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プロシュート兄貴=陽明学者説

おばんです(朝読んでいる方は、おはようござりす)。
王陽明『伝習録』の、知行合一にふれている節を読んでいたところ、プロシュート兄貴の言動が、マジ知行合一の本質に迫っていたので、少し比較してみたいと思います。

プロシュート兄貴

「ブッ殺す」…
そんな言葉は使う必要がねーんだ

なぜならオレやオレたちの仲間は
その言葉を頭の中に思い浮かべた時には!

実際に相手を殺っちまってもうすでに終わってるからだッ!
だから使った事がねェーッ


「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!
その時スデに行動は終わっているんだッ!

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王陽明

 問う、「知行合一についておたずねします」
 先生が言う、「ここは、何故わたしがそれを主張するのか、その意図の根本を理解してもらわねばならない。現在、人は学問をするにあたって、何よりも知と行を二つに分けてしまっている。そのゆえに、ある念慮が生じて、それが不善である場合にも、いやまだ行うに至っていないからというわけで、その念慮を禁じようとしない。わたしが、いま、この知行合一を説くのは、他でもない。
 ちょっとでも念慮が動けば、それがとりもなおさず行ないなんだ。そして、その動きに不善があれば、ただちにその不善の念は克服すべきであり、しかもそれは、ほんの一念の不善たりとも胸中に潜ませないほどに、徹底をきわめなくてはならないんだということを、どうしても人にさとってもらいたいからである。
 それが、わたしの主張の本意なのだ」

『伝習録』下巻二六

せっかくなんで、書き下し文も。

知行合一を問う。
先生曰く、「此れ須く我が立言の宗旨を識るべし。今人の学問は、只だ知行を分ちて両件と作すに因りて、故に一念発動して、是れ不善なりと雖も、然れども未だ会て行わざれば、便ち禁止し去かざること有り。我今箇の知行合一を説くは、正に人の一念発動の処は便ち即ち是れ行了なることを暁得し、発動の処に不善有らば、就ち這の不善の念を将て克倒し了らんことを要す。徹根徹底、那の一念の不善をして潜伏して胸中に在らしめざることを須要す。此は是れ我が立言の宗旨なり。」


参考文献




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