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紀元1世紀の教会を訪れる(訳者あとがき)

使徒の働き(使徒行伝)の時代、教会とは建物のことでなければ、宗教組織のことでもありませんでした。
聖書に記されているように、キリストをかしらとする人々が有機的に繋がった、ひとつの体として機能とする人々そのものを表わしていました。

「ローマの教会」や「コリントの教会」という言葉が表すのは、その地域で活動するキリスト者たちのことであり、パウロたちによって書かれたそれぞれの手紙は、その地域のキリスト者たちや、時には他の地域にまでも回覧されて読まれていったものです。

礼拝の様子も、現代私たちが知っているものとはかなり違います。
礼拝プログラムのようなものは存在せず、1教会にひとりの祭司(牧師)や、神学の研究に基づいた説教のようなものもありません。
教師や説教者のような人たちもいましたが、彼らは各集会を巡回し、時には地域や国境をまたいで移動しながら渡り歩いていました。

多くの人々が想像するような、教会堂や祭司(牧師)、説教、プログラム、ヒエラルキーなど様々なものは、ローマ帝国がキリスト教を宗教とし、国教として定めたころから広がっていった価値観です。

だからそこには、様々な異教的儀式や様式、価値観が入り込んでおり、聖書の時代とは大きく違ってしまっているのが実際のところです。
この小説の主人公、プブリウスが体験したように、実際の集会や礼拝(?)の姿は、私たちが知っているよりもずっと世俗的で、日常の中にあったのだろうと思います。

神さまは、週に一度の特殊体験の中ではなく、日常の中にいてくださるものだからです。

では、初代教会のやり方こそが正しいやり方であって、今ある教会のあり方は全て間違いであり、私たちはみんな初代教会に戻るべきなのでしょうか?
その様に考える方たちがいることも知っていますが、僕は必ずしもそう思っていません。
宗教としてのキリスト教にも、一定の意味や神さまの計画はあったと僕は思っているからです。

元から聖書の世界観の延長線上にいるユダヤ人にとっては、キリスト教と言う宗教は意味がないどころか福音の大切な部分を台無しにしてしまった部分があるかもしれません。

でも、聖書に馴染みのない異邦人たちにとっては、福音を知り、受け取るためにはキリスト教という宗教が大きなきっかけとなったことでしょう。
異教のやり方を取り入れた今の様キリスト教だからこそ、当時のローマ世界に大きく受け入れられていったと思うからです。

聖書の中でも、創世記の時代、モーセの時代、ダビデ王たちの時代、捕囚時代、新約の時代で、礼拝のやり方やカタチは変化して言っているように僕には思えます。
そしてそれは、神さまが「表面的なやり方」ではなく、そこにある精神を大切にしていたことの表れであるように思うのです。

『人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」(Iサムエル16:7d)』

【新改訳聖書2017】

事実、宗教化してしまって以降のキリスト教の中にも、福音の精神を持ち続ける人たちはいて、神さまが与えた使命を果たしていました。

彼ら異邦人クリスチャンたちによって、奴隷が解放され、困っている人たちを助けられ、平和を作り、病院や福祉や教育に力を入れる人たちが出てきました。

でもそれと同時に、ローマ帝国の国教となり、宗教化が進んだクリスチャンたちは、権力とも結びつき、ますます信仰は形骸化し、大きな堕落が起こってしまったことも事実です。
だからこそ私たちも、そのやり方やカタチではなく、福音の本質的なところに目を留めて、それを実践していく必要があるのでしょう。

これを読んでいる皆さんの中には、教会に通う人も通わない人もたくさんいらっしゃると思います。

現在の働きの性質上、僕はどちらの方たちと関わる機会もありますが、教会に通わない人が劣等感や不安を持つ必要はないといつもアドバイスしています。

そもそも、「教会に通う」と言う感覚自体が聖書にはないものなのですから。

しかし、他のクリスチャンと繋がりを持ち、互いに支え合い、キリストのからだとして機能していくようにとは書かれています。
教会という宗教組織に属していないなら、仲間を作ってそれを実践していくチャンスだと僕は思います。
興味があればお手伝いしますので、個人的にご連絡ください。

また、教会に属している皆さんは、どうすれば聖書に記されているような神さまとの深い関係や、「互いに仕え合い、愛し合う」ことを取り戻すことができるか、チャレンジとして突き付けられているように思います。

セルやスモールグループという考え方も、そのようにして生まれてきた方法なのでしょう。
事実、セルやスモールグループの中で、この小説の中で見られるような互いの関係や、主体性を持って神さまの言葉を受け取っていく姿を見ることができます。

しかし、どんなことでも「やり方やカタチ」だけに注目すると、あっという間に形骸化してしまうものです。
セルやスモールグループも、すぐに廃れてしまいましたね。

私たちは現代の日本の文化の中にあって、福音をより広く、深く、多くの人々に伝えられる方法を生み出していきたいものです。

そんな一歩を踏み出してみませんか?
そして何かがうまくいったら、互いにそれを分かち合おうではありませんか。
ひとりでも多くの人たちに、福音を届けるために。

2022年9月6日 けんたろ


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