾向は一層早まるだろう。現代においては宗教はスマホに取って変わられている。

⑤そういう場合、それと反対の手段をとると、成功することがしばしばある。まず、想い出そうとする努力をまったくやめるのである。なにかまったく別のことを考えてみる。そうすると、半時間もすると、忘れていた名前が、エマソンの言葉をかりると、招かざる客のようにぶらりぶらりと、そ知らぬ顔をして、諸君の心にあらわれてくる。

⑥私の偽善と欺瞞とのゆえに、滅び以外のなにものをも神から要求できないことを、私は知った。自己の利益以外のなにものをも顧みない私であったことが明らかになったとき、私が試みてきたもろもろの礼拝の勤めは卑しい欺瞞であり嘘の連続であるように思われた。すべてが自己礼拝以外のなにものでもなく、恐るべき神の冒涜にほかならなかったからである。

→信教徒はこの道を一度は辿るのだろうと想像される。このように混同することは人間しばしばある。ただ、これもまた宗教的経験の諸相の一つだろう。

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