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ふたつの魅力

  「魅力とは何か」──たわいもない私と友人の話題は、次第に人間関係の話に移っていた。彼とは知り合って以来、私にとってずっと魅力的でありつ続けているし、彼もまた私の魅力を見初めてくれている。「見初めて」というのは、彼には本当に人を見る目を宿していて、ひと目見て、人のことが判断できる。私はといえば、事実としても、理念としても、一瞥したところではその人が何者かを知ることができない。彼は、人の好き嫌いがはっきりしていて、私はぼんやりしている。彼は、心のどこかで、善悪がはっきりしている。私は、ぼんやりしている。善くも、悪くも、私たちはその持ち前の「目」で対象を見るのだ。
 おそらく──善くも、悪くも──、私の見る「目」のなさは、「メガネ」を必要としたのだろう。そう、「魅力とは何か」、だ。彼は、彼で自分の「目」の良さの「メカニズム」を知りたがっていた。こうして、私と友人の話題は、次第に人間関係の話に移った。私は、この話題についての私見を少しだけ持ち合わせていた。

 魅力には二つある。それが今の私の考えだ。一つは、その人が発する「作用」によって測る魅力。そしてもう一つは、その人が「より」卓越することによって測る魅力である。
 前者はおそらく、私たちが最も素朴に魅力と呼ぶものである。たとえば、「すごいことを成し遂げた」とか、「かっこいい」とか、「頭がいい」とか、そんなところだろう。こういった魅力はよくよく考えてみると、自分への作用の強弱によって大きく変わる。たとえば、大谷翔平とフリードリヒ・ニーチェの魅力は、野球選手を志す人と哲学者を志す人では異なるだろう。また、多くの場合、「自分への作用」というものは、自分で自信が持てないものだ。大体、自分がその魅力を感じた「最初のひとり」であることは稀だし、こういった類の魅力は常に何らかの社会的な表彰を与えられている。たしかに私は、大谷翔平に魅力を感じることができる。けれど、それも大方、ニュースが取り上げていたり、その法外な年俸の額を聞いて、魅力的「かもしれないな」と思うだけだ。だが、彼を魅力的「でない」と言い張るのは無理がある。純粋な私の関心からは彼は魅力的ではないのだが、それでも魅力的に思えてしまう。ここに、この「作用」によって測る魅力の重要な点があらわれている。つまり、この魅力は一定程度は私たち(評価者と被評価者)から独立しているということだ。「大谷翔平の魅力」というのは、今や大谷翔平も私もそれを否定してもしょうがない、それは誰でもない「大衆」が支えてくれる(このことを悪用して、一度風評を立ててしまうことが何よりも成功の道だとする人もいる)。「作用」としての魅力は「測られる」ということで、私たちから独立した手触りを獲るのである。
 後者の「より」卓越することによって測る魅力は、「測る」とは言っているけれど、おそらく他ならぬその魅力の持ち主にしか測り得ない。「他人」はそれに気づけない。この魅力は、絶えず課される枷を砕き続けることからやってくる。大谷翔平もフリードリヒ・ニーチェもこの魅力を持ち合わせていると思う。(WBCであれ、『ツゥラトゥストラはかく語りき』であれ)逆境をものともしない姿は、心を打たれずにはいられない。ここで「大谷翔平の魅力もフリードリヒ・ニーチェの魅力も『私』からも測れるじゃないか」と言いたくなるかもしれない。けれど、彼らの魅力を、WBCであれ『ツゥラトゥストラはかく語りき』であれ、こういった「成果」から独立して測ることはできようか?もっと言えば、その魅力の持ち主でさえ、自らの魅力に気づくことが──自らの魅力を「信じる」ことはできるか?ゴッホは、生前一枚しか絵が売れなかったという。けれど、ゴッホが「売れる」絵を書いていたら?ゴッホの絵が永遠に評価されなかったとしたら?ゴッホの筆致が埃を被り、そのカンバスが薄暗いカフェの片隅に立てかけられていたら?それでも「魅力」があると胸を張っていうことはできるか?たしかに、WBCに出場していない大谷翔平は「大谷翔平」ではないだろうし、『ツゥラトゥストラはかく語りき』を書かなかったフリードリヒ・ニーチェは「フリードリヒ・ニーチェ」じゃないのだから、後世に評価を得なかったゴッホは「ゴッホ」ではない。けれど、じゃあ、翻って今自分のやっていることを、「これをやっていない自分は、『自分』じゃない」なんて胸を張って言えるだろうか。それが、誰からも評価されないことを「ものともしない」でいられるだろうか。
 でも、私も含めて、そんな人がいてほしいと願う。

 友人はそういった人を見つけるのがうまい。何でもない人でも「魅力的だ」と言える人だ。その評価が「作用」に引っ張られてしまうのは仕方がない。人間はそうすることでしか、他人を魅力的だとは気づき得ないのだ。私と彼は、このことを悲観することはないと話した。ただ、自分の在り方は自分の他には誰も評価してはくれないだろうと誓った。そして、どんなに「魅力的」だと思えても、それはたかだか「自分にとって」魅力的であるに過ぎないということも誓った。というのも、私たちが魅力的だと思えないような「魅力」が確かにあるのだ。そうした魅力に私たちは知らぬうちに支えられているのだろう。それに気づき得ないことを自戒しておくべきだろう。私と友人は満足して次の話題に移った。


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