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星巌と燕石の維新前夜ー中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その4)

中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その4)。山陽の「諸国の知友」の第一は梁川星巌である。山陽の九州旅行談に触発された星巌は、西遊の旅に出て、「茶山宅に滞留したり、杏坪、聿庵と交りを深めたり、また玉薀、花遁、昭陽、穀堂、嘉田、佩川、淡窓、秋水、竹下、と、山陽の旧知をいちいち順繰りに、飛石を伝うように訪問」した。しかもその後、京阪の間に住んで、「山陽との交遊は愈々熟した」のである。山陽が「活躍の舞台を江戸へ移そうと計画を立てた時、態々(わざわざ)彦根まで出掛けて星巌と打ち合わせをした」ほど親密な関係にあった。

その矢先、死の床に臥した山陽を見舞った星巌は、その足で江戸に入り、玉池吟社を組織して、たちまち「遂に天保以後の江戸詩壇に独裁的支配権を揮う」までに至る。その玉池吟社の隣家は佐久間象山の家で、「二人が日夜往来する間に、星巌のなかの政治的情熱が顕在化して来た」のか、「成功の極にあった玉池吟社を突然に閉鎖して、故郷へ引っこ」み、その「翌年、京へ上ると、政治行動家としての活動」を開始するのである。「その間、交渉のあった人物は、春日潜庵、小原鉄心、横井小楠、吉田松陰、僧月性、西郷隆盛などであり、特に、梅田雲浜、頼鴨厓、池内陶所とは、『四天王』と呼ばれて、反井伊派の前衛的グループを形成し」、「星巌の隠栖した鴨沂(おうき)の老龍庵は『恰も志士の秘密集会所と化』した」のであった。

「星巌の、革命家たちと宮廷との仲介的役割は、やがて井伊侯の秘密警察の注目するところとなり、安政の大獄の一斉検挙」によって、吉田松陰や山陽の末子・鴨厓三樹三郎などは命を失った。「しかし、星巌はその検挙の前々日、コレラによって危く世を去った」のだった。世人はその死を「星巌の要領のよさだと感じて、(洒落に死と詩を懸けて)『死上手』と評した」というが、生前、山陽が繁く交遊した詩人のなかに、維新の革命が深く胎動していたとも見え、維新前夜の側面史として興味深い。

もう一人、異色の人物が見られる。「四国丸亀の金比羅神社を中心とした親分は、加島屋長次郎であった」が、彼はもともとは富家の若旦那で、幼時、和漢の学を学び、本姓は日柳、燕石と号した。「山陽が死んだ年には、燕石はまだ十六歳である。もし燕石が山陽と酒席に見(まみ)えたすれば、恐らく師の尾池松湾の供をして訪問したのであろう」と、著者は推測するが、もとは「日柳家も山陽をパトロネイジしていた地方の名望家のひとつであった」から、燕石は「子供の時から山陽を他人のようには感じていなかった」かもしれない。

山陽を敬慕する燕石は、その歴史哲学の影響を強くうけた。燕石の『柳東軒詩話』に「頼翁咏史ヲ唱ヘテ自(ヨ)リ後、白面黄口、尚ホ能ク国史ヲ議論スルヲ知ル。」とあり、「燕石は山陽によって勤王思想に目覚めた」のである。やがて熱烈な尊王攘夷派となった燕石は、「多くの志士たちを、己れの勢力圏内に保護し、燕石家は倒幕運動の一拠点となるに至った」ばかりか、松下村塾の師弟、「吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作らは、夫ぞれ燕石家を一時のアジトとした」というから、ここに“もう一つの維新史”があるのではないか。

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