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江藤淳『荷風散策-紅茶のあとさき』を読むⅡ

シャルル・ド・ゴール空港でトランジットのとき、空港からパリの空を仰ぎながら1日だけでも街を歩きたいと思った記憶が、それから30年ほど経った今もなお消えない。リタイアしてから旅行する計画も踏ん切りのつかないままになった。

江藤淳『荷風散策−紅茶のあとさき』の《巴里今昔》において、「幕末の頃、日欧の文化が接触した当初、浮世絵版画の非遠近法的画面構成が、忽ちヨーロッパの美術界を席巻する勢いを示した」のに、「一方、日本文学の西欧語訳に眼を転じると、絵画や美術工芸の世界の“ジャポニスム”に類推できるような現象は、どこにも見当らない」のはいかなることか。著者は文学作品の翻訳に着眼する。

「もし話者の視点と発話点を、テクストの外の固定された一点に置き、登場人物の人称を三人称に、その行為の時制を過去形に置いて物語を進める西欧の物語話法を、絵画における遠近法になぞらえるなら、日本文学の英訳者たちは、遠近法を放擲して原文に近づこうとするどころか、むしろ浮世絵版画の構図を再構成して、遠近法に合致するように修正するというような仕事ばかりをしていることになる。」

だからか、「日本文学の英訳者には、原文中の地名や固有名詞を、訳文では平気で省略してしまう顕著な傾向がある」というのである。江藤は、荷風の『ふらんす物語』を引く。パリに立って、「此れまで読んだ仏蘭西写実派の小説と、パルナツス派の詩篇とが、如何に忠実に如何に精細に此の大都の生活を写して居るか、と云ふ事を感じ入」った荷風は、さて、「吾々明治の写実派は、それ程精密に其の東京を研究し得たであらうか」と疑問を呈する。

《二つの改元》の章において江藤が俎上にのせるのは、荷風の小説随筆集『面影』(岩波書店、昭和13年刊)所収の短篇「おもかげ」である。その書き出しに続く文を見ると、引用は略すが、「ことごとく時制が現在形に置かれている。このことは取りも直さず、話者の視点と発話点が『テクストの外』にではなく、『テクストの内部』にしかないことを明示する証拠にほかならない。」ので、「近代小説の物語話法」を「自から放擲してはばからない」と見える。すなわち、荷風は「いわば小説の小説性を捨ててまで、日本語という国語の要求する物語話法に固執しようとした」と、著者は看破するのである。

つづいて《物語話法と「『女中のはなし』》では、「日本語という国語の物語話法における人称と時制の問題」をめぐって、「自問自答的にいくつかの問題点を列挙」するのだが、いかんせんわれら読者も「収拾がつかなくなる」のでパス。話題は一転して《時代と年齢-『葛飾情話』について》に移る。歌劇『葛飾情話』を一読してみると、なるほど「軽演劇の台本の台詞の一部を歌詞に替えただけという代物」でしかない。とはいえ、オペラ館の公演は「大当り」となり、荷風も『断腸亭日乗』に「意外の成功なり。」と記すほどであった。

それもあって、「PCL映画のシナリオを書くという仕事の話まで持ち上が」り、荷風は心を躍らせて『浅草交響曲』と題する「映画の筋書」に取り組む。ところが、『日乗』を見ると、突然「PCL映画交渉中止の旨を内容証明郵便にて先方へ通達す」ることになる。というのも、『日乗』に「この程に至り政府の映画製作に対する取締いよいよ苛酷となり、軍事奨励に関係なき映画は到底製作の見込なき由にて、余のつくりし映画筋立は無用となりしと云ふ。」と記す「時代」が、「荷風散人の前に、大手をひろげて立ちはだかった」のである。「逸楽の空間」が「俄に変質・変貌を開始」するとともに、文学・小説にとどまらず、「演劇と映画の空間」もまた「封殺してしまうかに見えた」のである。

こうして日の目を見なかった《『浅草交響曲』》は、「終戦後の昭和二十九年(一九五四)五月十日発行の『サンデー毎日』第三十三巻第二十号、『臨時増刊新緑特別号』に木村荘八の挿画入りで掲載された」のち、昭和31年に毎日新聞社から刊行された単行本『葛飾こよみ』に収められた。一読してみると、たしかにその映画筋書の「プロットそのものは、別段これといって何の変哲もない平凡なものに過ぎない。」のだが、文末に「コノ映画ハ音楽ヲ聴クコトヲ主トシ其他ノ事ハ重キヲ置カズ」と希望を記していて、荷風に何か期するところがあったかに見える。

ちなみに、映画といえば、昭和30年に『渡り鳥いつ帰る』が映画化された。『日乗』に「六月三日。陰晴定まらず。午後三時より銀座山葉ホール階上にて『渡鳥いつ帰る』映画試写あり。行きて見る。」とある。荷風の『にぎりめし』『春情鳩の街』『渡鳥いつかへる』を久保田万太郎が構成、出演者は淡路恵子、岡田茉莉子、高峰秀子、森繁久彌、田中絹代など錚々たる顔ぶれであった。

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