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関東大震災後の芥川龍之介「浅草公園」の実験

芥川竜之介『年末の一日・浅草公園 他十七篇』(岩波文庫)つづき。
シナリオの形式で書かれた「浅草公園ー或シナリオー」は、78の断片的なイメージの連なりからなる、「映画として製作、上映されることを意図しない所謂『レーゼ・シナリオ』」(石割透「解説」)である。そこからイメージをうまく喚起できないのは、わが身の想像力の乏しさであろうか。

そもそも「浅草公園」という呼び名に馴染みがないばかりではない。この作品が『文藝春秋』に発表された昭和2年4月といえば、大正12年9月2日の関東大地震から3年余りが経ち、大震災から復興しつつある浅草公園が舞台である。すでに賑わいを回復しているのか、いまだ殺風景をとどめているのか、往時を知らないのでイメージし難いのかも知れない。

芥川の「大震に際せる感想」(『改造』1923年10月)を見るかぎり、当時の芥川は驚くほど元気、かつ前向きである。大地震は「天譴(てんけん)」と思え、と言う渋沢栄一に異をとなえ、「汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし」と人々を鼓舞した。被災者に寄り添いながら、「否定的精神の奴隷となること勿れ」と励ますのである。

とすれば、この作品は幼少期に馴染んだ本所界隈の「風景を愛し」、文学や映画などの「芸術を愛」するがゆえの、芥川の新しい実験だったのだろうか。浅草の「雷門から縦に見た仲店」を俯瞰して、ロングショットで「外套を着た男が一人、十二、三歳の少年と一しょにぶらぶら」歩くのをとらえる。父親とはぐれて迷子になり、目金屋の飾り窓の「前に佇んだ少年の後姿、但し斜めに後ろから見た上半身」と、カメラワークの指示がある。「斜めに見た造花屋の飾り窓」では、「飾り窓の板硝子は少年の上半身を映しはじめる。何か幽霊のようにぼんやりと」とフォーカスアウトの指図がある。

ーーこうした断章が続くのだが、大震災に直接触れる表現は見られない。芥川の「震災の文芸に与うる影響」という一文を見ると、ひとつは「多数へ訴える小説をうむ」ことになる一方で、「大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景をきわめるだろう。……すると我々自身の内部に、何か楽しみを求めるだろう」、ゆえに「少数に訴える小説をうむことになる筈である」と二極化を予見している。この作品も「自身の内部に、何か楽しみを求める」作品の実験ということだろうか。ちなみに、〈コロナ禍の文芸に与える影響〉は果たしてどうなるだろうか。

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