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師弟の交響ー中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その5)

中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉「第五部 山陽の弟子」は、著者がその「まえがき」に言うように、「山陽の弟子」たちの行実を一覧することで、「あの維新革命の代表的イデオローグという固定的な姿から解放」し、生身の山陽に「直面させようという仕事」である。「山陽は詩人であり歴史家であったと同時に、教育者でもあった。だから弟子たちもまた彼の『作品』である」ことは言うまでもない。「その『作品』によって作者の真の姿に接近」するのは、師と弟子の人的交響の文や詩が公刊されているからこそなし得る試みである。

「山陽が京都に私塾を開いた時、最初の弟子となった」のは、後藤松陰であり、しかも師の死後には、「その遺稿を公刊したり、塾の残務整理をしたり、若い弟子たちを統率したりも、すべて松陰の役となった。そして、それを理想的に遂行した」忠実な弟子であった。「頼翁ノ手柬ヲ撿シ、偶作」に、「十書中九、丹酒ヲ論ジ、零紙ノ端ニ多ク小詩ヲ写ス。幽明今日、路ヲ殊ニスト雖モ、謦欬(ケイガイ)依然トシテ耳ニ入リ来ル。」と詠む。「亡師の自分宛ての書簡を整理していたら、その大概の手紙のなかには、伊丹の酒の話がでてくる。先生の声も耳もとに恢(よみがえ)ってくる」のである。山陽はもともと伊丹の酒にご執心だったようだ。

若くして尾張藩領五十三箇村の総庄屋の要職にあった村瀬藤城は、定期便のように手紙を書いて質問し、山陽に通信指導を受けた。その学問的対話はのちに『山陽藤城二家対策』として出版されている。山陽が死の床にある頃、「江戸で幕府の郡代を相手の訴訟に奔走」する、献身的な地方行政家であった藤城に宛てた手紙がある。

「『節ニ死ス』よりは『負テ勝ツ』趣向を立てたらどうか。『多智老錬ノ奴』(幕府郡代の下僚)を相手では、正義と誠意とだけではかなわないのだから、『何卒不遭鴆毒様ニして、早々御帰可被成候』。或いは『足下之誠心』が司直の心を動かすことがあるかも知れないが、そういうことは『今の世に稀なる事也』。」と説いた。山陽は「幕藩体制が斜陽に向っていることは直感していたが、その沈む陽の速度を速めようとして自ら破滅することは、敢てしようとはしなかった」。すなわち、「『明哲保身』が、その処世訓」であり、「維新革命の代表的イデオローグ」ではない、と著者は見ている。さてその後、藤城はいかなる処世を選んだのであろうか。

海路大阪と通じて賑わった尾道の、極めて豊かな旧家の主人であった橋本竹下は、藤城と同様に手紙を送って指導を受けた弟子ではあるが、山陽にとって「一種のパトロンのような存在」でもあった。「初期の山陽がその生活費の大部分を揮毫に依存していた時」にあって、「地方で先生のために注文をとったり作品を売りさばいたりする代理店のような役を演じていた」のである。ありていに言えば、「山陽の帰省は潤筆料かせぎの旅」であった。竹下には『竹下詩鈔』三巻があり、山陽の墓を展して「夢裏ニ音容、ナホ真ナルヲ見ル。仍チ涵育ヲ蒙ルコト、二十余ノ春。」と懐古してやまない。

備中長尾は、今で言えば新幹線の新倉敷駅界隈だから、菅茶山の廉塾へも最寄りの福山駅まで新幹線ならひと駅で、帰省する山陽の往還路であった。藩政改革を促し飢饉の改善などに尽力するなど良吏として名をあげた長尾村の富農・小野蘇庵(そあん)に宛てた年賀状に、「誠に去年の西国責(ぜめ)は、貴家を(秀吉の毛利攻めにおける)浮田(うきた)と奉頼候故、上方勢、引けを取不申、去臘の上京は、安土城下より城上迄、土産を積重ると申勢、近来の快き年の暮を仕候より」云々とあるから、小野家もまた「尾道の橋本家同様その中継基地であった」ことが知れる。

年賀状の続きには、「兎角此以後も根城と御成被下奉頼候。右之二十五両之兵糧、何卒十年ほどは手を不附申度奉存候。」とある。「小野家で挙げた収益は、実に二十五両に達していた」というから、後々の「軍資金」を手にしたのである。今日の芸術文化活動を支援する「メセナ」は、すでに江戸時代に源流があるということか。

小野家から山陽に入門したのは蘇庵の甥の招月であった。山陽が転居した東三本木南町の水西荘は花柳界に接していたのだが、招月は「頼山陽先生、近ク三樹巷ニ移居シ、観眺ノ美ヲ誇称ス。歆羨(キンセン)ニ堪ヘズ。因ツテ寄スルニ此ヲ以テス。」として、「我ハ愛ス、鳧涯(フガイ)、水石ノ清ヲ。羨ム、君、這裏(シャリ)ニ余生ヲ寄スルヲ。何(イヅ)レノトキゾマサニ同ジク芸窓ニ枕ヲ側ダテ、飽クマデ潺湲(センクワン)ノ舎ヲ聴クベキ。」と詠んだ。それを茶山は「一結、飽聴三弦徹暁声ト改作スルハ何如。」と評して、山陽が「色街に近い三本樹に書斎を構えたことを揶揄」した。それに対し、山陽は真顔で「三弦ノ声ハ時々、耳ニ到ル。然レドモ夜々ニ非ズ。而リ然ウシテ、夜々ニ然ル者ハ公(招月)ノ所謂、潺湲ノ声而已(ノミ)。」と弁解しているのだが、師弟の応酬も微笑ましい。

また、招月は「日頃から自分の故郷の悪口ばかり言う山陽」に悔しい思いをしていた。「すると、茶山の『黄葉夕陽村舎詩』第二集の山陽の頭評にも、それが出て来たので、我慢がならなく」なり、「『誰カ道(イ)フ、我ガ備、山水凡ト』に始まり、同じ句に終る長詩を書いて、鬱を晴らした」のだが、その詩の頭評で、杏坪老は「タトヒ山、蓬瀛(ホウエイ)ナラザルモ、紅魚ハ是レ仙味、天下ニ無キ所」と弁じている。これもまた、「杏坪、山陽、招月の、心のおけないつき合い振りを示す挿話である」に違いない。ところで、「紅魚」とは瀬戸内で鯛に次いで珍重される「あかめばる」のことだろうか。

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