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ぼくらはみんなADだった(日テレはYD?)

今日はちょっと趣向を変えて(しかもルーティンの薄いウイスキー飲みつつの無礼講をお許しください)


今日のように東京で大雪が降った
20年くらい前。


その日は不思議と寒くはなかった。

テレビの制作会社に勤め出した頃だった。

若さの一点が誇らしかった、弱い、金ない、発言力などカケラもないけど無敵だったあの感覚はなんだったんだろう。

まだデスクでタバコが吸える最後の時代。東京の呪文のような駅名にようやく慣れ、タクシーで指示できるくらいに地名は覚えた。

情報番組のADについた。
今もなんとなく続いている長寿番組だ。(そう考えるとすごいな)

仕事といえば、ロケを終えた先輩たちのベーカムを
VHSに永遠と落とす作業。
(なんでかは省きますが)
それを永遠と繰り返してはプレビューする”起こし”と言われる文字に変換する作業が僕らADの日常。ぶれることのないメインの仕事。

ちなみに現代ではADさんが得意げにグーグルを使って起こしている。
これが素晴らしい。本当にすごい。あっちゅうま。もっと早く欲しかったと全員が口にしていると思う。画期的なやつです。

子供の頃から映画や映像好きは、なんの躊躇もなく
なんとなく制作会社に入った。

でかい業務用の機械を一人で占有できる孤独な深夜の作業は好きではなかったけど嫌いでもなかった。

ちょっとしたおつかいやパシリも多かった。
ひどかったのは編集の日、僕は特番班というところに長らくいたので
大作の編集は三日徹夜が続く。
二日目には大体みんな中華や蕎麦屋など定番の出前に飽きだす。
わがまま言うやつが多い。仕方ない聞いてやるADだから。

困ったのは今でも鮮明に覚えているけど
フェアレディZに乗っていつも仕事先に来る色黒のPだ。


あいつは毎回、僕に言う。

「お茶漬けが食べたい」


僕は嫌いな体育会系を装い言う
「お茶漬け、行きますか!」

速攻でコンビニに電子レンジでOKな例のご飯とお茶漬けの素を購入して手際良く割烹料理屋のように編集室を出たところにある休憩所で作る。
そして編集室の長いソファーのなんとなく決まっているその人たちの場所に慣れたCAさんのようにそれぞれの場所へ置く。

今、それはおそらくパワハラだろう。いやもう形を変えたセクハラかもしれない。娘や妻にその話はできないししていない。

ただ絶望する気にはなれないほどやることが多かった。
走っていた記憶がある。でも不思議と余裕もあった。
プライベートでは年上の彼女を作ったり、おしゃれな古着屋にも良く行ってたしアメリカ人の陽気な友達もできたり東京ライフを満喫していた。
給料は無茶苦茶安かった。
一人暮らしは行き詰まるので彼女とルームシェアしてなんとか凌いでた気がする。今思うと贅沢すぎるパワーが無駄に備わっていたとしか言いようのない日々。

楽しかったこと。
それは周りにいる1くらいは尊敬できる先輩の人の話を勝手に聞いたり、
時には会話して普段何を考えているかを知れることだった。
それは病みつきになる感じでやめられなかった。
くだらないが9割だったと記憶している。

”上手なさぼり方”
”結婚相手の探し方”
”昼間のおすすめ風俗店”
”なぜこの仕事をしているか”
”人生の目的”
”将来の夢”
”中古車の買い方”
”全てはカラダが合うかどうか理論”
”適当でもロケが成立する方法”
”なぜ私は毎日着物を着ているか”
“趣味との向き合い方”

などキリがないほど。

今、こういう風に書いていると自分でも笑ってしまうほど昔感が強い。

けど続けますね。

大人が真剣に働いている、それはなぜなのかに興味があったのだろう。
少年が社会と肌で接した始めての感覚。

いつしか、ADは卒業した。なんの前触れもなく。
卒業試験などないのがこの業界の掟。
お茶漬けは遠い過去の切ないがキュートな思い出となっていった。

そして年月は恐ろしいスピード感で過ぎ去り、北朝鮮の極超音速ミサイルのよう。極って超の上らしいです、センスがすごい誰?防衛省?笑


現代のADさんとたまに接すると僕と同じような感覚の人も中にはいるのか確かめたくなる。
ただもうあまり話すことも憚れる。なんというか難しい表現だが
次元が違うような気がするから。

僕らの時を考えると働き方改革という
根本を勘違いしてる経営者さん多数法により
余計にADさんとは呼べないADさんたち。(悪い意味はないです)時代です。
でもそれはよかったねと同時にちょっとかわいそうだなと僕は思う。
失敗しても許される時期(死ねと言われるが会社はやめなくてよい)
何より先輩方の思考分析チャンスが豊富にあったからなんだろう社会人としてのクッションみたいなものができた

ような気がする。ほんとう気がするだけ。

業務内容はスマートになり残業はない。コロナの影響もあり飲み会もない。アフターファイブが充実する職業になった。よかったね...

一方で、局員やら強豪制作会社による
ADカースト制度はうっすらといまだに残るが...


オワコンと言われる業種に入ってきた
若いテレビマン・ウーマンは何を考えているのか興味ばかりが湧き
おっさん同士の飲み会ではあれやこれやと話すけれども。
まあ、何かを若い人たちに求めるのも違う。
ましてや自分の思い出に照らし合わせるのは失礼。いろんな人がいつの時代もいる。
若いも一括りにはできません。

好きにしたらいい、とだけ心の中で思う。いつの時代も先輩後輩の関係性は多分そんなもんだし。時代の流行り廃りノリもあるだろう。
ただ新年の挨拶ぐらいはしようよ。とこれもまた心の中で思うだけ。


20年前の東京も大雪だった。

遅い深夜の帰り道、道路はマジで凍っていた。
大阪より東京の方が北にあると初めて感じた日でもあった。

当時付き合っていた年上の彼女と駅の近くのコンビニ・スリーエフで待ち合わせ。
坂を下ったところにある当時住んでいたボロアパートへ向かった。

彼女は九州出身で武蔵野美術大学を卒業したばかりのフリーター。
真っ黒な長い髪が特徴でアジアっぽい目鼻立ちをしていた。そう、絵描きのカナちゃん。
彼女の描くキリンの絵に感動したことを覚えている。

そんな絵が上手な彼女と
信じられないくらい真剣に何度も何度も坂道を滑って転んだ。

痛かったけど、笑っていた。
いや腹を抱えて大笑いしていた気がする。


いま、僕は同じ状況で笑えるのかな。きっと腹を抱えて大笑いはできない。
心の中で思うだけにしておこう。

ADよ好きなだけ好きにしろ。





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