お布施
「お布施」と聞くと、何を思い浮かべるであろうか。葬儀などの法事の際に僧侶に包むもの、という認識の人も多いのではないだろうか。もちろん、それも間違ってはいない。ただ、「お布施」は単に法事のサービス料金というわけではない。
そもそも、布施とは、人にものを恵むこと、である。物質的にも精神的にも全てにおいて、「恵まれている人」というのは決して多くはない。その人の恵まれないものを恵んでやることが、本当の布施なのである。
布施というのは「布を施す」ということで、「布施」というようになった。本来、衣というのは布をどこかで買ってくるのではなく、赤ん坊を受けるのに使った布など、傷んでないけれど捨てられるような布を集めてきて、綺麗に洗って、使える部分を切って繋ぎ合わせて衣にした。このとき、使えるものの捨ててしまうような布を出家者に施したのである。この布施は、六波羅蜜行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)のなかでも、随一の功徳をもつ行とされている。観音さんなどの「菩薩」はこの恵みの行を励んでいらっしゃるのである。ただ注意していただきたいのは、布施は決して、お金やモノだけではない。布施は三種類に分けられる。
一つ目が「財施」である。これは、お金やモノなど物質の布施。おそらく、これが一番わかりやすいものだろう。むしろ、布施=財施と認識している人もいるのではなかろうか。
二つ目は「法施」。これは、精神的な布施である。名前の通り、法を施すことである。法というのは、「教え」のこと。わからないことを人に教えてあげるのも、間違った人を正しい道に導くのも、とにかく精神的な糧を与えてあげるのは全て法施である。
三つ目は「無畏施」である。これは名前の通り、無畏の施し。つまり、人々を畏怖から救うこと。人々は現世の生活の中において、不安な生活をおくっている。この生活の不安を除去してあげるのが無畏施である。
金銭や財産に恵まれない人は世の中に大勢いる。今の日本ではあまり見かけないかもしれないが、飢えた人には何か食べものを与えなければならない。ただ、世界中の飢えた人全員に食べ物を与えようとすれば、ほぼ無限に財を持ち合わせていなければならない。われわれは、実際問題、飢えた人全員に食べ物を与えるなど限りなく不可能なのだ。今の物質的に豊かになった日本においては、なかなか想像することができないであろうが、外国に行けば、貧困で飢えで苦しんでいる人はこの現代においてもまだ多く存在する。
それに対して、「法施」というものは際限なく行うことができる。しかも、「法施」は功徳甚大であると言われている。
ただ、これだけでなくさらに重要なのが「無畏施」である。世の中の人々は、常に様々な不安ごとを抱えている。悩みや不安というのは人それぞれ違う。仕事の問題から家庭の問題、さらには恋愛の悩みごとなど、大きなものから小さなものまで実に多様である。しかし、他人から見たときにどれだけ小さな不安に見えたとしても、本人にとってはものすごく大きなものであるかもしれない。悩みや不安の大きさは、外からは計れない。たとえ、かなり財産に恵まれた家庭(現代でいえば、医者や大企業の家)に生まれて、貧困という言葉と無縁の場所で生まれ育ち、知識、教養、人格ともに備わった人であったとしても、不安や悩みがあれば、安寧な生活をおくることはできない。
これらの布施を表すのに、いい熟語がある。現代でもよく使われる「慈悲」という言葉だ。この「慈悲」、正確には「大慈大悲」といって、「大慈」と「大悲」に分けられる。『智度論』に意味が書いてある。
財施や法施は「大慈」にあたり、無畏施は「大悲」に相当するだろう。ちなみに、大仏さまの手も、まさに「慈悲」を表している。大仏さまの左手は「与願印」といって、人々の願いを叶えてくださるもの。まさに、与えてくださるもの。一方の右手は、「施無畏印」といって、無畏の施しをしてくださるもの。不安や悩みを取り除いてくださるのだ。これで東大寺の盧舎那仏、「慈悲」を示してらっしゃるのがお分かりいただけただろうか。
ちなみに、無畏施をされる仏さんとして有名なのは「観音さん」である。昔から、観音さんは「施無畏の聖者」と呼ばれてきた。『観音経』の中に「是の観世音菩薩はよく無畏を施し給う」とある。今日、18日は観音さんの縁日である。ぜひ、『観音経』を読誦して、この部分を見つけてみてはいかがだろうか。
上でも述べたが、どれだけ恵まれた人でも不安や悩みはあるだろう。実際、お釈迦さんは特に悩みが多かった人である。釈迦族という王家に生まれたプリンスであっても、そこは他の人々となんら変わらないのだ。だからこそ、施無畏の聖者である観音さんが、この現世において渇仰されるのはごく自然のことではないだろうか。
私も東京にいるときは、観音さんのように無畏施の活動を六本木あたりでやっていきたいなと思っている。六本木は、金銭的にはそれなりに恵まれているが、不安や畏怖を抱えている人が集まる場所でもある。まさに、日本で一番、無畏施が渇望されている場所だと思う。なので、たとえ私を六本木で見かけたとしても、それは決して遊んでいるわけではないので安心して欲しい。
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