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芥川龍之介「野呂松人形」とアナトール・フランスの言葉

芥川竜之介『蜜柑・尾生の信 他十八篇』そのⅣ。短編「野呂松人形」は、第四次「新思潮」に載せた「鼻」が漱石に激賞された大正五年、先の「孤独地獄」に続けて発表した作品である。

野呂松(のろま)人形とはいかなるものか、今時の人の知るところではない。芥川もその辺は心得ていて、「世事談」から引いて解説するのであるが、そもそも「世事談」とはいかなる代物か。検索してみると、菊岡玷凉述『本朝世事談綺』巻之一〜五(享保十九年)であり、国立国会図書館のデジタルコレクションを覗いてみると、流麗な毛筆書きだから解読するのは骨が折れるにちがいない。芥川がそんな文献まで渉猟している博識に驚くばかりである。

「世事談」には、のろまは「江戸和泉太夫、芝居に野呂松勘兵衛と云うもの、頭ひらたく色青黒きいやしげなる人形を使う。これをのろま人形と云う。野呂松の略語なり」とあり、「昔は蔵前の札差とか諸大名の御金御用とか或はまたは長袖とかが、楽しみに使ったものだそうだが、今では、これを使う人も数える程しかないらしい」というのである。

「僕」は友人の知人から招待されて、野呂松人形の舞台を観に出かけるが、そこに来ている連中は一人も洋服を着ている者はいない。「僕の知っている英吉利人さえ、紋附にセルの袴で、扇を前に控えている」というのに、大学の制服を着て行った「僕」はいささか「étranger」(注:フランス語、異邦人)の感があったとか、舞台で「与六の長いsoliloque(注:独り言)が始まった」とか、フランス語がそのまま出て来るのは、観客にはイギリス人だけでなくフランス人もいたと示唆しているのだろうか。

野呂松人形に再び、étrangerの感を深くした「僕」は、アナトール・フランスの書いた一節を思い起こす。「……あらゆる芸術の作品は、その製作の場所と時代とを知って、始めて、正当に愛し、且、理解し得られるのである。……」。とすれば、「僕たちの書いている小説も、何時かこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか」と思い巡らすのである。

いま現在の読者からすれば、というより自分にとっては、「孤独地獄」にせよ、「野呂松人形」にせよ、その「製作の場所と時代」を知れば知るほど、その作品の深さ、面白さをよりいっそう味わえることを実感するのは確かである。

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