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小島政二郎『聖体拝受』―人及び芸術家としての谷崎潤一郎

小島政二郎『聖体拝受』は、「その小説家の書いた文章を至るところに引用して、その小説家の一生を描き評論した」という、作家でもあった評論家ウィリアム・シャープの伝記の手法を踏襲して、「人及び芸術家としての谷崎潤一郎」の心理と生活に肉薄した評伝である。引用ばかりではないかと侮ってはいけない。小島の手になるコラージュから谷崎という作家の深層が浮かび上がってくるのである。

谷崎は、永井荷風が「三田文学」(四十四年十一月号)に発表した「谷崎潤一郎氏の作品」によって激賞され、一躍文壇の寵児となった。小島はその永井荷風に憧れて慶應義塾大学に進み、「三田文学」の編集にもたずさわった縁があるだけではない。佐藤春夫、芥川龍之介、菊池寛などなど交遊する文壇人も重なるところが少なくなかった。谷崎を尊敬して兄事した芥川は小島の親しき先輩であった。ことに佐藤春夫は谷崎と「一生の親友であり、同時に、世にも不思議なライヴァルであった」。

というのも、谷崎は「うま」の合わない妻の千代子と別れ、その「千代子の拾い手としてこの世に春夫以上に適任者はないというのが潤一郎の結論だった」というのである。そのために「潤一郎は春夫のために家庭を解放する」のだが、「二人のイキサツを直接知らない私としては、潤一郎と春夫と――この二人の書いたものをたよりにするほかに手段がなかった」と断わりつつも、小島はその顛末に肉薄している。

ところがである、佐藤に出会って「二十五歳にして初恋を知」り、「一時に発したような新鮮な生命が全身に漲り渡った」千代子に、「潤一郎は目を剥いた」ばかりか、あろうことか「彼女を春夫に渡すのが急に惜しくなった」のだ。「どういう言葉で、いや、どういう方法で、潤一郎が千代子を春夫に譲るのをよしにしたのか」、惜しむらくは小島は直には聞いていないが、佐藤が「顔を逆撫でされたほど腹を立て」「憤懣と怨恨とに全身が燃えた」のは言うまでもない。

佐藤は失恋の苦しさを訴えて「その日暮しをする人」「侘しすぎる」「厭世家の誕生日」などの傑作を書いている。「情容赦なく言わしてもらえば、彼はこの失恋で、彼の本性に叶わないすべてのものを脱ぎ捨てて、彼の作風を完成させ、彼の作風に打って付けの素材を天から与えられたようなものだった」というのが、小島の見立てである。しかも、それから10年を経たのちに、「我等三人、この度合議を以つて、千代は潤一郎と離別いたし、春夫と結婚いたすことと相成り」と印刷された挨拶状が届くのである。谷崎と佐藤の「不思議なライヴァル」という以上に不可思議な、「恋愛事件とも言い切れない、紛争事件とも言えない」ゴタゴタの顛末を、小島ならではの手法で浮かび上がらせている。

上方に移住してからの谷崎は、「大阪を生活することに後半生を賭けた」ばかりか、その「大阪弁の下に、彼のすべての幸福があった」と、小島は見る。すなわち、「上方言葉を作品の上に完成した……潤一郎は上方言葉を生活した」のである。「小説家が、どういう風にして完成して行くのか、その生きた見本を見る心地がする」とまで谷崎を褒め上げ、「芥川龍之介は中途で倒れ、春夫は才能豊かだったが、豊かだっただけに移り気で、潤一郎のように一生一つのものを突き留めて行こうとする的を持っていなかった」とする対比は興味深い。

谷崎の小説が容貌を変えてきたのは、「盲目物語」辺りからであり、「この作が潤一郎の傑作だと思ったばかりではなく、文章の上で長い間取り去ることの出来なかった紅白粉のたぐいをきれいに洗い落した見事さを指摘したかった」と言い、「潤一郎は八十年の生涯の四十五歳の時、自分の形式を発見したのだ」と称賛を惜しまない。

「盲目物語」を書き上げたあと、谷崎は根津家の別荘の離れを借りて住んだ。ここで別荘の主である根津清太郎の妻・松子と巡り合い、「一生一度の恋愛に恵まれる」ことになる。「一生身命を献げて奉仕いたすに足るような貴き方を得て、その御方の支配に任せ、法律上は夫婦でも、実際は主従の関係を結ぶこと」を切望し、「私は苦学時代に書生奉公をいたしました経験がござりますので、再びその時代に戻ったような、若々しい、なつかしい気がいたすのでござります」としたためた、松子夫人宛ての谷崎の手紙を見て、小島は「私は始めて潤一郎の全貌を伺うことが出来た」、「まさに聖体拝受だ」と感嘆している。すなわち、「古くは『痴人の愛』の心境であり、『盲目物語』の心境であり、後には『春琴抄』の佐助の心境」である。「それも、松子夫人が思い切って私信を発表してくれたおかげ」であり、「正直の話、私も拝借するのに心が臆した」ほどであったと明かす。

谷崎の作品に「シャーラタニズムを最初に発見」して、「一日も早くそうした借り物を捨てろと忠告」したのは佐藤春夫であった。小島の見るところ、谷崎は「半生を賭けて、……自己のネガから這い出すことを成し遂げ」、「『蓼喰ふ虫』から『卍』『吉野葛』『武州公秘話』『盲目物語』『芦刈』を経て、やっと『春琴抄』で完成を見た」のである。あの自然派のリアリスト正宗白鳥までが「聖人出づるといえども、一語をさしはさむこと能わざるべしと言った感じに打たれた」と『春琴抄』を激賞したほどであった。

谷崎が取り組んでいた『源氏物語』の口訳を四年の歳月をかけて完成したとき、小島は「彼から頼まれて、第一巻を発売する直前に大阪へ講演に行った」のだが、そのときどのような会話を交わしたのか、ここでは明かされていない。だが、源氏の口訳は、「ああいう形式で『細雪』を構想させる積極的な雰囲気を用意させるに与って力があった」はずで、「構想の立て方、世界の限定、人物への触り工合、ユッタリとしたテンポ、これまでの潤一郎の作品にはない全く新らしい表情」である。先に傑作とした「『春琴抄』よりも、この『細雪』で潤一郎の文学は完成した」と、小島は賛辞を惜しまないのである。

この作品の雑誌連載が完結するまで、担当編集者として全うしたかったと、あらためて悔しい思いをかみしめながら読了した。

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