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芥川龍之介「孤独地獄」と鴎外の史伝『細木香以』

コロナで自粛して“晴読”、梅雨空を見上げては“雨読”する、芥川竜之介『蜜柑・尾生の信 他十八篇』そのⅣ。四百字詰の原稿用紙にして7、8枚ほどの短編「孤独地獄」は、自分の母が大叔父から聞いた話、とする作品である。大叔父は遊興の道に通じた「大通」の一人で、「幕末の芸人や文人の間に知己の数が多かった」として、何人かの名前をあげている。と言っても、幕末の芸人や文人に疎いので、どれ程のことなのかさっぱり見当がつかない。

とりあえずググってみると、河竹黙阿弥は歌舞伎の大問屋、柳下亭種員は長編ベストセラー『偐紫田舎源氏』の戯作者、善哉庵永機と冬映は俳諧師、九代目団十郎は歌舞伎を芸術の域にまで高めて「劇聖」と謳われた歌舞伎役者、宇治紫文は一中節宇治派の家元、都千中は浄瑠璃太夫、乾坤坊良斎は「切られ与三郎」などの講談をのこした講釈師と、絢爛たる顔ぶれである。

当の大叔父は、「姓は細木、名は藤次郎、俳名は香以、俗称は山城河岸の津藤と云った男」で、「生前一時は今紀文と綽名された」とあるだけで、それ以上の叙述はない。そのまま芥川は、放蕩三昧に明け暮れる禅寺の住職・禅超と大叔父が、吉原で遭遇する場面へと描述を移すのだが、その大叔父がどういう生き方をした人物だったのか、もう少し輪郭を知りたいと少々検索してみた。

大叔父・通称津国屋藤次郎が継いだ摂津国屋は、新橋山城河岸を代表する豪商である。津藤は文人、俳優、俳諧師、狂言作者のパトロンとして評判をとり、一時は紀伊國屋文左衛門と比較されるほど隆盛をきわめた。すでに森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』に「当時富豪にして榛軒に治を請うたものには、……皆謹厚な人物で、細木の如く驕奢ではなかつた」と触れられるほどである。安政6年頃から身代がやや傾き始め、ついに文久2年に津藤は隠居し、後年零落して下総に閑居した。津藤の俳名は細木香以だが、あれこれするうちに森鴎外に史伝『細木香以』があり、団子坂の鴎外邸をめぐる香以と鴎外の縁には魂消るばかりであった。

大叔父について鴎外に語る芥川の様子も、言うまでもなく記述されている。「芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。伊三郎の女を儔(とも)と云った。儔は芥川氏に適(ゆ)いた。龍之介さんは儔の生んだ子である」とあり、さらに「芥川氏は香以の辞世の句をわたしに告げた。わたしは魯文の記する所に従って、『絶筆、おのれにもあきての上か破芭蕉』の句を挙げて置いた。しかし真の辞世の句は『梅が香やちよつと出直す垣隣』だそうである。梅が香の句は灑脱(しゃだつ)の趣があって、この方が好い」と正してもいる。とまれ、津藤の遊蕩三昧、その後の零落はこの史伝に委細が尽くされている。

さて、放蕩三昧の僧禅超はどうしたか。ある日、三味線を弾きながら、大叔父の津藤に打ち明けた。孤独地獄というのは「山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現れる。云わば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱(くげん)を現前する」ものだが、「自分は二、三年前から、この地獄へ墜ちた」と呟き、それ以来、顔を見ることはなかったのである。のちの津藤の落魄と合わせて、煌びやかな僑奢淫佚が、即ちそのまま地獄となる実相を鮮やかに剔抉した作品ではないか。

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