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生死の苦海と観音さんの救済

 以前、こちらの記事で「観音さんは「施無畏の聖者」と呼ばれてきた」と書いた。今回はこの施無畏の聖者である観音さんについて記したい。だが、その前に、仏教の基本的なところからおさらいする。

 そもそも、仏教の出発点はペシミズムであると言って間違いはないだろう。それは、お釈迦さんの「四門出遊」の話からみてもわかるとおりである。つまり、我々は煩悩によって生死の苦海に沈淪しているのである。

 このことを、譬喩(比喩)をもって説いているお経がある。

「旅人が果てしなく広い野原をさ迷っていると、太陽もかくすほどの大きな象が火のような口から牙をむき出して嵐のようにその旅を襲いました。旅人は恐れおののいて一目散に逃げ回りましたが、逃げるところはもちろんのこと、隠れるところさえありません。今にも食いかからんとしたその刹那、見つけた!それは空井戸でした。そこへ入ろうとしましたが、すぐ飛び込むわけにはいきません。おろおろしていると、そこに都合よく藤の蔓が井戸に垂れていました。ああこれ幸いと蔓をつたい、やっとの思いで象の牙から逃れることができました。それでも上から牙をむき出して唸り立てています。それが恐ろしいので蔓をするすると降りていきました。何気なくそっと下を見ると驚くなかれ、毒蛇が人並みとばかり長い舌をペロペロとして待ち伏せている。また大あわて、中ごろまでつたい上がってヤレヤレ。ところが体が疲れてきたので何とか休む方法はないかと思って井戸の縁に足を踏ん張り、体を楽にしようとして足を出そうとした。とたん四隅にあるのは草だと思っていたのが皆、猛毒を持った蛇とトカゲです。ああ恐ろしや、と足を引きしりぞけ、ただこの蔓一本だけが私の命の綱だとあきらめて一生懸命ぶら下がっていると、この綱を二匹の黒と白のネズミが出てきてかじりだした。さあ大変、いつかはこの命の綱も切れる時が来る。下には毒蛇が頭を上にもたげて待っている。上には象が牙をむいて今も吠えている。気も遠くなるばかりの恐ろしさに心をもんであせっているところへちょうど口にポタリポタリ。それはとても甘い甘露が落ちてきた。そんな心配も忘れて思わず舌なめずりをした。またポタリ、五滴落ちてくるうちにすっかり旅人は今迫っている恐ろしさも、自分の苦悶も忘れてその甘露の甘いのに気を奪われてしまいました。その蔓についている蜂の巣から一滴も多くの蜜を落とそうと蔓をゆする旅人でした。」

『仏説譬喩経』

 ここに出てくる旅人は、まさにこの世の中をさ迷っている私たち凡夫のこと。大きな象は、いつも私たちの背中に迫っている無常をさし、空井戸は生も死も入っている壺、つまりこの世の中を表している。下に待ち伏せている毒蛇は、無常の影である「死」が口を開けて待っている。四隅にいる猛毒を持った蛇とトカゲは、「四大」といって我々の体をつくっている地水火風を指す。その四つが整っている間は健康である。また、二匹の黒と白のネズミは、時間の過ぎてゆくさまを、夜と昼を黒と白で表し、それがいつかは命の綱を切ってしまう。甘露(蜂蜜)は人間本来の欲望で、それを貪っている姿を表しているのである。我々の人生というのは、まさにこの旅人のようなものであろう。

 「来年のことを言えば、鬼が笑う」という表現があるとおり、実際、無常という運命にある。明日どうなるかわからない。そして、必ずいつかは死が待ち受けている。さらに、その死までの間にも、病気、苦痛、その他様々な苦しみに悩むことになる。その苦しみに悩まされている間にも、我々の命は、昼夜をわかたず刻々と減らされている。ただ、その中で我々は寸時の偸安享楽とうあんきょうらくを貪っているにすぎないのである。

 無常や四苦八苦という苦しみの中で、欲楽を求め、煩悩に乱されている。これが、まさに我々の日常ではないだろうか。無常や死、その他様々な苦しみを通して、我々の本当の相を見ることを忘れ、甘いのに気を奪われてしまった旅人のように、欲楽の日常に執着している。四苦八苦とは、生・老・病・死という四苦に「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の四つを加えたものである。

「愛別離苦」
 愛するものと別れなければならない苦しみのことである。これは、恋愛でも少なからずあることだろう。たとえ、一生の伴侶だとしても、最後は「死」が二人を分つのである。


「怨憎会苦」
 これは、生きていればいろんな人に出会うもの。自分と気が合う人もいれば、そうではない人もいる。そのような会いたくない人とも会わなければならない苦しみというのが、この「怨憎会苦」である。

「求不得苦」
 欲しいのに得られない苦しみである。思春期など、まさに求不得苦の苦しみに溢れているのではないだろうか。思春期だけに限らず、人は富や名声、権力といった様々なものを求める。けれども、求めたからといって必ず得られるとは限らない。それが得られなかった時に苦しみを生じる。それがこの「求不得苦」である。

「五蘊盛苦」
色、受、想、行、識という人間の身体や心を形成する五つの要素=五蘊が盛んになることによって生じる苦しみである。

これ以外にも「三苦」というものもある。これは、「苦苦」「壊苦」「行苦」の三つである。

「苦苦」
 苦しい環境から生まれてくる苦しみ。

「壊苦」
 楽しい環境が壊れるときに生じてくる苦しみ。「歓楽窮まって哀愁催す」という言葉のとおり、現世における楽しみというのは永続しないのである。その楽しみ、歓楽というのが壊れた時、尋常ではない苦しみを覚えるものである。人間は新しく手に入るよりも、失う時の苦しみのほうがはるかに大きいのである。

「行苦」
 平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とあるが、その諸行無常、万物流転することによって生じる苦しみが、この「行苦」である。この刹那の儚さに苦しみを味わうもの。

 このように、我々の生きている世界というのは、苦しみに溢れている世界であるということがお分かりいただけたのではないだろうか。どれだけ人生を謳歌している人であっても、苦しみとは無縁であるように見える人であっても、最後には皆、平等に死というものが訪れるのである。

 この世に生きるということは、これだけの様々な苦しみの中に生きるということ。まさに、生死の苦海に沈淪しているのである。

 私ははじめに「仏教の出発点はペシミズムである」と書いた。そう、あくまでも出発点なのである。

 確かに仏教の人生観は、この悲観的な苦しみの世界、まさにペシミズムから始まるのであるが、この苦しみの世界のまま終わるわけではない。苦しみを誤魔化すかのようにして、欲望にまかせて貪るのではなく、本当の楽なる境地を目指し、そこに安住するというのが仏教の目指すものである。

 耳障りは良いが、これが実に大変なことである。本当の楽なる境地=真の楽天地というのは、決して人生を捨てたところにあるわけではなく、心の持ち方にある。苦しみの世界、この人生観に徹したとき、迷いがなくなり、卒然として真の楽なる境地が眼前に展開する。

 あの和歌で有名な西行の歌にこのような歌がある。

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ

 生死の苦海に沈淪していることから目を逸らすことなく向き合い、その苦しみを認め、人間の「あさましさ」をみつめる。この「あさましさ」を覚えることが、一つの宗教的自覚というものであろう。まさに西行の歌は、この宗教的自覚によるものと言えるだろう。「寂滅為楽」というのはまさにこのことである。さらにこれが、やがて菩提心に繋がっていくのである。

 多くの人は、この生死の苦海に沈淪している自分を見ると、おそらく救いを求めたくなるのではないだろうか。大慈大悲の観音さんは、これらの救いを求める人に手を差し伸べるのである。菩提心を起こす人は、仏、菩薩の教えや加護により苦海を脱することができる。これを「解脱」と呼ぶ。仏教では、基本的にこの「解脱」を目指すのである。

 人々が慈悲の観音さんの救いにあずかるのは、正しく解脱を得るためである。観音さんは慈悲の手によって、人々の苦しみを救いつつ、生死の苦海から人々を引き上げ、解脱させようとして下さっているのである。

 逆に、生死の苦海に沈淪していることから目を逸らし、自覚しないまま、目の前の苦しみからのみ逃れるために、観音さんの救いをいただいた場合、それは、観音さんの慈悲の本誓ではない。

 この生死の苦海から脱して本当の楽なる境地に安住せしめようとしてくださっているという、ありがたい本当の慈悲を見失って、観音さんの救いを求めることは、儚い功利的な観音信仰に陥ってしまっているのである。

 この記事内において「生死の苦海」という言葉を意識的に多く用いているが、これは観音さんが慈悲の救いの手を差し伸べるのは、我々人間だけではないからである。この生死の苦海に沈淪しているもの、全てが観音さんの慈悲の救いの対象なのである。つまり六道と呼ばれる、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天に輪廻しているもの、全てが観音さんの慈悲の救いの対象となり得るのである。天上界は人間界に比べたら、それははるかに素晴らしい世界であろう。ただ、それでも決して解脱はしていない。生死の苦海から抜け出せてはいないのである。観音さんは、その天上界から地獄にいたるまで、全てのものを救うために、以下の六観音として出現される。

  • 千手千眼観音・・・地獄

  • 聖観音・・・餓鬼道

  • 馬頭観音・・・畜生道

  • 十一面観音・・・修羅道

  • 准胝観音・・・人間

  • 如意輪観音・・・天

 これらの六観音は、あくまでも衆生済度のために身を変じておられるだけであることを忘れてはならない。本体は同じである。では、これらの六観音の本体は何かというと、それは聖観音である。この聖観音に対して他の五観音は、それぞれ必要に応じて救いの働きを表されている。

 千手千眼観音は、大悲心から千手千眼を現ぜられ、衆生を自由自在に救う姿。

 馬頭観音は、無量寿の忿怒身といわれ、頭に馬を頂いている。この馬は四州を統宰するといわれる転輪聖王の宝馬が、四方を馳駆して何物をも威伏するように、人々の無明をことごとく摧破する姿を象徴している。

 十一面観音は、衆生の十一の種々の無明を断尽して仏の悟りを開かそうとせられる観音の深き慈悲の姿。この観音の頭上に頂いている十一面は、各々異なった面相をしておられる。

  • 前の三面は、慈悲の菩薩の相

  • 右辺の三面は瞋怒の相

  • 左辺の三面は、微笑の中に白牙を露出され、

  • 後ろの一面は呵呵と笑う、いわゆる暴笑相

  • 頂上の一面は仏の面相

これらの面相は、それぞれ重要な意味を持っている。

  • 観音さんが慈悲の功徳を成就せられた相

  • 観音さんが度し難い衆生の悪心を摧破する猛利な相

  • 観音さんが慈悲の御心の中に衆生の善心を賞でる相

  • 観音さんが慈悲の事業を自在になされる相

  • 観音さんの本体たる仏の相


 准胝観音は、准胝仏母とも七倶胝仏母ともいわれる。大慈大悲の諸菩薩は一つにこの観音さんの心を母として生まれてくるといわれている。実にこの観音さんは広大無辺な徳をそなえておられる菩薩である。

 如意輪観音は、意のままに衆生に法を説き、自在に衆生を救い、無限に衆生に利益を垂れる相を表している。それぞれ必要に応じて救いの働きを表されていると書いたが、まさに六道それぞれに適した救済手段を表しているのである。また、如意輪観音をもって六道の全てを救う観音とする説もある。
如意とは如意宝珠のことであり、意のままに種々の欲しいものを出す宝珠である。輪とは、法輪のことで、法輪とは説法のことである。この如意輪観音さんは、手に如意宝珠を捧げておられるが、これはすなわちこの観音さんが自由自在に救済事業をせられることを象徴しているのだ。また、この観音さんは六臂、つまり六つの手を持ってあるが、これはそのまま六道を救う手である。

 このように、観音さんはたくさんいらっしゃるが、全て、我々をこの生死の苦海から引き上げようとされているお姿を表したものである。いかに観音さんが衆生済度に徹底していらっしゃるかというのが分かっていただけただろうか。今日は観音さんの御縁日である。ただ、この観音さんの慈悲に甘えるのではなく、まずは我々自身が生死の苦海に沈淪していることをしっかりと自覚する、そんな日にしていただきたい。

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