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広瀬淡窓の私塾―富士川英郎『江戸後期の詩人たち』断章Ⅸ

広瀬淡窓が郷里へ帰り、九州の日田に開いた私塾は、「最初は成章舎、ついで桂林園、最後に咸宜(かんぎ)園と変った」が、「淡窓の温雅な人柄と高い見識を慕って従学する者が次第に多く、やがて咸宜園は江戸末期の私塾のうちで最も盛大で、最も完備したもの」となった。したがって、育英に明け暮れる淡窓の詩には、塾生の日常生活を詠じたものが少なくないとする、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』〈広瀬淡窓〉篇から一首。

幾人負笈自西東
両筑双肥前後豊
花影満簾春昼永
書声断続響房櫳

 幾人か笈(きゅう)を負(お)うて 西東よりす
 両筑(りょうちく) 双肥(そうひ) 前後豊(ぜんごほう)
 花影 簾に満ちて 春昼(しゅんちゅう)永し
 書声 断続して 房櫳(ぼうろう)に響く

これは「北九州の各地から徒弟が集ってきて勉学にいそしむ塾の盛況を歌ったもの」である。本書に引かれている小栗憲一の『豊絵詩史』は、「団欒のうちにその塾生を指導した淡窓の面影を伝え」ていて興味深い。

「先生眼光炬の如く、音吐雷の如し。講義明晰にして雄辨快利、声、数十歩に聞ゆ。書を講ずる毎に門外の路人皆な留りて聞く」ばかりではない。「先生毎宵必ず塾生六七人を召して、左右に団欒せしめ、号して夜話会と曰う。古を断じ、今を話し、志を言い、疑いを質(ただ)し、雑(まじ)うるに稗史怪談を以てす。塾生をして輪次之に充らしむ。これに由りて益を得る者また少なからずと為(な)す。」のである。さらに、「余嘗て請うて李白の詩集を受く。先生常に瞑目して燈を背にして坐し、暗誦して之を講ずること凡そ数十夕にして止む。曰く李杜の詩、予少年の時率ね皆な之を記憶す。老来誦する所のものはただ杜詩のみ」(もと漢文)

咸宜園跡を訪ねた中村真一郎は、頼山陽西遊の往時に思いを馳せている。
「今日でもその塾の一室は残っていて、壁に厳重な時間割が貼られているし、また学級の進学表も見られる。それによって、私たちはこの学校が極めて厳格で実質的な教育を行っていたことを知ることができる。また各地から集まった塾生たちは、全寮制度によって、水掬み、薪取りまでしたのであるが、生徒たちの毎日、水を掬みあげた井戸の枠(わく)石は、大きくえぐれていて、往事をしのばせてくれる」(『頼山陽とその時代』)

では、この「進学表」とか「全寮制度」はどのような仕組みになっていたのか。「門弟は前後四千人と称せられる」までに塾生を惹きつけたカギはどこにあるのか。ものの本にあたってみると、「三奪法」と「月旦評」による「徹底した実力主義」(前田勉『江戸教育思想研究』思文閣出版)に、そのカナメがあると考察されている。

「我が門に入る者、三奪の法あり、一に曰く。其の父の付くるところの年歯を奪い、之を少(わか)き者の下に置く。入門の先後を以て長幼となす。二に曰く。其の師の与うる所の才学を奪い、不肖の者と同じく伍さしめ、課程の多少を以て優劣と為す。其君の授くる所の階級、之を卑賤の中に混じ月旦の高下を以て尊卑となす。是三奪之法なり。」(井上義巳『人物叢書 広瀬淡窓』吉川弘文館、『灯下記聞』巻三)

この『灯下記聞』は、淡窓の嗣子となり、のちに第三代塾主となった旭荘の長男孝之介が、淡窓の語るのを筆録したものであるが、「三奪法」とは「年齢、学歴、身分のすべてを奪って、門弟一同が入門時において同一の線に並ばされ、あとは塾中の勉学如何によって優劣が決っていく」(同前書)とするシステムである。その勉学如何は「月旦評の作成によって、厳正的確に、その門弟の成績を評価して、毎月初めにこれを公表して、各門弟の努力を促した」(同前書)のである。

その「月旦評」は、「塾生全員の課業(素読、会読、習字、数学等)、および試業(詩・文)・解説等の優劣を審判し、九階級に分けてその学業の程度を明確に示すもの」であり、「各級が上下に分れてその下が無級であるので、全部で十九階段となる。門生それぞれの級は、毎月月末に縦に級、横に席次を明示した全塾生の成績一覧表として公表される」(田中加代『広瀬淡窓の研究』国立国会図書館デジタル)のである。

さらに加えて、「奪席会」がある。「課業には素読・輪読・聴読・輪講・会講があった」のだが、「会講は討論形式の授業で、講義内容について質疑応答をして、真に理解しているかどうかを調べるものであった。その会講は別名『奪席会』」(同前書)とも呼ばれていた。そのシステムは、前田勉の前掲書によると、淡窓の弟子、武谷祐之『南柯一夢』(『増補淡窓全集』巻中所収)に詳しい。

咸宜園は必ずしも順風満帆だったわけではない。咸宜園の興隆を自身の手柄としたい、天領日田の郡代による干渉・介入には苦しめられた。葉室麟『霖雨』は、その「官府の難」に苦闘する淡窓、末弟の旭荘、家業を継いだ弟の久兵衛を軸に描いた小説である。霖雨、驟雨、煙雨ありとしても、「止まぬ雨はない」ばかりか、「この世に生まれて霖雨が降り続くような苦難にあうのは、ひととして育まれるための雨に恵まれたと思わねばなるまい」とする淡窓の生き方を、大塩平八郎の洗心洞塾と対比させて浮き彫りにしている。

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