「リア充」へのルサンチマンの爆発 -2015年11月13日のテロへの一考察ー

 「イスラム原理主義」、「ジハード」、あるいは「自由主義社会への挑戦」などという重々しい固有名・表現が耳につくが、政治・外交における分析としては適切な言葉なのかもしれないが、今回の事件はもっと社会・精神分析的方法で接近した方が、本質に迫るような気がします。
 ネットの薄っぺらい用語を借させてもらうと、この事件はヨーロッパの都市の郊外でくすぶっている若者の「リア充」に対する嫉妬の爆発だと見ています。ちょうど7年前の秋葉原で嫉妬を爆発させた加藤智大くんやアメリカで年に数回ある銃撃乱射事件のように。
 もちろん人間は「個人的な嫉妬に駆られて行動を起こす」ことを正直に認めることが出来るほど正直には出来ていません。もしそれが出来れば世の中のほとんどの犯罪・戦争は起こらないでしょうし、精神科医も開店休業になるでしょう。嫉妬はエネルギーにはなりますが、人を動かすには大義名分が必要になってくるのです。ほら、日本だってちょっと前に、西欧列強に対する猛烈な劣等感を八紘一宇、大東亜共栄圏などという言葉(イデオロギー)で擬似宗教にまとめ上げ、破滅的な戦争に国民を動員させたではありませんか。
 今回行動に出た若者達は、パリやベルギーの都市の郊外でうらぶれてその日暮らしの愚連隊のアンチャンたちなのです。彼らはおおむね早くから学校から見放され、つまらない犯罪を重ねているチンピラです。日本では幸か不幸かこういう既成社会から落ちこぼれた乱暴な若者達を吸い上げる組織暴力団があり、そこで裏社会ですが少なくとも社会とともに生きていく道が見つけることが出来るし、社会自体がいまだに体罰の是非を議論しているような、暴力に甘いところです。ヨーロッパ―特にフランスにおいては暴力は徹底的に社会の平面から抹殺されていて、言葉を駆使できないものは―移民の子たち―は底辺でうごめくしかないのです。
 移民の息子達は徹底的にヨーロッパ特にフランスでは無視された存在なのです。そんなところで神、神聖な世界へのアクセス方法―ジハード―を(悪魔に?)ささやかれたら、初めて自分の存在が認められたと思い、それに則りテロを「正しい神への道」として堂々と行うでしょう。ISの犯行声明分を日本語で読みましたが、シリアへのフランスの攻撃はもちろん非難されていますが、それよりも「淫売と悪徳」という言葉を二度も使い、享楽的なパリを標的にしたと表明しています。
 徹底的に無視されている移民の息子達の嫉妬は自分の妹にも向けられます。彼女らは、ヨーロッパの男性の性の対象となることによって見初められ、忘れ去られた場である郊外を抜け出すことが可能になります。そのため注目されることが決してない兄弟たちは妹たちが見られることを徹底的に嫌い、嫉妬や置いてきぼりになる焦燥感をエネルギーとして擬似イスラム的伝統を振りかざし妹たちの身体を文字通りヴェールなどで隠し、外出を制限し、ひどい場合はドメスティク・ヴァイオレンスに走るのです。
 長々と書いてきましたが、これは決してテロリストの自己満足という気分というか個人的な精神作用の問題ではなく、徹底的に無視をされ―そしてこれは19世紀から植民地主義的侵略から続いている―、存在も認められていない人たちが自分達の存在を、他人を殺し、自分も殺すことによって認められようとする、闘争なのです。

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