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Chantal Mouffeの遅れてきた否定神学

ブルジョア化した社会党から距離を置くと同時に労働運動に直接入らず政治家に留まる、つまり新たな政治の路線を模索していて、今年のフランスの大統領選の候補の一人であったJean-Luc Mélenchonの思想的原動力と言われていたChantal Mouffeの『政治的なるものについて』の仏語訳を読む。
 題から想起できるようにカール・シュミットの「友/敵分割論」を採用し、「左翼の主流が思っているように話し合いによる一つの合意に収斂することは幻想で、友と敵に分れ自覚的にヘゲモニー争いを行へ」、とどぎつく元ナチの理論を応用し闘技型民主主義というものをムフは提唱する。
 民主的討議によって一意な合意を形成することを阻もうとする言説・行為を異端として一刀両断し、排除することによって、それが暴力的なつまり民主制を破壊するものとして戻ってくるよ、と良心的な左翼の主流を挑発することは正しいかも知れないが、そうだからと言ってムフは言論以外の異議申し立てを正統のものと認めない。となるとせいぜい行儀の悪い抗議は認める程度であり、暴力的表現は否定される。
 結局はやんちゃだが既成の制度枠内に留まる言説・パフォーマンスしか許されず、これではムフが敵としている、議論により一意の合意形成が出来ると信じている左翼とせいぜい程度の差しか違いがないのである。所詮「闘技型」とは威勢良い啖呵は切ったはいいものの、内実は小うるさいおばさんの説教に過ぎない凡庸な結論に至る。
 となるとムフがたぶん救済したいが言論というツールを持たない、いささか感傷的な言い方になるが言説的表現を封じ込まれた断片化された生を担う人たち(ネオリベ的経済政策による19世紀的労働環境にいる人、ある種の地域の暴政により移民を強いられた人、と現代増えている人々)の言論以外の絶望的表現(それはもしかしたら暴力になるかもしれない)は駄目になってしまう。
 しかしこのムフに対する意地悪な読み方は的外れかもしれない。この本の原書は、冷戦という普遍的社会の具現化のヘゲモニー争いという唯一のパラダイムから脱出し様々な民族が自己主張する多様化する世界を探ることをアメリカの好景気を背景に出来た楽観的な90年代の余韻が十分に感じられた2005年に書かれたものであるからだ。
 思想的にも90年代後半2000年代の初めは、一意の普遍的契機の喪失そしてその否定的素振りから逆説的に多様な自己の固有性を主張する、東浩紀が同時期に批判した「否定神学」が猛威を振るった時期であった(その理論的源泉はもっとさかのぼりラカン、デリダが代表する戦後のフランス思想である)。
 実際この時期から思想界の中心に出たジジェクが同一的で基礎的となる主体の虚構性を暴く口ぶりは、普遍的理性を既存のものとしてそれを政治の基礎とし一意な合意に収斂することを幻想とするムフの言説と同型である。(そしてこれはデリダの脱構築と呼んでもよい)。
 2017年の我々は唯一と思われた主体・構造が崩れ、そのことに起こる多様性を喜べるほどナイーヴではいられない。このような否定神学思考は結果的に二番煎じのイデオロギー(美しい日本、人権尊重の西欧などなど)によって再全体化するというファシズムを生む。
 否定神学による多様性を謳歌した能天気な90sが過ぎ、2000年代、10年代にて徐々に景気の悪化と伴いノスタルジーという甘ったるい嘘っぱちと共に再全体化の波が押し寄せてきている。この波に呑まれず断片化された存在の強度を保つ指南はもはやムフのこの本には期待できない。

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