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終の存在の空白のお話

みんなに家族が居る
不思議なことだなと思う
親の心配をしたり、結婚相手の地元に行ったり(帰ったり、でいいのだろうか)、子供を産んだり、している

みんななんだかんだといっても、家族の状況や、家族の都合を根源的なものとして第一に考えてるらしい、というのが伝わってくる
とても不思議に思う

家族愛、とまでは言わなくても、家族というのは身近な存在で、なんだかんだと気遣ったり優先したりして生きるもの、というのはわかる
誰かが結婚した時にお祝いの気持ちはあるし、幸福になって欲しいし、家族と調子が悪ければ心配したり手をかけたりするのも理解できる

でも、それはわたしのクオリアじゃない
例えば坂の多い通学路で笑いながら登下校するとか、桜の舞う入学式とか、金木犀の匂いのする夜とか、そういうものと同じ、実体験のない、共有化された記憶みたいなものだ

わたしは今家族がいなくて、そのことを心からよかったと思っている
そういうと冷たいと思われそうだけれど(それを否定したいわけでもないけれど)、家族というものだって、温かいとは限らないのだから

だからわたしは家族のいないまま死ぬことになると思う
それがいつかは別として
孤独死、なんていう言葉はこれからも使われるのだろうか
(「人はみんな孤独に死ぬ」とロバータ・スパロウは言っていたけれど)

だからわたしは、誰かと出会った時も、いつも別れを思う
いつかこの人も、わたしに興味を失って居なくなるのだろうなと思う
だってわたしは、誰にとっても終の存在ではないのだから
それが、今を否定するとも思って居ないけれど、それは今と未来がシリアルな存在ではないからだ

中には、友人として近くに留まってくれる人もいる
か細いミームで繋がって居て、それでも、その人にも家族が居たり、できたりするのだ
不思議だと思う

わたしは、空白の中に浮かぶようにふわふわとして居て、世の中とはやわらかくて薄い膜があると思う
わたしは誰にとってもそれほどには重要な存在ではなくて、それは私が終の存在ではないのだから、当たり前だという納得がある
存在の実感というなら、それが私のクオリアだ

だからわたしはいつも現実には対処できなくて、空白が空白のままであることが安心だという気がする

かつて同じ空白の中にいたひとも、いつか実体を伴って、家族や帰る場所とかを、手に入れて(そうでないのなら取り戻して?)いくのだ

繰り返し、繰り返している

これはきっと、わたしにはずっと解けない謎なんだろうと思う

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