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クイーンとスパークス 後編【2022年版】

偉大なロックバンド、クイーンと同じ1970年代から近い位置でキャリアを重ねてきたのに、なかなか一般音楽ファンに認知されなかったスパークスが、今年いよいよ2本の映画でブレイクしようとしている! ところまで前編で書きました。その続きです。

たぶん日本人のほとんどはクイーンの映画「ボヘミアン・ラプソディ」を知ってるでしょうから、よかった〜と思った人で、まだスパークスの映画見てない人は見てください!

↑ スパークスが音楽・原案を担当して出演もしている、フランスの巨匠、レオス・カラックス監督、アダム・ドライバー主演の「アネット」

↑ スパークスの50年の音楽活動を集大成した伝記ドキュメント映画「スパークス・ブラザーズ」今やハリウッドの売れっ子、エドガー・ライトが監督している。

にしても、レオス・カラックス監督とエドガー・ライト監督が元から知り合いでも、一緒に企画したワケでもないのに「アネット」と「スパークス・ブラザーズ」が別々の映画会社で製作され、同時に完成して、別々の映画館で同時に封切りロードショーされるって、ほんと奇跡を超えてるな。

レオス・カラックスも、エドガー・ライトも、スパークスも、みんな日本文化びいきだから「アネット」にも「スパークス・ブラザーズ」にも、日本で撮影されたシーンがスペシャル感を持って挿入されてる、というのも日本のファンの特権ですよ! 世界的な監督が撮って世界に公開されてる映画なのに!

ぼくにスパークスを教えてくれた人

筆者も人並みに、1970年代中盤はクイーンやキッスに熱中し、70年代終盤はクラフトワークやディーヴォに熱中していましたが、スパークスについては中途半端にしか知らず、スルーしていました。

1981年ごろ、友人の岸野雄一くんから

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「とにかくスパークスはカッコいいんだから、ちゃんと全部聴いてみて」と言われて、1枚ずつ丁寧に解説されながら、強引にアルバムをすべて聴かされ、やっと、その音楽の趣味の良さに気づき、インテリジェンスにすっかり夢中になり、ぼくも大ファンになりました。

しかし、印象としては「クイーンに似ているな。だから響くのかな?」という感じでした。しかし「なんかクイーンみたい!」というと、岸野くんは「違う! あっちがマネしてるんだ!」と怒っていた。

はたしてどうなのか? 軽く検証してみました。以下文中に「映画」と書かれてる部分は「スパークス・ブラザーズ」のことです。

アメリカのスパークスと、イギリスのクイーン

スパークスはクイーンより少し早く60年代後半から活動を始めています。
1971年9月にトッド・ラングレンがプロデュースした「ハーフネルソン」というタイトルのアルバムでデビュー。当初はバンド名もハーフネルソンだったようです。それ以前の学生バンド時代の様子も映画には出てきます。

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ちなみにハーフネルソンは「片羽絞め」で、両手で羽交い締めにすると「フルネルソン」です。(余談の余談)

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翌1972年1月にセカンドアルバム「A Woofer in Tweeter's Clothing」が出ます。
このときバンド名がスパークスに改名されました。そのいきさつは映画に詳しく描かれてます。

1972年の7月になって1stが「スパークス」というアルバム名も変えて、再リリースしました。やっぱり、このほうがカッコいいですね。

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最初の2枚は90年代になるまで日本盤は出てませんでした。

当時、スパークスは5人組のバンドとして活動していましたが、あくまでもコアはメイル兄弟、曲作りとキーボード担当の兄、ロン・メイルと、ファルセットが特徴的なボーカルの弟、ラッセル・メイルの2人によるデュオというかユニットでずっと続いてます。

モダンな曲調とロンの流麗なピアノやオルガン、そしてラッセルのオペラ歌手のような大仰なスケール感のある歌声が印象に残ります。展開の多いドラマチックなサウンドも最初から確立されていましたね。

クイーンも71年くらいから活動してましたが、スパークスが72年にイギリスツアーをやっていた時代に、前座をやってたこともあるそうです(映画「スパークス・ブラザーズ」でスパークスがイギリスに渡って最初の頃のライブのフライヤーに、下の方に小さくクイーンの名前が入ってる画像が確認できます)この頃、もしかして、スパークスの音楽からデビュー前のクイーンにも何かの・・。

クイーンのアルバムデビューはずっとあと、1973年7月「戦慄の王女」で、

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2枚め「クイーンII」のリリースは1974年3月でした。

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日本ではレコードのリリースが少し遅れましたが、音楽雑誌のカッコいいグラビア写真だけで火がつき、アイドル的人気ではイギリスより先に大ブレイクしました。

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クイーンもサウンドは最初から完成されてて、展開の多いドラマチックなサウンド、フレディのオペラ歌手のような大仰なスケール感のある歌声と流麗なピアノ、ブライアンの独特なギター、さらに掛け合いのコーラスが強いですよね〜。

そして、スパークスはもともとアメリカのバンドなんですが、クイーンと同じ、イギリスを拠点にするようになります。1974年5月に、3枚目のアルバム「キモノマイハウス」をリリース。これが高い評価を受け、日本盤も出るようになって注目されます。シングル「ディス・タウン」も大ヒットし、代表曲になりました。

ここでスパークスは今まで以上に、ロック色の強いギターサウンドを導入、ラッセルのボーカルスタイルも様々に表情を変え、これは「ロックオペラの傑作」だ、とメディアに絶賛されました。ラッセルのハンサムなルックスも大いに受けて、そこそこアイドル的な人気も出て、テレビショーにもよく出ていたらしい。

スパークスとクイーンのグラムロック時代

当時、イギリスには「グラムロック」というカテゴリー分けがあって、グラムはグラマラスの略なんですが、メイクや衣装に凝ってるビジュアル重視のミュージシャンは、歌やステージもハードロックやプログレッシブ・ロックより、シンプルでグルーヴィで演劇的な傾向にある、という感じで、ちょっと印象が似ているアーティストは勝手にグラムに括られていました

で、グラムロックに入れられた中で、売れ方と知名度では、頂点にデヴィッド・ボウイとTレックス(マーク・ボラン)がいて、ちょい下にロキシー・ミュージック(ブライアン・フェリイ)とかモット・ザ・フープル、その、ちょい下くらいにゲイリー・グリッターや、ホークウインドやスレイドやスウィートやコックニーレベルとかが入れられてて、スパークスやクイーンも括りの中に入ったり入らなかったりする、くらいの当時の位置関係でしたでしょうか?(それほどリアルタイムには知らないのですいません。

そんな状況で、前回紹介した、クイーンのブライアン・メイが、スパークスのメンバーに誘われる事件なども多少のライバル意識から起きたと思われます。

まあ、たぶん単純にルックスだけで、アクの強いフレディより、スッキリと端正な顔立ちのラッセルのほうがブライアンと並んでも見栄えがするだろう〜、みたいな安直な発想の気がします。もちろん実現してたら音楽性も格段に進化したでしょうが、しかし理論派のブライアンと、奇才ロン・メイルでは意見も合わずにすぐ衝突してただろうかな〜。

しかしクイーンは74年の10月に先行シングルの「キラー・クイーン」が大ヒットして、3枚目「シアーハートアタック」も11月にリリースされて高い評価を受け、ついに欧米でもブレイク、グラムの括りからも抜け出て、すっかりメジャーになってしまったよ。まあクイーンは誰でも知ってるので、動画は貼りませんが。

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同時期、74年の11月には、スパークスの4枚目「恋の自己顕示」が出ました。ここではラッセルのボーカルをオーバーダビングして重厚なコーラスにし、オペラっぽさがさらに強調され、アルバムのコンセプチュアルな感じも際立っています。(ジャケ写はヘン)

1975年10月、スパークスの5枚目「スパークショー」は、ややロック色を抑え、トニー・ヴィスコンティのプロデュースによりストリングスやブラスなども加えた、ノスタルジックな味わいのある曲調も多くなりました。(ジャケ写は意味不)

しかしスパークスも、グラムのブームから抜けていくと、安定した人気の中堅バンドという感じになってたんでしょうか。いまいちシングルヒットも出ず、メディアの評価もスノッブ的というか、趣味のいい、わかるやつにはわかるんだよ、みたいな感じなのか。

一方、75年の11月、クイーンの4枚目、コンセプチュアルなアルバム「オペラ座の夜」がリリース。先行シングルの「ボヘミアン・ラプソディ」もヒットチャート1位になり、重厚なコーラスでオペラっぽさがさらに強調され、「まさにロックオペラの完成形」という評価を受けました。世界ツアーをやるようなビッグバンドになっていきました。

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が、その頃から、一部の識者の間では「クイーンは・・もしか・・して・・スパークスから、ヒントを、得て・・か・・多少の、影響は受け・・て・・いるのでは?・・」というような評価もあったようなのですが、さだかではありません。はっきり言及された評論はあまり見た覚えがないのですが、知ってる人は教えてください。

まあ、クイーンは大メジャーバンドになり、スパークスはずっと通好みのバンドなので、立場は違えど。フレディ・マーキュリーという天才と、ロン・メイルという天才が、偶然、嗜好が似てた、ということなのかな?

ロックオペラぽい曲の合間に、1920年代的なホンキートンク調や、1950年代ミュージカル風なアレンジを挟んだりするセンスも、なんとなく似ているんだよね〜。もちろんクイーンのほうがよりわかりやすい「狙ってる感」「ケレン味」が強く、大衆にアピールできていたんですね。

ここでひとこと、ロックオペラとは?

そしてクイーンもスパークスにも影響を与えた先輩、というとザ・フーですけども!
だいたい、どんなロック本やwikiを読んでも、ザ・フーの「トミー」(1969年)がロックオペラの原点、と書いてあります。

「トミー」は、もちろんぼくも人生で大きな影響を受けた優れた作品ですけど、特にケン・ラッセル監督の映画版(1976年)も。

しかし、あえて言いたいんだがロックオペラなのか?

複雑なストーリー性のあるコンセプトアルバムの名作ですけど、ボーカルのロジャー・ダルトリーは別にオペラっぽい歌い方をしてるわけじゃないし〜。ロックオペラという名称は、ただドラマ性が強くてセリフが歌になってればオペラ、みたいな呼び方の問題じゃないか?

本当に、オペラ歌手のような発声法、歌唱法を意識的にロックに取り入れようとして成功したのは、やっぱりフレディ・マーキュリーと、ラッセル・メイルが双璧じゃないか? ロックオペラとは70年代のクイーンとスパークスなのでは。

もっと言えば、70年代クイーンのオペラっぽさは、フレディよりも高い声の出せるブライアンとロジャーのコーラスワークがあってこそ成り立ってたので、そこをひとりのオーバーダビングだけでオペラっぽいコーラスを作り上げたラッセルこそが最強じゃと思わん?(あくまで個人的意見ですけど!)

クイーンの進撃と、スパークスの迷走時代!

スパークスは、前作でアコースティック志向だったのが一変、1976年8月、ハードロック路線に寄せた「ビッグビート」をリリース。活動もアメリカに戻るようになりました。前回触れた、映画「ジェット・ローラー・コースター」に出てたのも、この頃でした。ちょっと、この変化にはファンにも戸惑いがあったようです。

クイーンは76年12月、前作のロックオペラ路線を引き継ぎつつも、ノストリングスやブラスなども加えた、ノスタルジックな味わいのある曲調が多くなった「華麗なるレース」を出し、人気もさらに安定してきます。

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1977年10月、スパークスはさらに一転、メロウなAOR路線に転向し、西海岸のさわやかなイメージを打ち出した「イントロデューシング」を発表。しかし、これはあまり評価されませんでした! ファンに飽きられるのを恐れ、と言いつつ、逆に飽きっぽいスパークスがコロコロとスタイルを変えていくのにファンもついていけない感じ? このへん映画にも詳しく経過が描かれます。

同じ頃、クイーンは大ヒットシングル「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」が地球規模のアンセムとなり、アルバム「世界に捧ぐ」で不動のビッグスターとなります。

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● ちなみに「クイーンなんて、スパークスの二番煎じや」と言ってた岸野雄一くんも、クイーンが嫌いではなく、ぼくと一緒にライブで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を日本語カバーにして歌ったこともあるし。「ボヘミアン・ラプソディ」をDJでかけながら、舞を見せたりするパフォーマンスもやっていますよ。この人のnoteに詳しいです。 

クイーンは1978年11月に王道ヒットの「ドント・ストップ・ミー・ナウ」などが入った「ジャズ」を発表。

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1979年6月にそれまでの集大成のライブアルバム「ライブ・キラーズ」を出しますが、この頃に転換期を計っていたようですね。

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テクノ・ディスコが、スパークスとクイーンを変えた

スパークスのほうは、そのちょっと前、1979年3月に、またまた音楽性を大転換、ドイツでテクノ系プロデューサーの第一人者ジョルジオ・モロダーと組んで、これまであまり使わなかったシンセやコンピューターを導入し「No. 1 in Heaven」というカッコいいディスコ・アルバムを発表、これはヨーロッパで高い評価を得ます。当時、日本盤は出なかったんですが、輸入盤としても日本でもけっこう売れてたようです。

73年の「キモノマイハウス」以来の代表作となるヒット。本人たちがジャケット写真に登場してないほうが売れるのです。(この後はずっと本人たちのジャケというフラグw)

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翌、1980年1月にもスパークスはジョルジオと組んだ「Terminal Jive」をリリース。ややメロウになりつつ、テクノディスコ路線を継続しました。特にフランスでかなり売れたようでした。変わらぬダイナミックなボーカルと大胆なテクノビートの絡みが、その後のテクノ・ニューウェイブ系を目指すアーティストの指針ともなりました


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映画では「ジョルジオが忙しくて他の人ともやった」みたいな言葉がありました。レコードのクレジットでは他に、当時ジョルジオのスタジオにいて、後に映画音楽の巨匠になったハロルド・フォルターメイヤーの名前もあるんですが、映画の中では2ヶ所、当時のスタジオ録音風景で卓の前にいる人の写真を見ると、後述しますエンジニアのMackでは? と思いますが? テロップがない! どうでしょう?

この1980年頃、ポール・マッカートニーがシングル曲「カミング・アップ」(これもポールがテクノに挑戦ぽい)のMVの中で、ロン・メイルのモノマネをやっているのも、ちょっと話題になりました。これも映画でネタになってましたね。

この人のブログに詳しいです。

一方、クイーンは、80年6月にディスコ路線に傾くきっかけとなる「地獄へ道づれ」を含む「ザ・ゲーム」を発表。

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なんと、この頃から、当時ジョルジオ・モロダーのスタジオにいたエンジニア&プロデューサー、ラインハルト・マック(通常の表記はただのMack)が、クイーンのレコーディングに参加するようになります。

同年末の映画「フラッシュ・ゴードン」のサントラなどでも、シンセを導入しはじめます。(70年代のアルバムにはわざわざ「NOシンセサイザー」とクレジットしてたのに)

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1981年6月、スパークス10枚目のアルバム「弱い者いじめ」(また日本盤が出るようになる)では、プロデュースがジョルジオから、Mackになりました! 曲もディスコというより、コンパクトなニューウェイブスタイルになっていく。この時期から、またバンドスタイルでツアーも頻繁に行っています。

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クイーンのほうも、1981年10月のデヴィッド・ボウイとのコラボ「アンダー・プレッシャー」を発表。これもMackが関わる打ち込みサウンド。

さて、スパークスのほうは、1982年3月にリリースの11枚目のアルバム「パンツの中の用心棒」も、続いてMackのプロデュースです。

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音もよりシンプルなテクノポップバンドのようになって、この頃すでに10年以上のキャリアなのに、イベントで若手や新人と混ざっても違和感のないフレッシュさがあった。そこで、かえってベテランの大物感も失ってしまったのか・・。まあ、それは必要なかったのかも。

クイーンのほうも、さらにディスコ、テクノ色を強めた、1982年5月の10枚目のアルバム「ホットスペース」

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と、ぐんぐんシンセ、コンピューターの分量が増えていきますが、これらもMackがクレジットに名を連ねています。
Mackがフレディを語るインタビュー。↓ 

Mackがスパークスを語ってるのは読んだことないので、知ってる人は教えてください)

1983年4月、飽きっぽいスパークスは、今度はMackとは決別し、セルフ・プロデュースで「イン・アウター・スペース」を出します。さらにミニマルなテクノポップという感じ。

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80年代のスパークスはMVも多く作るようになりましたが、ユーモア第一で楽しませてくれるところが、ネタ物バンド、という印象も与えて、歌詞の裏側に潜む強烈なアイロニーや哲学性にも気づかれずに評価を受けにくくしたかもしれない。(これも映画を見たら、レッチリのフリーがほとんど同じようなコメントをしていて驚いた! わかる人はそう思うんだ。。)

↑ ゴーゴーズのジェーン・ウィードリンをフィーチャーしたシングル「クールにキメテ」は、かなりヒットしたのが映画でもわかります。

1984年1月、クイーンはかなりテクノに寄せたメガヒットシングル「RADIO GA GA」に続いて、アルバム「ザ・ワークス」を発表。これもMackが全面的に関わっています。

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同年9月に発表された、1927年の映画「メトロポリス」を再構成したサントラアルバムでは、ついに御大・ジョルジオ・モロダーのプロデュースでフレディ・マーキュリーが歌いました。

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映画「ボヘミアン・ラプソディ」では失敗作とされた、1985年のフレディのソロ「MR.バッドガイ」もMackがやってますw(佳作なのに・・)

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まあ、Mackもジョルジオもいろんなアーティストと並行して仕事はしていますけど、この80年代からのクイーンのテクノ・ディスコ系への変遷の中にも、一部の識者の間では「・・もしか・・して・・スパークスから、ヒントを、得て・・か・・多少の、影響は受け・・て・・いるのでは?・・」というような評価もあったようなのですが、さだかではありません。はっきり言及された評論はあまり見た覚えがないのですが、知ってる人は教えてください。

なんか映画を見た印象では、ジョルジオが熱くスパークスを語ってるのに、Mackにはインタビューせず、スパークスも言及してないのが解せない。。ここが「スパークス・ブラザーズ」最大のミステリー。

1970年代にロック・オペラで競い合った同世代のバンドが、1980年代にギターロックからエレクトロへの変遷をたどるにあたって、同じプロデューサーを交互に使ってるのに「あいつら、どんな音使ってた?」て意識する会話をしてない、とは考えられない気もするけど〜。

ぼくの仮説では
1.スパークスにとってMackは有名でもないし、ジョルジオの代役でしかないので思い入れがない。
2.Mackにとっても、スパークスよりクイーンのほうがメジャーだしお金もくれたし、いい思い出いっぱい。
3.クイーンのことも大好きなエドガー・ライト監督が忖度して、こういう比較論にならないよう、映画ではクイーンの話題を避けた。
4 上の理由どれかか、その全部。

え〜、その後、80年代後半以降からの、30数年は省略しますが、スパークスに関しては映画のほうに、そのへんの歩みもすべて詳しく描かれています!

クイーンはご存知のように、ライブエイド、フレディの急逝から、再結成や映画の制作を経て、今もさらに名声を高める不滅のレジェンドとなりました。

スパークスもそこそこの売れ方ながら、活動の歩みは止めないまま、常に時代を先取りした現役感のある作品を発表しつつツアーをやり続け、90年代以降は日本公演もたびたび行っています。もともとプライベートでもよく来日している、日本文化びいきです。

ちょっと洋楽強い方なら、2015年のサマーソニックで、フランツ・フェルディナンドとのコラボ・ユニット「FFS」として来日公演を行ったのを憶えてる方もいるでしょう。

● 岸野雄一くんも、海外までスパークスを追っかけで見に行ってたおっかげで、その後、憧れのメイル兄弟ともすっかり親交を深め、来日時には公演の協力や、観光案内したり、スパークス本を作ったり、自分のイベントにゲストに呼んだりしています。ぼくも打ち上げや飲み会に呼んでもらって会えたことあるよ! よかったね!

と、上のツイートは、エドガー・ライト監督との会話のようですが、この時の様子も「スパークス・ブラザース」には出てくるね!「アネット」も公開されて新たな伝説も生まれるかね! 「ボヘミアン・ラプソディ」ほどには絶対ならないでしょうが! 将来も地上波テレビ放送はされないだろうし!

専門家である岸野くんがスパークスについて、特に歌詞の内容などに、さらに詳細に語っているコラムも勉強になるので合わせてお読みください。(参考に貼ってある動画がいくつか削除されてて、やや切ない)

しかし〜、これからは、70〜80年代のクイーンとスパークスの代表曲を交互にBtoBでかけるDJイベントとか、Spotifyのプレイリストを作ってみたりしてもいいかもね! 誰か適当にやって!(適当)

2022年4月19日 かとうけんそう

■ スパークスの2本の映画については、さらに掘り下げてSNSの書き込みも反映させたnoteを近日中にまとめたいと思います!

■ ぼくより詳しい方がいらっしゃったら、間違いの訂正、情報提供、あらたな補足ください! いつでもフィードバックして、また文章を修正・追記します!


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