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煽動と行動ー中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その6)

緊急事態宣言の巣ごもりを奇貨としてというか、初めてお目にかかる漢字や熟語を、辞書と首っ引きで探索するのに、時を忘れて没入する自粛の日々である。未知の漢字を読み解くのはけっこう愉しくて、当の詩文の文脈をまま置き去りにしてしまう体たらくは、我ながら耄碌というほかない。中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その6)では、「山陽の弟子」の「慷慨家たち」の詩文をあれこれ、著者の言い方を借りれば「栽(つま)んでみる」こととしたい。

山陽の名声を慕って集まって来た中期の弟子たちは、「気を許した天下国家の議論を聴かせ」られて、「慷慨家に育って行った」のであるが、その一人が高槻藩の鉄砲奉行藤井竹外である。「古陵、松柏、天飆(ぺウ)ニ吼(ホ)エ、古寺、春ヲ尋ヌレバ、春、寂寥。眉雪ノ老僧、時ニ帚ヲ輟(ヤ)メ、落花深キ処、南朝ヲ説ク。」とは、「竹外の詩名を一世に高からしめた『如意輪寺』の絶唱」である。

「この詩に見られるような尊王主義は、竹外の場合、遂に心情的な時点に停まって、実践的な倒幕の政治行動にまでは進まなかった」のである。隠退を許されてからのち、竹外は「京都の先師の家の傍らに隠宅を営ん」でその日々を愉しみ、江木鰐水(がくすい)によると、「故士人ノ来訪多シ、避ケテ見ズ」というから、竹外は訪れる「志士たちに注意深く門前払いを食わせていた」のである。

「慷慨家の第二は、宮原節庵である」と言っても、『節庵遺稿』第二冊(巻三、四)に収められた詩の主題は、「第一は肉親、就中、母親への愛、第二は師山陽に対する愛、第三は同門の友人への愛」の三つである。帰郷するので「諸友ニ留別ス」る際も、「別話喃々(ナンナン)、睡リ未ダ成ラズ。」して、「住(トド)マレバ慈親ヲ憶ヒ、去レバ朋ヲ憶フ。」ばかりである。著者の見るところ、「要するに節庵は、生活の中心に愛情を置き、愛情を信じて行動した人物」であり、「幕末の変転期にあくまで世に出ることを拒み通した」のである。著者の「栽んで」いる詩文のかぎりでは、いわゆる行動する「慷慨家」は浮かんで来ない。

「慷慨家の第三は、森田節斎」であり、彼は「天才的な煽動家」であった。節斎は「一生の間、各地を流浪して、行く先々で塾を開いたりして、勤皇思想を鼓吹した」のだが、「それはあくまで、具体的なプログラムを持つ革命理論というより、極めて観念的で激烈な、そして詩的な思想」をとなえる「空想的慷慨家」であった。その弟子の第一に吉田松陰がいる。節斎の『遺稿』の詩中に、「事ヲ解スル轎夫、故(コトサ)ラニ徐歩ス。徒行、汝ヲ憐ミ、語慇懃。他年、須ク記スベシ、泉州路、輿外輿内、共ニ文ヲ話セシヲ。」とあり、若い松陰の徒歩に合わせて、節斎を乗せた駕籠はゆっくり進み、そのなかから語り合った、「楠公の史蹟を探る旅」を吟じている。

その後、松陰が踏海の企てを図ったとき、「徹宵して、節斎は松陰の決意を翻そうとした」のだが、松陰は「僕死且不避亦何恐先生之怒罵乎。」と書き置きを残して敢行におもむくのである。これは節斎があくまでも「煽動家であって実践家でなかったこと」の証しではないか。あまり確かではない記憶だが、『吉田松陰全集』に森田節斎に触れる記述を見なかったのは、節斎は粗豪にして策なく、天下の大計にすこぶる疎なりと見て、松陰はおのずから疎遠になったのかもしれない。安政の大獄によって、「尊攘運動は急速に武力による倒幕の路線に転じて行く」なかで、ついに「節斎は倉敷の塾にあって動かなかった」のである。

「慷慨家の第四は家長韜庵(とうあん)」がくる。「森田節斎と最も親交」があり、「節斎の世話で後年、京都に開塾」している。『韜庵遺稿』に序を寄せて近藤元粋は、「韜庵翁ノ為人(ヒトトナリ)、奇節稜々、敢テ富貴ノ人ニ屈下セザリシハ知ル可キ也。(中略)是レ、韜庵ノ名ノ世ニ顕レザル所以也カ。」と述べ、この出版が「竹外節斎諸老ノ著ト並ビ行ハルレバ、其ノ名、或ヒハ松陰百峯諸名家ノ上ニ出デンカ」と記し、先の竹外、節斎に並ぶ存在であるとダメ押しする。

韜庵の「木芙蓉の詩」から、「穠芳(ヂヤウハウ)縟彩(ジヨクサイ)、春葩(シユンパ)ニ類シ、品ヲ論ズレバマサニ裁スベシ、姚魏(エウギ)ノ家。却ツテ是レ、霜天、冷淡ニ甘ンジ、紫桑ノ籬落(リラク)、黄花ニ伴フ。」を引いて、「極彩色のなかに強直さを示しているのが、慷慨家の面目だろう。また無骨なユーモアも、その一特徴である」と評している。
山陽の弟子中、「慷慨家たち」として論及されたのは、以上の四人である。

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