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小島政二郎『眼中の人(その二)』と老いらくの恋

小島政二郎は「新潮」(1967年6月号)に「眼中の人」と題して400枚を一挙掲載している。文末に「その二」とあるので、25年前に書いた『眼中の人』の続編ということであろうか。言うまでもなく、関東大震災によって突然襲いかかって来た貧困と失望落胆、前途の暗澹との闘いから書き起こした「その後の精神発展史」である。

ロマン・ローランに触発されて忽然と「魂こそは作風である」と悟り、「子に返る頃」「新居」に続いて書いた「一枚看板」が、芥川龍之介、菊池寛などにも評価され、出世作となった。「朝日新聞」朝刊に、谷崎潤一郎、菊池寛、山本有三、岸田國士などにつづいて、小説「海燕」を執筆して好評を博し、連載中にはやくも新潮社から出版の申し込みが来るほどであった。「朝日」から二度目の依頼があり、「花咲く樹」を連載するころから、「主婦の友」などの大衆雑誌から原稿依頼が殺到し、気がつけば大衆小説のスターとなっていたのだが、純文芸誌からは見向きもされなくなる。

「そういう私にも、多少の良心――いや、流れに逆らってでも、本然の自分に帰ろうとする気持ちはあった。……どこでも載せてくれるあてもないのに、『眼中の人』という三百五十枚ほどの小説を書きおろしている」のだが、それは「本當の小説のつもりで書いた、言わば私という小説家の精神発展史」であったと、真情を吐露している。ちなみに、『眼中の人』は三田文学出版部から出版され、現在も岩波文庫で読めるのはありがたい。

戦後になっても、「芸術小説家」としては声がかからなかったと、小島は嘆く。「新潮社が活動を始めた時も、私はオミットされた。それまで『新潮文庫』には『海燕』『花咲く樹』『心の青空』などが収容されていたが、戦後は省かれてしまった」と、小島は悔しがるのである。そういえば、この「眼中の人」(その二)を『新潮』に一挙掲載しながら、新潮社はなぜか出版はしていない。しかもその頃、他社の雑誌に連載された小島の『聖体拝受』を出版しているのである。しかし、なぜか文庫には入れていない。

芭蕉終焉の地を訪れる旅に出て、ささという若い女性に出逢ったのは義仲寺の翁堂であった。のちに結ばれる視英子夫人であろうか。小島は書斎へ帰っても、彼女の面影が忘れられず、手紙を交わすようになる。たちまち「娘と同い年の若い恋人」かのようである。「彼女の手紙を読むと、説得力もあれば、描写力もあり、第一、物の見方、考え方が新鮮で、自分勝手で、外の女流とは一風も二風も変っていた」と感嘆している。たしかに視英子夫人の才能は『現代不作法教室』が多くの読者を魅了したことからも頷ける。「相い変らず私を恋人扱いにした言葉遣いが、私の骨をグニャグニャにしてしまった」というのも宜なるかな。

彼女は「一隻眼」をもって小島の心中を見抜く。名編集長として知られる扇谷正造率いる『週刊朝日』に頼まれた連載に、平安朝の大盗袴垂保輔と、人情話の名人圓朝の「どっちが面白いと思う?」と聞くと、彼女は打てば響くように「圓朝だわ」と答えた。なぜか。「あなたは作り話は下手だからよ」とにべもない。さらに、遠慮なく言って「両方ともおよしなさいーー」と。「あの雑誌は『新平家物語』や『大番』で百万の読者を獲得したのよ。あなたにも、面白い小説を書いてもらっていやが上にも読者をふやそうともくろんでいると思うのが常識よ。今やあなたに芸術小説を書かしてくれる雑誌なんか一冊もないわ」と貶されて、小島はカッカするばかりである。

とはいえ、彼女は「あなたの書く随筆はうまいわ。初めから終わりまで、どの一行にも実感があって、あなたの心や感情のリズムが打っていて、上品で、第一、文章が素直でうまいわ」と褒めるばかりか、「誰も真似手のない随筆家におなンなさいよ」と叱咤され、『わが古典鑑賞』も「随筆の中へ入れているのよ」「私小説なんかも、随筆の一種じゃないのかしら? 違う?」と問いかけるのである。

「素人のくせに、生意気いうな」と腹をたてながらも、小島は「欲も、得も、誇りも、何もかも一切捨てた無一物から再出発する覚悟」をして、「それがなくては小説にならない要素だけで小説を書くことを考えた」のだが、では「どうしたらいいのか」その手法が分らなかった。そんなとき、講演を頼まれて「今夜は一つ、随筆風の講演をしてやれ」と思いつき、聴衆の顔を見て思いつくままを喋ったら、思いのほか好評であった。随筆講演を続けているうちに、もしかしたら「随筆小説が書けるかも知れない。と言っても、私小説でない――」という望みが見えてきた。

あれこれ「随筆小説」を模索するうちに浮かんできたのが、どうしても「窮屈なチョッキ」を脱げず、「自分の文体は、小説を書くにふさわしくない」と煩悶した芥川龍之介である。「同じように文体で苦しんでいた私には、彼の心中が手に取るように分った」から、久しぶりに「思い切って『芥川龍之介』という小説」に取り組むことにした。「講演で覚えたコツで、出来るだけ随筆風に、文体を殺すようにして楽に書いたつもりだった」のだが、「平野謙と杉森久英とが褒めてくれた」のは嬉しかった。

ささからも「会いたし」とだけ一行書いた手紙が届いた。あるいは悪評を聞かされるのか、と警戒しながら出かけていくと、まずは「お目出度う」と挨拶され、「とうとう書いたわね、私が待っていた小説を――」と言うばかりか、「あなたのこれまでの生涯の傑作よ」と褒められて、小島は「近来になく仕合せ」な気分に満たされたのは言うまでもない。

なお、小島が「芥川龍之介」を「小説新潮」に発表したのは1960(昭和35)年12月号であり、この『眼中の人(その二)』を「新潮」に一挙掲載したのは、それから6年半後の1967(昭和42)年6月号である。ちなみに、視英子夫人とは前年の1966(昭和41)年11月に再婚している。

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