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自家発電的俳優のごあいさつ

新年度、いかがお過ごしですか。

私はフリーランサーで俳優業をやっております、畑中研人という者です。
社会的な名義は個人事業主です。

フリーランスとは言いつつも、COoMOoNOという演劇団体に所属しておりまして、演技の主戦場はこちらの上演舞台でございます。よしなにどうぞ。

ところでフリーランスの俳優というものは、ご想像の通り大概無名です。
インディペンデントでやってますとか言えば多少聞こえは良いものの、『日陰者』と言われてしまえばぐうの音も出ないところではあります。
部屋選びの外せない条件に日当たりの良さを挙げる身としましては、やはり若干の忸怩たる思いはあるものです。
芸能が『見られてなんぼ』の世界であることは事実ですから、もう少しばかり人目に触れる努力をすべきだろうという涙ぐましい考えの下、今年度は身の回りのあらゆるプラットフォームを手当たり次第使い倒して、慎ましい自家広告でも打ったろかと、この度noteも始めてみることにした次第です。
よろしくどうぞ。

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日記やブログは書いたことも見たこともないですが、文章を書くのは昔から好きなので、とりとめのない所感から、とりとめしかない書簡まで気の赴くまま文章をしたためていきたい所存であります。


子供の頃から自己紹介の時間が嫌で嫌でたまらなく、たびたび無言を貫き通して教師たちを真顔にさせてきましたが、押し寄せる『誰やねんお前』の波を静める為にも、簡単に自分について書いておこうと思います。

初めに述べたように、俳優をやっております。
主に舞台で、時には演出をしたり脚本を書いたりすることもあります。

兵庫で生まれ、各地を転々とし、埼玉に落ち着き、また兵庫に越し、大学進学を機に上京しまして、もうかれこれ15年ほど東京に住んでおります。さあ年齢を計算するのは今すぐやめるんだ。

ところで大学から演技を始めたのかと言えばそうではなく、私が演技を始めたきっかけは、幼少期にあまりに口数が少なく女の子とお人形遊びばかりしていたことを心配されて、児童劇団に入れられたことです。
「少しでも話せる活発な子になりますように」という親の切なる願いは、体験レッスンで普通に喋り始めたことでトップスピードで成就されました。おそらく喋ることが全部台本に書いてあったからでしょう。普段はこれと言って特に話す事柄がなく、男より女の子と遊んでる方が楽しかっただけなのです。
そんなこんなで子役のお仕事を始めることになり、それなりにお仕事を頂戴していたのですが、その為に学校を休んだり早退する日々が続いて、同級生と遊びたい盛りの自分は小学5年生の時に兵庫へ越すのを機に「普通の小学生に戻りたい」とキャンディーズよろしく芸能活動に終止符を打ったわけであります。

がしかし、恐ろしいもので、幼少期の体験というものは知らず知らずのうちに体に染み付いてしまうものです。
同級生よりも大人達に囲まれていた時間が長かった為か、その後もなんだか同級生とうまく関われずに、陸上部でひたすら走り倒していた為に同級生と喋った記憶がない中学3年間と、面白くなさ過ぎてサボり倒していた為に同級生と喋った事実がない高校3年間を経て、私が当たり前に存在すると思っていた制服デートやら坂道自転車2人乗りとかは自分の実人生に起こり得ない出来事なのだと悟った私は、「実人生で無理ならせめてフィクションで」という錯乱した動機で演劇専攻の大学を選び、日本大学芸術学部演劇学科に入学したのでした。
日芸を選んだのは、当時憧れの存在だった蒼井優さんに会いたいという一点でしたが、入学したら既に退学されていました。南無。

出だしで蹴躓いたショックにもめげず、在学中に商業から小劇場まで主に舞台で活動し、20歳の時にCOoMOoNOという団体の演劇公演に俳優として参加し、今現在もそこで作品を創り続けて現在に至ります。

かつて大学時代を共に過ごした仲で、今も活動を続けている人たちはそう多くなく、自分も『まだやってたんかい』と思われることもあるかもしれません。
「続ける・続けない」の尺度であまり考えたことはありませんが、確かに振り返ってみると、ここまで長く続けているのは自分にとって思い入れがある行為だからでしょう。
かと言って演技することが楽しいんですね、とか言われると「いやー、それはどうすかね、へへ」みたいな歯切れの悪さを露呈してしまいますが、
でも、演技が興味深い行為であることは間違いなく、せっかくですからそんなところも徒然に書いてみようと思います。


COoMOoNO「カスケードとカテーテル」より

演技ってなんなんですかね。言葉からしてなんか嘘くさい印象があるのは私だけでしょうか。

私はフィクションが大好きです。
フィクションは概ね作り話や嘘と認識される場面が多いですが、個人的にそうは思っておりません。
時にはフィクションを通過した方が、日常よりずっと真実らしさが垣間見える瞬間があり、それが好きで好きで仕方ないのです。その辺は世阿弥の『風姿花伝』や近松門左衛門の『虚実皮膜論』でも語られていますね。昔っからそうした通念は人間の中にあったのではないでしょうか。
しかし頭でそれを分かっていても身体でそれを成立させるのは至難の業です。気を抜けば(あるいは気を入れすぎると)途端に芝居は”お芝居”になりますし、物語は”作り話”になります。

演技を『なにかを表現すること』として捉える人は、多いと思います。
実際「もっと感情を出して」的なことは様々な現場で耳にします。勿論どういう状況や文脈でそうした言葉が語られるかによって捉え方は変わってきますが、基本的に『表現のための表現』は嘘に転じやすいものです。
かと言って演技をする上で何もしなくて良い訳ではないですし、確実に何かはしないといけないのですが、日常で出さない心の内を曝け出すのが表現だという「何かやらなきゃ」的な勘繰りは段々と自分自身を見失わせます。
そうして芝居はやればやるほど『嘘をつくこと』に傾倒しがちなものです。

芝居を本当にする為には、究極を言えば『普段通りそこにいる』ことが必要で、演技って私が今までやってきたすべてのことの中で一番うまく出来ないことで、だからやめられるきっかけがなく続けてるのかもしれないですね。知らんけど。


そんなわけで、こういう奴が書いてまんねん的なイントロダクションはこれくらいにしておきまして、これから出来るだけコンスタントに文章をあげていきたいと思いますので、興味のある方は読んでいって下さい(キスマーク)。そもそも興味のない方はここまで読んでいないでしょう。
そう、つまりここまでお読み頂いたそこの貴方はすでに親愛なる読者ということです。
否定なんかさせないんだから。

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