今までの人生 これからの人生
はじめまして。村田健太と申します。
1997年生まれ、23歳、平日はサラリーマン、休日はアメリカンフットボール選手をしています。
大学を卒業して以降、自分の人生このままでいいのか、このままだと絶対後悔するという焦りを感じていました。
大好きなアメフトを全力でしている間はとても楽しく、生きている実感を感じることができます。しかし、アメフト漬けの毎日でその先のことを何も考えていなかったため、就職活動もしないまま、入った会社では何をしたいという意思がなく、無気力でやる気が起こりませんでした。
平日が苦痛で仕方なく、自分で選んだ会社だけれど、会社でやりたいことがないから他人の時間を生きている感じがして、時間を無駄にしている嫌悪感に襲われていました。
そんな毎日に区切りをつけ、自分の人生、自分で決めて自分がやりたいことをやる、その新しい挑戦を始めるため、会社を辞める決断をし、辞めることを上司に伝えました。
現在、勤めておりますが、2月いっぱいで退職が決まっております。
自分がしたいことに挑戦してやろうと思っています。
その上で、自分は何がしたいのか、どういう人間なのかを、より知る、知ってもらうために今までの人生の振り返りをしたいと思います。
目次
・0歳〜小学生
・中学生
・高校生
・大学生
・社会人
・最後に
0歳〜小学生
小学生以前、小学生頃の細かい記憶はあまり明確にないので、0歳から12歳までまとめて性格面について話します。
覚えているのは、2点で、とにかく負けず嫌いだったことと、何かに夢中になるとずっとそればかりしていたことです。
負けず嫌い
何度も勝負事をして負けて泣いていたのを覚えています。
鬼ごっこをすると、足が遅かったので自分が思っているようにずっと怒っていました。鬼になると誰も捕まえられず、怒って家に帰ったこともありました。
また、中学受験をしたのですが、その勉強中にわからない問題があると、わからない自分にイライラして、教科書にペンで穴を開けたりしていました。笑
周りからは変わり者だと思われていたでしょう。とにかく人に負けたり、自分の思う通りにいかないと納得できず、怒っていました。
夢中になる
この頃、昆虫に夢中になり、夏になると毎日のようにセミを捕まえにいったり、大きな虫かごをホームセンターで買った木や網で手作りをしてカブトムシを何十匹と同時に飼ったり、図書館に行って昆虫の本を借りて、気になったところをノートにまとめたりしていました。
理科はそこまで得意教科ではなかったのですが、昆虫の分野になるとテストでほぼ満点を取っていました。
今考えると、関心するほどの熱中度合いです。
また、小学校高学年あたりの頃には、プレステ2のバイオハザード4にどっぷりはまり、本編を激ヤバ難易度(スーパーハードモード)でクリアするのはもちろん、ミニゲームまで全キャラクターで全難易度クリアするほどハマっていました。
小学校の同窓会で聞いて自分でもびっくりしましたが、バイオハザードのゲームでゾンビが話すセリフを叫びながら鬼ごっこをしていたそうです。笑
とにかく、負けず嫌いで昆虫とバイオハザードが大好きな少年でした。
そんな僕は、小学3年〜6年まで受験勉強を必死にやり、第1志望の中学校に入ることができました。
中学生
中学受験の塾の先生が私が入った中学のタッチフットボール部に入っていたそうで、話を聞いていると面白そうだったので、僕もタッチフットボール部に入部することにしました。
これはいままで、鬼ごっこやドッヂボールくらいしか、ほぼまともに運動をしてこず、受験勉強ばかりしてきた自分にとっては大きな挑戦でした。
でも、初めての自分からやりたいと思った挑戦だったので不安よりもワクワクが大きかったのを憶えています。
中学での生活は勉強はそこそこに、部活に集中する日々でした。
それまでまともに運動してこず、受験太りで太っていた私には、とてもしんどい毎日でした。
また、中学1年から中学2年の半ばあたりまでいじめにあったこともありました。
理由は詳しく憶えていませんが、本当に些細なことがきっかけで始まり、部活が終わると他の部員とできるだけ出会わないように工夫して1人で帰っていました。
でも、実力で見返したい、試合に出たいと思う気持ちが強かったのでやめようとは一切思わず、続けました。
中学2年までは試合には出られず、ベンチにいました。
少しづつ力をつけ、中学3年になり、試合に出ることができました。
結果としては、目標の日本一には届かず引退をしました。
しかし、いままで自分の意志で挑戦してこなかった自分から大きく変わり、やったことのないことで結果を出せたことや、思いを言葉で表現するのが苦手な自分にとって、アメフトを通じて、プレーや体で気持ちを表現する手段を手に入れられたことはとても大きかったと感じています。
高校生
付属の高校に入学しました。やはり大好きなアメフトをしたかったので、アメリカンフットボール部に入りました。
はじめは、高校のレベルの高さに圧倒されていたのですが、次第に自分でも努力すれば上に食い込めるのではないかと思い、とにかく試合に出るという目標を決めて、筋トレに練習、ミーティングに取り組みました。
結果的には、高校1年生の間は、試合に出られる機会があまりありませんでした。
しかし、そのときの自分は本気でスタメンをとってやる、また、ライバル校に勝ちたいという思いで取り組んでいたので、関西決勝のサイドで試合に出られず負けが確定したとき、泣いていました。自分の無力さが悔しくて、どうしようもない感情になりました。
そのときの自分にとっては人生で1番悔しかった出来事でした。
そして、2年生になり、今年こそは試合に出て活躍して、日本一になってやると決めて、取り組み始めました。
「OL(自分のポジション)は努力次第でなんとでもなるポジション」とコーチがおっしゃっていて、それに心を打たれた私は、筋トレから絶対に逃げないと決め、練習が終わるのが夜遅くなっても、ジムに行き筋トレすることから逃げませんでした。
帰るのが12時回ってしまい、帰ってから夜ご飯を食べながら寝てしまうこともしばしばありました。(親には多大なるご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。)
そこから、去年の主力メンバーが抜けて、枠が空いたこともあり、試合に出られるようになりました。
しかし、うまくいかないことだらけなのに加え、負けず嫌いの自分は、自分がうまくいかないと周り構わず、イライラし、叫んだり、目の前の仲間に当たってしまったりしていました。
この頃は自分のことしか考えていませんでした。自分の目標が自分が活躍して、日本一になることだったので、自分がイライラすると、チームの雰囲気が悪くなることや、練習に支障がでることなんてお構いなしだったのだと思います。
それでも、自分がうまくなることだけ考えていたので、ある程度のスキルアップはでき、そのときの3年生の力もあり、悲願の日本一になることができました。
日本一になれたことはとんでもなく嬉しかったです。
しかし、最高学年になり、誰にも頼ることができなくなったのに、自分がこのままでは次は勝てないと確信し、変わる決意をしました。
3年生になり、チームの幹部を決めるミーティングで、自分がチームを勝たせたいと思い、立候補しました。賛同してくれた部員も少なからずいましたが、2年生までの自分を知っているチームメイトは不安に思い、任せてはもらえませんでした。
立場なんて関係ないと割り切り、パートリーダー(ポジションのリーダー)として、最強のオフェンスを作って、日本一になると決めて、取り組みました。
チームやポジション単位での視野を持つようになってから、最上級生の日本一に対する温度差を感じるようになり、勝つために言いたくないことも言いました。
人に言いたくないことを言うのはとんでもないストレスがかかったため、妥協して言えなかったこともありますが、なんとしても日本一になりたいと思うと足りていない部分が見えてくるので個人にも伝えるようにしていました。
また、この年、大怪我を何度もしました。練習にも出れない時期もありました。歩けなかったり、寝たきりの状態になったこともありました。それでも、オフェンスでチームを日本一にするという気持ちは揺らぎませんでした。
そして、なんとか復帰し、ギリギリで日本一を決める試合までたどり着きました。その試合でも怪我をしてしまいましたが、そのまま出場し、日本一を手にしました。
日本一が決まった瞬間、涙が止まりませんでした。しんどすぎたけど、頑張ってよかったと本気で思いました。
また、引退した後、環境にも恵まれていたなと改めて思いました。
苦しみながら日本一を目指す自分を認めて、自分がやりたいようにサポートしてくださったコーチや、顧問の先生、自分についてきてくれたチームメイト、親、応援してくれた同級生に支えられていたことに気づきました。
大学生
そして付属の大学に入学しました。
そして、大好きなアメフトでどこまで大学のレベルに通用するのか試さずにはいられず、高校を卒業すると同時に大学でも続けることを決意しました。
高校アメフトを引退してから、高校生の時の怪我の手術をしたため、1年半は練習できずに、リハビリと筋トレの繰り返しでした。
同級生がどんどん試合に出ていくのを見て、置いていかれている気がして、焦りを感じましたが、それ以上に復帰した時にリハビリと筋トレでとんでもなく強くなって復帰してやると思っていたため、復帰が楽しみで仕方ありませんでした。
そして、1年半のリハビリ筋トレ生活を経て、2年の夏復帰することができました。
復帰して2週間後、社会人チームとの試合があったのですが、ちょうどそのとき自分のポジションに怪我人が多く人員不足だったので試合に出場することになりました。
とんでもないチャンスを手にしました。
活躍してやると思い、挑んだその試合では、完膚なきまでにボコボコにされました。
自分の場所から相手を漏らしまくって、迷惑をかけまくりました。
この試合で、私は自分と周りのチームメイトにはとんでもない差が開いていると感じました。
高校生までは筋トレから逃げずに体を大きくすることだけで、ある程度、差をつけることができて戦えたのが、全く通用しない。
さらに、自分のプレーには強みがありませんでした。
そこで、試合に出て活躍するためにどうしようかと考えた結果、誰にでもできることをとんでもないくらいやってやろうと決めました。
誰にでもできることとは、
・笛が鳴るまでプレーし続けること
・筋トレから逃げないこと
・戦術の理解を深めること
・体のケアをして怪我を予防すること
です。
特に笛が鳴るまでプレーすることに関しては、周りから「やりすぎや」と言われたり、言葉は悪いですが「きちがいやん」と言われることもありました。
なにも強みがない自分はそうでもしないと試合に出るレベルに達しないことが分かっていたから、しんどくても、こけても、やられても、最後まで足をかき続けました。
そのおかげか分かりませんが、秋の試合には出られることが決まりました。
1試合目、チームとしては勝ちましたが、個人的には、ダメダメでした。
それでも、2試合目、試合に出してもらえたのですが、やってやると思っていた矢先、試合中に脚を巻き込まれ怪我をしました。
そこから、順風満帆だったフットボール生活が一変しました。
復帰したとき、自分の戻るポジションはなく、初めは試合のための練習にも入れませんでした。
しかし、悔しくて奮起して練習しました。練習には入れるようになりましたが、控え選手の控え止まり。コーチや先輩も自分への指導をしてくれなくなり、自分はチームに必要なのかと当時のキャプテンに泣きながら相談したこともありました。
今考えれば、いちいち反応せず、目標に対して自分ができることをやれば良かったなと思うのですが、このときは視野が狭くなっていました。
チームは日本一になれず、不完全燃焼のまま、大学2年目が終了しました。
そして3年目、自分のポジションの上級生が抜けて、チャンスをモノにしようと取り組んでいましたが、練習でまた脚を巻き込まれ、怪我をしてしまいました。
そこから、復帰した後も大して上手くならず、試合に出られない日々が続きました。春の試合が全て終わり、夏合宿を経て、秋シーズンが始まりました。
試合の後半に点差がついたら、出て、僅差なら出られない。そんな試合が続きました。
ただ、スタメンで試合にでることを絶対諦めませんでした。スタメンになりたくて仕方が無かったので、落ち込むことはあっても、その度に絶対なってやると思っていました。
そして、ついに関西リーグ最大のライバルである立命館大学前の練習でスタメンの位置に入ることができました。
なかなか、思うようなプレーはできませんでしたが、チームは学生日本一を手にすることができ、また、自分はプレーで直接日本一に貢献することができました。
なかなか試合に出られなかった分、プレーで貢献できたのはとても嬉しかったです。
しかし、試合でのプレーは自分が目指してきたレベルではなく、完全に実力不足でした。それを変えられないまま3年目のシーズンが終了しました。
試合に出られるようになり、少しづつ自信もついてきて、来年は相手を圧倒できるような選手になってやろうと意気込んでいました。
4年目。
立候補し、副将になりました。
大学4年になったはじめに書いた自分の決意表明が以下の文です。
決意表明
・目標
学生を圧倒、社会人に勝てる選手になる。絶対通したいシチュエーションの時に自分サイドにプレーを任されるようになる。チームにも学生を圧倒、社会人に勝つことを基準にして求める。
それを基準に取り組み、チームの見本となる。
V、JV、1枚目、2枚目の温度差を限りなく無くす。
・そのための行動
学生を圧倒できる、社会人に勝てることを基準に考えて行動する。自分の強みである取り組みの面で、特に誰でもできる、トレーニング、アサイメント、スタート、フィニッシュの部分で自分がこの基準の見本になる。周りにもV、JV、1枚目、2枚目関係なくこの基準で求めるし、求められる環境を作る。
チーム内の温度差を無くすためには、チームの主体となる4回生が下級生全員を気にかける、評価することが必要。自分が1番それを体現した上で周りにも求めて、下級生全員が4回生を勝たせたいと思ってくれる環境を作る。
4年生になり、3年生から意識をガラッと変えました。
3年生時はチームが勝つために、自分がうまくなることと、自分の所属しているポジション全体が結果を出すことを特に考えていましたが、4年生になり、チームで起こる全てのことを自責として考えないと、負けてしまった時に人のせいにして終わってしまうということに気づき、4年生全員がチーム全体に責任を持ってやろうと決め、そう考えるようになりました。
そうして始まった最後の春のシーズン、1試合は試合にでましたが、初めから出たのはその試合のみでした。
副将という立場にいて、チームに学生を圧倒する基準を体現して伝えたいのに、試合に出られる実力がない。
悔しくてたまりませんでした。
しかし、自分のプレーが試合にでて、相手を圧倒できるレベルに達していないことは分かっていました。
10年目のアメフトで急にはなかなか上手くならない。でも時間がない。
この状況に立たされ、自分の原点である、誰でもできることをとんでもなくやるという意識に目を向けました。
プレーで貢献できるよう、また、学生を圧倒してライスボウルで社会人を倒せるように、行動しました。
そうは思っていても、試合にも出られず、余裕もない自分は視野が狭くて自分の周りのポジションにしか目がいかず、自分が副将としての役割を果たせていないんじゃないかと不安になることばかりでした。
幹部で話をする時も自分だけ場違いなんじゃないかとか、他のポジションのチームメイトは自分を信用できてるのかとか、今考えれば、いちいち反応せずに自分がやるべきことに集中して、自分の日本一になるために必要なことをチームやチームメイト個人に共有すればいいやん。とか思いますが、そのときは自信をなくしかけていました。
しかし、不安の中でも、自分は行動を変えませんでした。最後のシーズン後悔するわけにはいかなかったから、前に進むしかありませんでした。
そして秋シーズンが始まりました。
負けたら、自分の引退が大きく近づく秋シーズン。
初戦のスタメン表に自分の名前はありませんでした。
チームが勝つためには、自分が本気で取り組み、試合で結果を残し、その姿を下級生に見せていくしかないと思いました。
自分の苦手な部分や、前の練習でミスした部分の練習を練習開始2時間前からグランドに出て、1つずつ潰して行きました。
試合にでられないまま、4試合目までギリギリの試合もありながら勝ち進みました。
そして、秋リーグ5戦目の近大戦から試合に出られるようになりました。
もちろんですが、出られるようになっても、やることは変えず、課題を潰しながら、自分の誰でもできることをとんでもなくやる意識を持って動き続けました。
そして、リーグ最終節の立命館大学に負けました。負けた瞬間は今でも忘れられません。試合後、整列してる時、観客席からやじが飛んできました。悔しすぎて、爪が掌にめり込むかと思うくらい拳を握りました。
幸い、次の2試合勝てば、もう1度立命館大学に挑むチャンスが残されていました。
現実を受け止めて、前に進むしかない。冷静になって、次の試合の準備をしました。
この頃、自分達がいかに王者気分で守ったプレーをしているのかということに気づきました。
一回負けて、負けたら引退という、もう失うものがない状況で攻めまくることが、立命館大学にリベンジするキーポイントになると確信しました。
そこから、ミスを恐れない攻めたプレーにこだわり、周りにもその大切さを伝えました。
そして、立命館大学戦、ミスを恐れず、攻めに攻めたプレーができるチームを作り、勝利することができました。
その後も攻めたプレーにこだわり甲子園ボウルで勝利でき、学生日本一になることができました。
ライスボウルでは、攻めに攻めましたが、社会人チャンピオンの富士通に完敗しました。
私個人とチームの結果についてばかり、書きましたが、4年生の日本一への意識を統一することに苦労しました。
勝つために言いたくないことを言わなきゃいけないときに、言えずに悩むことも多かったです。
仲が悪くなってしまうこともありました。途中、なにが正解かわからなくなることもありました。
言っていいのか分かりませんが、こんなことまでして勝ちにこだわる必要あるのかとさえ思うことがありました。
でも、今となってはそこまですることの素晴らしさが分かりました。社会に出て、いかに無気力に過ごす大人が多いことか。そんな中、本気で日本一になることだけ考えて行動する人間の素晴らしさったらないと思います。
この4年間で学んだことをまとめると、
○自分の目標、なりたい自分に対して逃げずに向き合うことの大切さ
(環境づくりも含めて)
○ミスを恐れずに攻めに行く人間は強い
ということです。
社会人
社会人になって、サラリーマンをしながら、土日だけアメフトをする生活に変わりました。
一言で言うと、土日は本当にやりがいがあって楽しくて、平日は無気力でした。
アメフトはオービックシーガルズに入団させていただきました。
今年は練習生としての参加となり、悔しいこともありましたが、自分が来年試合にでることと、今年のチームに貢献できる部分はどこか考えて行動し続けました。ここでも誰にでも出来ることをとんでもなくやることを意識しました。
結果としては、一度も試合に出ていませんが、コーチより、Player of the Seasonを受賞しました。自分がしてきたことがチームから評価され、とても光栄でした。
仕事では、冒頭でもお話ししましたが、会社でこれがしたい、こうなりたいということが何も浮かばず、自分から動く気力がなくなりました。
病んでしまったわけではないですが、何のために生きているのか分からなくなることもありました。
自分はどんな仕事でも楽しめると思っていました。これまで、どんなしんどいことでも、乗り越えることができたからです。
でも、それは心から自分がやりたいと思うことに付随するしんどいことだったので結果的にやりたいことになっていたのです。
この1年で私は自分が本気でやりたいと心から思ったことしか本気で取り組むことができないということを学びました。
そして、人生は一度しかないので、絶対に後悔したくないと思いました。やりたいことをやりまくる人生にしたいと心から思いました。
最後に
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
これからも宜しくお願い致します。
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