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書評『正欲』

この小説は映像化を前提にしている。フェティッシュの描写量、結末において、このくらいの落とし所でないと大衆に伝わらないだろうという作者の意図を感じた。基本、地の文で繰り返し書いている箇所と登場人物のメッセージに関して、作者の本心はない。「言葉に出来る(認識している)部分はほんの一部」、「性欲があるかなんて0か100でないだろう」(意訳)と言った部分がより(映像を通して)伝われば良し。といった落とし所だろう。

だが「フェティシュ=性欲」と思っているのは、むしろ登場人物達のほうだろう。この小説はそういった初期衝動を、メタファーとしてなんらかの別のアウトプットに昇華する可能性に目が向かない人達の話と思った。
特に大也は社会や周りに対しての分析はそれなりなのに、自己の深堀りとそこから得た着想がダンスに結合できていない。 夏月と佐々木はあれで30代後半なら精神的に幼すぎる。20代でその悩みはケリをつけて、次のステージに行っているのが今の世代のリアリティのはず。が、それは納得できない人達が映像化のターゲットなのだろうか。

だから、 この 小説 は「 正しい 性」 を 告発 する。 ただし、 徹底的 に 告発 する。 つまり、「 正しい 性」 を 告発 する こと の「 正し さ」 まで 告発 する。 新た な「 正し さ」 が 新た な「 正しく なさ」 を 作り出す 構造 を 明るみ に 出す の だ。
(解説: 東畑開人)

夏月は佐々木とのセックスの真似事をして「相手の重さが自分と世界を繋ぎ留める重石になっている」という、行為に対して「0でも100でもない」回答をしている。対して、大也は八重子との問答を経て自身の欲望に忠実に動いた結果犯罪に巻きこまれてしまった。このペアのやり取りを相似構造として読ませるならば、八重子を拒絶して合宿にいかなかったことがターニングポイントになってはいけないのではないか?それとも、この小説の結末に希望を見出すとすれば、彼の人生にとって事件は決定的な出来事にはならない(0でも100でもない)、と読むべきか?(八重子との問答を経て彼は「人間」との対話の可能性を学んだのだ。)
いや、やはり大也は水への欲望と、それが自身の身体におよぼすメカニズムについて、深く掘り下げてダンスに昇華すべきだった。
「性欲があるかなんて0か100でない」としたら、それは裏を返せば彼の水への欲望を別の表現を媒介にして他人の身体に発現させることもできたはずだ。葛飾北斎が描いた波の絵だってあれだけの解像度で水の動きを見ていたのだから常人の感覚ではないわけで、そういった新しい感覚の開発に表現の一つの意味がある。それが朝井の考える「ボーダーラインを引くことの正しさを告発する」ことよりも、「ボーダーラインを限りなく曖昧にすることで結果的に他者とも網を繋ぐ」ことが、本来朝井がストレートに出すべきメッセージだったのでは、と思う。

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