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建築生産マネジメント特論講義4──沖縄の木造住宅、喪失と再生

本稿は、東京大学大学院にて開講された権藤智之特任准教授による講義『建築生産マネジメント特論』を、一部テキストベースで公開するものです。

前回まで、戦後住宅史、プレハブの歴史、工務店の登場と、戦後日本の住宅生産に関連する大きな見取り図を順に見てきた。結論の一つは、戦後日本における木造在来構法システムの強靭さを確認したことであろう。

とはいえそれは、あくまで木造在来構法システムの及ぶ範囲の理解にとどまる。今回はこれを相対化することを目標とし、「沖縄」に着目する。戦後の動乱をへて木造住宅が殆ど失われた沖縄には、本土とは異なる独自の建築生産システムが存在している。その経緯を辿ることで、変化し続ける「構法」の有りようを、よりリアルに捉えられるはずだ。

沖縄の街並み(左は屋上に断水用のタンク、右は角だしと呼ばれる増築用の柱突出が見える)

沖縄地上戦と”規格ヤー”

新設戸建住宅着工戸数に占める木造、RC造の割合(%)(建築着工統計より)

沖縄の住宅は木造が極端に少なく、替わりに殆どがRC造であることが知られている。台風やシロアリが原因だ、あるいは伝統的に木材を使用しない石造りの文化であった、等々の通説が存在するが、台風もシロアリも昔からあったこと、また沖縄に残る石造りの遺構も、その上に木造の建築物が建っていたであろうことから、いずれも誤りとわかる。沖縄住宅の構造形式は、何らかの理由で木造からRC造へと変化したのだと考えられる。

収容所(1945年7月 石川 『写真記録 沖縄戦後史』)


画期のひとつは第二次世界大戦だ。地上戦を経験した沖縄は住宅ストックにも激烈な損害を受けた。戦前に12.5万戸あった住宅ストックは、その10万戸が消失している。

規格ヤー(「写真記録 沖縄戦後史」)

大量に発生した住宅難民を手当てすべく、急遽用意されたのが「規格(キカク)ヤー」と呼ばれる木造の応急仮設住宅であった。1945年8月から3年間という短い期間のうちに、約8万戸の規格ヤーが建設されている。米国の松材を原料とするツーバイフォー材の骨組みに、屋根・壁は基本テントで塞がれただけ。間口二間半、奥行き二間という代物であったが、入居できた人の喜びようは「現在のマイホームを得た程」のものだったという(うるま市石川民俗資料館資料より)。

戦後期の台風による被害(沖縄建築12号 1978)

しかしその後、大型の台風が続けざまに沖縄を襲う。当時の記録では、毎回数百~数千のオーダーで住宅の全・半壊が起きたことが記録されている。構造的な脆弱さを勘案すると、この殆どは規格ヤーや応急的に建設された木造住宅であったと予想される。その結果、沖縄に定着したのは「木造は弱い」というイメージであった。1960年の沖縄建築士会の座談会では、「コンクリート、ブロック造り以外にはない」という発言が記録されている。

米軍基地建設とRC造建築生産システムの成立

米軍住宅の建設(左:米軍住宅、右:米軍住宅を建設する人々、福島駿介、家とまちなみ記事より転載→左、右は沖縄県立公文書館資料)

おりしも同時期、米軍基地建設が開始され、地元の職人がコンクリートブロックやRC建築の技術を学ぶ機会を得る。RCに用いる建材、なかでも鉄は、皮肉にも十分な量を兵器などから回収することができた。こうして沖縄に、コンクリート系構造建築の生産条件が整っていった。

沖縄の住宅建設戸数推移(出展:「沖縄県地域木造住宅供給計画」より 平成8年 沖縄県 )


こうして60年代に木造と非木造の着工件数が逆転してのち、沖縄で木造建築が作られることはほとんどなくなっていった。この結果は沖縄の職人の構成にも変化を及ぼす。木造建築の着工件数減少 → 木造建築を手がける職人の減少 → 木造建築の施工単価上昇 → 木造建築の着工件数さらに減少、という負のサイクル(ネガティブ・フィードバック)が回ったのだ。反対に、増加してゆくRC造建築の施工単価は低下し、よりRCが作りやすい環境が整ってゆく。結果、沖縄では「RC造の方が木造よりも施工単価が安い」という逆転現象が起きた。

2003年居住専用住宅着工単価(建築統計年報、単位は円/㎡)

以上「沖縄の住宅はなぜほとんどRC造なのか」という問いに対して、固有の経験を通じた木造の否定とRCの受容、その結果としての構法システムの再編成という歴史的経緯を概観してきた。その影響は根強く、1996年の県民アンケートでは、改めて沖縄県民の木造に対するイメージが浮き彫りにされている。

木造住宅が少ない理由を住民に聞いたアンケート結果(「沖縄県地域木造住宅供給計画」沖縄県)

こうした状況は建築家のあり方にも影響を及ぼしている。RC造が主流のため、住宅の建設には構造計算が必要になる。また設計施工分離のアメリカ式の建築生産の影響もあり、1988年の調査では、那覇市、浦添市、名護市といった都市部の住宅について、実に7割以上が設計事務所に住宅設計を依頼していたことがわかっている。これに呼応するように、沖縄では図面を引くことのできる「設計者」を養成(大半が沖縄工業高校出身)、RC 造住宅の建設を下支えしてきたのである。

日本返還前の公共施設の図面(英語で書かれた)

ちなみに日本全体でみれば、逆に設計施工一体の場合が8割を超えるが(住宅金融公庫データ)、世界的に見れば設計と施工が分離される沖縄の形式が一般的である。

沖縄に木造が建つとき

このように、木造を建設するための人的資源、材料流通がほとんど失われた沖縄であるが、それでも木造建築を建設しようという試みは行われてきた。その実践を見れば、建築生産を支える構法システムの役割が浮かび上がってくる。

事例の一つは80年代頃に登場した「輸入住宅」である。ツーバーフォー材を用いた躯体だけでなく、内装材、仕上げ材といった建材の全てが海外で製作され、コンテナで海上輸送される。加えて販売元が職人まで派遣する。ある意味徹底された建築のプレハブ化が、沖縄の生産システムに殆ど依存せずに木造住宅を建てられた理由だ。

もうひとつの事例は、意外にも近年増加しつつある木造在来構法(軸組構法)の住宅である。2008年以降、それまで注文住宅と同程度だった着工件数が伸び始めている。

新設戸建住宅着工戸数推移(軸組、2×4、建築統計年報)

使用されている木材の出所は国内の林産県である。特に地理的にも近い宮崎県からの移出が多い。背景にあるのはプレカット技術の発達である。これまで沖縄では担い手のいなかった木材の刻み加工を事前に施すことで、型枠大工でも建て方を実行できるようになった。結果、沖縄も国産材のマーケットに組み込まれたわけである。

とはいえ木造建築自体が数十年に渡り途絶えていたために、いまなお普及の道のりは困難を極める。工務店は小規模なものが多く、木造建築設計・施工の経験が蓄積されていないばかりか、そもそも木造建築に必要な建材自体の流通が貧弱である。このギャップを埋めるため、プレカットメーカーが木造住宅の構造計算を代行したり、建材と一緒に金物などの関連部品をセットで輸送するなど、様々な工夫が行われている。今日ではマーケットの増大とともに関連市場も成長しはじめ、例えばサッシに関しては、かつてRC用のものしか流通していなかったところが木造用のペアガラスのサッシも流通し始めている。

沖縄木造建築の新展開

以上の歴史を踏まえつつ、現代の沖縄における最新の木造建築動向のひとつを紹介したい。取り上げるのは、沖縄で設計事務所「建築意思」を率いる山口博之氏の実践だ。「木造建築についての蓄積が少ない」という制約を逆手に取り、建築を構法ごと組み上げるようなユニークな実作を手がけている。

高思保の家(出展:BRUTUS居住空間学2016)

たとえば住民と共に、半セルフビルドで作り上げた住宅「高志保の家」では、平家に抑えて足場を不要としつつ複雑な納まりは避け、ディティールはなるべく現場で決めた。また現場に入った一人の大工に施主が「弟子入り」することで、自ら造り付け家具や什器、庭などをしつらえられるまでになった。「半セルフビルド」の所以である。沖縄にある自由な気風と寒さがクリティカルではない気候が産み出した建築と言える。

長浜の家(出典:建築士2016年7月号)

また東京在住の夫婦のセカンドハウスとして作られた「長浜の家」は、沖縄の建築構法への視線から生まれた批評的な実践である。構成はシンプルで、東西に立てた二つの在来木造の箱で、水平力を担いつつ水回りなど生活インフラを確保、その間にH鋼を架ける。ただし、そこに載るリビングルームとベランダは、インドネシアで加工されたものだ。

なぜインドネシアか。ここまで述べてきたように、沖縄では材料が手に入りづらく、主材は本土から取り寄せた杉になる。やはり気候的な違いから痛みが早い。しかし熱帯アジアに目を転じれば、住宅の特徴や植生が近いうえに、距離も近い。山口氏は「沖縄を日本の南端と捉えず、熱帯アジアの北限と捉えてみたらどうだろうか」と考え、耐久性の高いチークなどの樹種を探しにインドネシアへと向かったのだという。納まりの精度の違いは、ボルト、ナットのみの接合方法に限定した簡易な軸組構法を取ることによって解決されている。こうしたディティールの解決によって、長浜の家の構法システムは熱帯アジアにまで広がったのだ。

沖縄の構法システム、これまでとこれから

まとめよう。ここまで見てきたように、戦後の沖縄建築のコンクリート化は、政策的な後押し、県民の木造に対する忌避感に加え、米軍基地建設によってコンクリート造に必要な材料、技術者が整ったこともその要因であった。建築生産システムは単純な気候風土のみに影響されるわけではないし、むしろ材料が変われば生産システム自体が変化しさえする(設計事務所の増加など)。

他方、近年の軸組工法の増加は、プレカット技術の発達によって施工者に要求される技術的なハードルが低下したことが大きな要因である。プレカット工場による工務店への支援等の周辺サービスが充実し、木造着工数の増加に伴う人材・建材の充実が少しずつ始まっている。

しかし木造の生産システムが未熟であることは、決して貧しさとイコールではない。そこには条件の少なさゆえのアイデアの重要性、制約からの自由さという環境がある。またこれから人口の伸びてゆくアジアとの物理的な近さは、木造についてのさらなる技術開発の余地を示すものでもある。沖縄の木造建築の歴史は、むしろこれから始まるのだ。


参考文献

権藤智之ほか、「近年の沖縄県における木造住宅生産に関する研究」
『日本建築学会計画系論文集』、第75巻第647号、pp.193-200、2010年1月
「特集 沖縄建築のこれから」、建築士2016年7月号、vol.65、No.766、2016年7月

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