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永井荷風『帰朝者の日記』の模索

総合雑誌「中央公論」の編集長を務めた滝田樗陰は、爪の垢を煎じて飲みたいほどの名編集者であった。黒塗りの人力車で作家宅を駆け回り、家の前にその車が止まると一流作家の仲間入りが出来るとまでいわれ、その後の「中央公論」発展の礎を築いた。その滝田樗陰に宛てた永井荷風の一通の書簡がある。

「小生は故意に時代と反対するわけにては無之、個人性を基礎とする近代文藝一般の傾向によりて、単に自個の感情を歌ひパラドックスの思想的遊戯を喜ぶものに候へば、社会の改革者流と誤解されるも残念に有之、成りたけ物議を引き起すまじく心掛け居り候。出来得べくば『帰朝者日記』全体を製本の節取除いて仕舞つてはいかゞかとも存じ居り候。」

じつは10月1日付で発行される「中央公論」〈秋期大附録号〉に、荷風の「帰朝者の日記」の掲載が予定されていた。ところが、その寸前、9月24日付で短編集『歓楽』が発売禁止になったので、やはり明治の日本を冷嘲する文明批評を叙した「帰朝者の日記」も危ないと惧れた荷風は、その掲載を見合わせてはどうか、と樗陰に申し送った書簡である。だが、この時点ではもちろん校了済み、すでに印刷・製本段階であろうから、如何ともし難かったはずである。あるいは、樗陰がそのままの発行を決断したのか。ちなみに、先日、さいたま文学館開館25周年記念の「特別展 永井荷風」を観覧し、押収を免れた発禁本『ふらんす物語』5冊を目にして感無量であった。

それにしても、「帰朝者の日記」が発禁を免れたのは、本文中に人名・作品名などがしばしば欧文綴りで出てくるので、さすがの検閲官も根をあげ、匙を投げたのかも知れない、などと戯れ言を並べたくなるほどである。「詩人Byron」や「小説家Stendhal」程度にはとどまらない。荷風を投影した帰朝者の音楽家は、パリで懇意になった高佐文学士との談論が盛り上がると、欧文綴りのオンパレードである。

高佐文学士は「Exothism の類例として Fromentin や Gérome や Cavanelの絵画だの、Gauthier や Baudelaire や Loti の文学なぞを論じ出す。」のだが、横文字に弱い読者にはチンプンカンプンである。仏和辞典を捲り、ネットで検索して、どうやら「エキゾチズムの類例として、フランスの小説家で画家でもあるフロマンタンや、画家で彫刻家のジェロームや、画家のアレクサンドル・カバネルの絵画だの、ゴーチェやボードレールやピエール・ロティの文学なぞを論じ出す。」とまでは訳せても、そればかりでは欧米の芸術に疎い者には如何ともしがたい。

一方、江戸芸術を愛してやまない旧友もいる。「徳川文学に関する著述を尠らず公にし、絶えず新聞に小説の筆を取つて居る」文学者の宇田流水は、高等学校の旧学友である。10年ぶりの親睦会で再会した流水に、日本の文学界のことなどを問うと、「純粋の日本人から生れた純粋の日本文学は明治三十年頃までに全く滅びて了つた。其の以後の文学は日本の文学ではない。形式だけ日本語によつて書かれた西洋文学である。」などと辛辣である。二人は「同気相求むる親愛」を感じた。街中で偶々出会った際には、音楽家は「欧米の市街の美麗」を説き、「流水は文明化されなかった江戸時代の整頓に対する追慕の声」を放ち、「明治は破壊だ。旧態の美を破壊して一夜造りの乱雑粗悪を以て此れに代へた丈けの事だ。」と二人は共鳴するのであった。

ある日、葉山の別邸に養生する老父を訪ねた音楽家は、松の木陰に腰を下ろして海を眺めた。それは「謡曲の『風早や……』と歌ふ文句を思出した為めではない。Massenet の音楽に『松の木陰』と云ふ短い Poème symphonique を聞いて感じた事があるからだ。」――音楽家は松の木陰にフランスの作曲家ジュール・マスネの交響詩を思い起こすのである。

その帰り道、「この頃に読んで見た D’Annunzio の小説 Il Fuoco の事を思ひ出した。主人公の詩人 Stelio Effrena は自分より異つた人種のものは悉く野蛮人であると云つて、 Wagner の音楽を罵り、大に Latin 魂の向上を絶叫したではないか。」――イタリアの作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオの勇壮的な作品「火」まで目を通す読書欲には感嘆するばかりだ。とはいえ、「音楽にしろ、建築にしろ、絵画にしろ、文字にしろ、自分は若し日本の藝術にして飽くまで民族的なるものを求めやうとしたら、果して如何なるものを得るであろう‥‥」と煩悶するのである。

そこでふと思い出したのは、荷風の随筆「矢立のちび筆」にあったダンヌンツィオへの言及である。「かつて病褥にありてダンヌンチオの著作を読むや紙面に横溢する作家の意気甚だ豪壮なるを感じ、もし余にして彼の如き名篇を出さんとせば、芸術との信念を涵養するに先立ちてまづ猛烈なる精力を作り、暁明駿馬に鞭打つて山野を跋渉するの意気なくんばあらずと思ひ、続いて廐(うまや)に駿馬を養ふ資力と、走るべき広漠たる平野なからざるべからざる事に心付きたり。これよりしてダンヌンチオの著作は余に取りてあたかも炎天の太陽を望むが如くになりぬ。」(『荷風随筆集』下、岩波文庫)

すなわち、ダンヌンツィオに倣うことは絵空事と知った。あるいは、ダンヌンツィオの『死の勝利』を地で行ったという森田草平の『煤煙』事件(明治41年)は、荷風の頭の片隅をかすめたかも。ゆえに、激しい文明批評を繰り広げた「帰朝者の日記」から数年の葛藤を経て、荷風は「主張の芸術を捨てて趣味の芸術に赴かん」と決したのである。

ちなみに、ふとしたことから筒井康隆『ダンヌンツィオに夢中』(中公文庫)に巡り合って驚いた。その表題作「ダンヌンツィオに夢中」は豈図らんや、そのダンヌンツィオのごとき「愛国的英雄」にあこがれた「天才文学者」の真実に迫るユニークな三島由紀夫論であった。やはり、と言うか、言うまでもなく荷風の倣うところではない。

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